第一話 天翔ける竜
ふっと地面が暗くなる。雲一つない、清々しく晴れた空のはずだった。燦々と降り注ぐ太陽の下に出来た影を不審に思い見上げると、そこには青い竜の巨大な姿があった。
「あー、ドラゴンさんです! 久しぶりに見かけましたねー」
新緑の色増す五月中旬の下校時。満面の笑みと共に大きく目を見開き、珍しい深紅の虹彩を持つ瞳で空の影を追う。ふと思い立ち、制服のスカートのポケットに手を突っ込んだ。慌てて取り出そうとして引っかかり、暗赤色のチェック柄の布地がひらひらと揺れる。
パシャリ。視界の外に消える前に、なんとかスマホの画面に捉えてシャッターを切る。同じ方向を見つめる氷青色の瞳が一対。その持ち主であるもう一人の少女の声が、心の中に響いた。
〔本当ね……どうしてこんなところにドラゴンが……?〕
胸上まである真っすぐな黒髪を振り回しながら、深紅の瞳を声の主の方に向ける。パチパチと瞬きをしながら、一緒に下校してきた親友に問いかけた。
「あれ? あーちゃん、もしかして今の見えてました……?」
あーちゃんと呼ばれた少女――アイリスは、感情の籠もらない氷青色の瞳で見つめ返してくる。逆に不思議そうに首を傾げながら答えた。
「私、何も言ってないけど? 相変わらず桜には、色々なものが視えたり聴こえたりするのね」
声に出して言ってはいない。しかし今アイリスは、確かにドラゴンが見えているかのようなことを考えていた。それは間違いない。桜にはアイリスの心の声が聞こえるのだから。
とはいえ、それは根拠に出来ない。今撮ったはずの写真を表示しようと、桜はスマホを操作し始めた。すると、アイリスはニコリともせずに付け足してくる。
「でもまあ、見えるって言っておいてあげるわ。真っ白で綺麗なドラゴンだったわね」
「青いのだったんですけどー!?」
叫びつつ写真を確認するも、案の定、底抜けに青い空しか映っていない。似た色で溶け込んでしまっているというわけでもない。
(ぐむむむむ、普通の人には見えないし、写らないだけで、触れるのに。ご飯だって食べたし……)
幼い頃、実在を確認した時のことを思い出す。それでも、実際何の証拠が残っているわけでもない。そういった幻想の存在を科学が否定しつつある現代では、誰も信じてくれないのは致し方のないこと。
がっくりと肩を落とし、トボトボと歩き出した桜の頭を、アイリスが優しく撫でる。
「これで今日書くエピソードは決まりね。ヒロインは妄想癖のある主人公との友情のために、ドラゴンが見えるという設定を演じていたことが明かされるお話」
桜が書いてネットに投稿している小説の続きについてらしい。読んで感想をくれと言っても生返事しかしてくれないだけあって、やはり設定を理解していない。お返しにアイリスの白銀の髪を掻き乱しながら、再び叫んだ。
「見える振りもなにも、普通にその辺にドラゴンいる世界なんですけどー!? 見えないとかありえないし、おかしいんですけどー!?」
ドラゴンに跨って戦う竜騎兵が主力の王国で展開される、異世界転移ファンタジー。その世界のヒロインの設定としては、矛盾どころでは済まない。
桜の手からひょいと逃れると、乱された髪を撫でつけて直しながら、アイリスは涼しい顔で反論する。
「あら、だからこそ意外性があっていいんじゃない」
「むむっ、具体的には……?」
世界設定と矛盾が生じるということは、確かに読者には予測がつかないということでもある。桜はその趣旨が気になって、アイリスに顔を寄せて問いかけた。
「普通にドラゴンが実在するはずの世界なのに、何故かヒロインには見えていなかった。主人公が見ているものが幻なのか? それともヒロインにだけ真実の世界が見えていないのか? 現実はどちらなのか、面白い仕掛けになりそうだけど?」
ぱあっと花が咲いたように桜の顔が明るくなる。頭の中でペカペカと電球が点滅する感覚。
「おお、深い! それいただきです! うまくお話に組み込めないか考えてみますー!」
どどどどど、と家に向かって走り出しながら、アイリスの発想について考える。桜の中で、そこから妄想が連鎖的に発生し、膨らんでいって、夜にはしゃぼん玉のように弾けて消えた。
§
「あーちゃーん」
長くなった陽もとっくに落ちて、暗闇に染まった空の下。ベランダの避難用ハシゴを降りて、マンションの階下にあるアイリスの家へと直接お邪魔した。窓の鍵は掛かっておらず、桜はいつも通り勝手に開けて中に入る。
勉強机で何かを書いていたアイリスが、ちらりと視線を送ってきた。桜は既にパジャマ姿。その両手には、スポーツチャンバラで使われるエアーソフト剣。はあっと溜め息を吐いたアイリスは、持っていたシャープペンシルを置いて立ち上がった。
「寝る前の運動に来たのね……」
部屋の隅に置いてあったエアーソフト剣をアイリスが拾うのを待って、桜は左手の剣を肩に担ぎ、右手の剣を突き付けて宣う。
「ふふふふふ、覚悟しやがるんですねー、魔王アイリス・ウォーターズ! 今日こそ村正宗の錆にしてくれちゃいましょう。このドラゴンハートの深山桜さんが!」
「はいはい、魔王魔王。世界を滅ぼしちゃうぞー」
棒読みで返したアイリスが、前に剣を構えて無造作に近づいてくる。桜は意外に素早い動きで周囲を跳ねまわり、両手のエアーソフト剣でペシペシとアイリスを叩く。
「くっ、流石伝説の魔王! 通常攻撃がまったく効きません! こうなったら、桜花一刀流奥義・飄風!」
自作小説に出てくる流派と技の名前を叫びつつ、アイリスに向かって高速に踏み出すと、胴払いをして脇を駆け抜ける。
「やーらーれーたー」
雑な演技で倒れ込む――というより地面に寝そべるアイリス。そのまま死んだようにピクリとも動かなくなる。
「ふっ、魔王アイリス。死んだ振りなんて姑息な手段を使っても無駄ですよ。HPゲージまだ八割残ってるの、ちゃんと見えてるんですからね!」
びしっと剣を突き付けると、アイリスの心の声が聞こえた。
〔桜の小説、そんなゲーム的な設定あったかしら……?〕
してやったり。桜は内心ほくそ笑んだ。熟読こそしていないものの、たまに見てくれてはいる。序盤数話を除き、閲覧数は多くても各話三しかないが、うち一人は恐らくアイリス。
桜がネットに投稿している小説、逸姫刀閃には、一人だけ熱烈なファンがついている。本文より長いことまである詳細な感想を、毎話書いてくれるほどの熱狂振り。感想ページはほぼ二人の世界となっている。もしかしたら、アイリスは嫉妬しているのかもしれないと桜は考えた。
(今日はサービスしてあげちゃいますかねー)
さてどうしようかとアイリスを見下ろした。ドラゴンハートごっこの相手をするのが面倒なのか、表面上は何の反応も示さず、そのまま目を閉じて力なく横たわり続けている。
「ふふふふふ、襲っちゃいますよー? あと二年もすれば、十八禁バージョンだって投稿出来るんですからねー?」
小悪魔な笑みを浮かべて挑発する桜。アイリスは相変わらず穏やかな死に顔のままだったが、興奮した調子の心の声が響いてきた。
〔年齢詐称大歓迎! 二年後と言わず、今すぐ襲いなさい! ……待って、抵抗しないと面白味がないかしら? くっ殺からが定番……?〕
よくもまあ澄まし面のままこんな過激な発想が出来るなあ、と感心しつつ、桜はアイリスの頬をぷにぷにとつついた。北欧系だけあって肌が白く、長い睫毛まで銀色のアイリスは、まるで人形のよう。エキゾチックな雰囲気たっぷりの整った容貌は、桜にとってあこがれだった。
歪めて楽しんでいても反応しないので、ついには肩に届くかどうかの辺りで揃えられた銀髪を引っ張り出す。パチッと瞼が開いた時には、氷青色の瞳が恨めし気にこちらを見上げていた。
「痛いんだけど?」
「痛いってことは、生きてるってこと! さあ、もう一戦!」
二本のエアーソフト剣を構えて桜が催促すると、アイリスは小さく溜め息を吐いてから立ち上がった。そしてまた雑に魔王役を演じながら、機敏に動き回る桜を見て僅かに微笑む。
「それにしても、随分と元気になったものよね。昔はあんなに虚弱だったのに」
そう感慨深げに語るアイリスがここに引っ越してきたのは、もう七年くらい前の話。彼女の方が一学年上だが、毎朝一緒に小学校に通ううち、すぐに仲良くなった。その頃の桜は、休まずに通える週がないくらいに虚弱で、アイリスに心配をかけてばかりだった。
「でも今はこの通り健康そのものですから。あれは病気ではなく、魔法の副作用だったのです!」
アイリスと出逢って、それほど経たないうちのことだった。桜は突然、二週間以上の昏睡状態に陥った。原因は不明。医者も手の施しようがなく、ただ集中治療室で回復を待つしかなかったという。何の病気だったのか、未だにわかっていない。
「そのあとこんなに元気になったんですから、結果的にオッケー! 眼、紅くなっちゃいましたけどねー。これ、ドラゴンハートになったってことじゃないですかねー?」
意識が回復した時には、茶色だった虹彩が深紅に変化していた。それまでの虚弱体質が嘘だったかのような健康体になり、スポーツでもなんでも、やりたかったことが出来るようになった。
桜は、本気で魔法の効果だったのだと思っている。物心ついた時にはもう、他人には視えないモノが視えたり、聴こえたりしていた。傷付いた小さなドラゴンを拾い、匿ったのもその病気の前。確かに手で触れることが出来、あげた食べ物はどこかに消えた。
しかしその話は、誰も信じてくれない。それまでも、周りからは痛い子扱いされていた。虚弱体質もあって、特別懇意にしている友人というのはいなかった。初めて出来た親友が、このアイリス。
「本当にドラゴンハートなのなら、あの空中を走る奥義やってみせて?」
「ぐむむむむ、あ、あれはまだ練習中で……。ほ、ほら、あれ使えるようになるの、異世界召喚されてからですしー」
こんな調子でいじってはくるが、彼女だけは馬鹿にせずに付き合ってくれる。明るく楽しいアホの子として捉えてくれているのが、心の声で伝わってくる。
なので、人並みの理性が芽生えてからは、アイリスの前でだけそういうキャラを演じているつもり。――なのだが、やはり素かもしれないとも自分で思う。
「桜花一刀流破れたり」
無駄に跳び回り続けたツケか、足を滑らせこけた桜。その頭にアイリスの優しい一撃が落ちる。
「ぐはー!! ま、魔界の蟲が肉を喰らいながら駆け巡るような激痛が、身体中を駆け巡ってますー」
大げさに身悶えしつつ、断末魔の悲鳴を上げる桜。それを無表情に見下ろしながら、アイリスがボソッと呟いた。
「『駆け巡る』って二回使ってるから……」
ぴたりと桜の動きが止まる。小説の熱烈なファンにも、よく誤字修正で突っ込まれるような内容だった。
(現実世界にも、発言の修正機能が欲しいです……)
などと下らないことを考えながら起き上がると、ポイポイとエアーソフト剣を部屋の隅に放って、桜はドーンとベッドへダイブした。
「なんかさっきのやつ考えてて疲れちゃったんで、今日はもう寝ますー」
昼間アイリスがくれたアイデア。物凄い勢いで妄想が膨らんだのだが、結局どう足掻いても整合性が取れず、思考回路が焼き切れた。寝る時間にもなったので、少し気晴らしに来た次第。
アイリス愛用の大きな枕を抱き締めてぐったりとすると、桜の予想通りの台詞が、物理的な声と心の声の両方で聞こえてきた。
「自分の部屋に帰って寝なさい。私、勉強してたの。来週から中間テストよ?」
〔こんな美味しいシチュエーション逃すわけにはいかない。添い寝! 一週間ぶりの添い寝!〕
言っていることと考えていることが正反対。いわゆるクーデレ。ただしデレるのは心の中でだけ。それがアイリスという少女だった。デレ方に少々性的な意味合いが強いのは気になるが。
「――って言って素直に帰る子じゃないわね……」
興奮した心の声とは裏腹に、あくまでもクールを装い、弱った表情ではあっと溜め息を吐くアイリス。桜は枕に顔を埋めたまま、意地悪く微笑んだ。
(ふふふふふ、あーちゃん、釣れましたね……。素っ気ない振りして、心の声駄々洩れですよ! たっぷり恩を売って、明日はフレンチトースト作ってもらおうっと)
長い付き合いで、桜の考えそうなことはお見通しなのだろう。まるで返事をするかのように、アイリスの心の声が聞こえた。
〔早起きして、生みたての卵と搾りたての牛乳を取ってくるところから始めないと……〕
心の声が聞こえれば、チョロいもの。お互い嬉しいので、これがウィン・ウィンというやつだと桜は考えた。物理的に何かをされたことはなく、添い寝くらいなら心配はない。
「仕方ないから、ちょっとシャワー浴びてくるわ」
着替えを用意しているのだろう。アイリスがクローゼットを開ける音を聞きながら、桜は考えた。出てきたらどういじってやろうかと。
しかし、アイリスが戻ってくる前にもう、深い眠りに落ちてしまっていた。何を考えたのか、あるいは考えつく前に意識を失ってしまったのか、何も覚えていない。