紙の考察 CASE 3 アルディーシャ・グワラニー
その紙を別の世界から持ち込んでいるバレデラス・ワイバーン本人を除けば、この世界においてその紙の真実に最も近づいているともいえる魔族の将アルディーシャ・グワラニー。
その彼が今の地位を築いたのはもちろん文官時代の功績から始まっているわけなのだが、具体的にどのような功績があったのか?
元の世界ではその頂点に位置する大学から霞が関に進んだエリート官僚。
その手腕は疑いようもない。
しかも、ほぼ掣肘がないというとてつもなく良好な環境。
当然その能力はいかんなく発揮され、多くの場所に痕跡を残しているのだが、その中でも特に有名なものはふたつ。
ひとつは通貨改革。
それまでは銅貨、銀貨、金貨という三種類しかなかった魔族の通過は持ち運びが非常に不便だった。
特に銅貨千枚が銀貨一枚の価値だったことから、その数と重さはそれを主に使用する庶民階級にとっては不満の種だった。
グワラニーはそこに、五銅貨、十銅貨、五十銅貨、百銅貨、五百銅貨なるものを加えて流通させたのだ。
一見すれば、庶民に対する人気取りに思えたものだったが、これは為政者側にも貨幣鋳造で使用する銅の削減など多くの利をもたらした。
実をいえば、魔族、人間を問わずこの世界に存在するそれまでの通貨の価値はすべてその材料の質と量に比例していた。
だから、本来であれば、五百銅貨は一銅貨の五百倍の銅を使う必要があったのだが、実際はどうかといえば、せいぜい数倍といったところである。
つまり、よからぬ企てをしようとすれば、その点を突けばよいわけで、グワラニーがこの策を提案したときに、王が指摘した問題点もそれであった。
もちろんその程度のことは王の言葉を待たなくてもわかっていたことではある。
当然その対策も用意されている。
ひと呼吸おいたグワラニーは、これをおこなう利点を再度強調したうえ、こう言って王たちを納得させた。
「愚かな人間と違い、我が同胞にはそのようなことをおこなって利を得ようとする者などいないでしょう。ですが、それをおこなう者が出るかもしれないと心配されるのであれば、それをおこなった者は全財産没収のうえ一族すべて串刺しによる死罪と公示すればよろしいかと思いますが」
そうして始まった通貨改革の結果がどうだったかといえば、グワラニーの予言どおり。
当然、彼の地位は一気に上がった。
そして、グワラニーの有名な功績とされるもうひとつも、文官トップになる前の時代におこなわれ、紙の値段を大幅に下げることに成功したあの大海賊ワイバーンとの交渉となる。
こちらについては、いわゆる「洋紙」が短期間に魔族の世界の隅々にいきわたることになり、結果として魔族の国から木簡の類はもちろん、羊皮紙にいたるまでほぼ完全を駆逐された。
ちなみに、グワラニーが交渉をおこなう前の状況がどのようなものであったかといえば、彼いわく「安物のコピー用紙」であるその紙の値段は、なんと一枚あたり銀貨十枚。
グラワニーによれば、それは一万円と同等となる。
身分の上下に関わらず記録を文字として残すことを生業にしているようにさえ思える魔族でもさすがにその単価ではそう簡単には手が出せない。
だが、使いやすいうえに、厚みがない分、羊皮紙に比べて保存しやすく、さらに大きさが揃っているので見栄えもいい。
そして、なによりもその色と質感がすばらしい。
そこにつけ加えるならば、本来の値段からは驚くくらいに高いものの、この世界におけるライバルである羊皮紙と比べれば、目が飛び出るくらいの価格差はない。
すなわち、たしかに普段使いには高いが完全に拒絶するほどではない。
それらすべてを天秤にかけた魔族は部分的ではあるがその紙を受け入れることを選択し、金や銀を海賊たちに代金として渡し、結果として自らの敵対者のもとに金や銀が流れていったわけである。
安物のコピー用紙と金銀。
真実を知る者にとってはその交換比率はどう考えてもおかしいその貿易が始まってからそれなりの時間が進んだところにグワラニーが登場する。
それまで幾度となく申し入れをしていたものの、その度に蹴り飛ばされた価格引き下げ交渉。
それが、彼が乗り出したとたんに成立しただけでも驚きだったのだが、その結果としてもたらされたのが銅貨五百枚、つまり別の世界の価値に直せば五百円にまで下がった単価だった。
もちろん、それなりの目論見はあったのだが、それでも結果だけ見れば元の世界でそれがいくらで流通しているかを知る彼としては不満足なものだとはいえる。
だが、元の単価を知らぬ王はその結果に大いに喜び、それまで「高級紙」としてその使用を公的なものだけに限定していた紙の使用制限を撤廃して市中に紙を流し始める。
そして、その後どうなったのかは、どこの家にもごく普通に紙があるという現在の魔族の国を見ればわかるとおりである。
実を言えば、そのふたつはともに彼の専門分野に関わるものではなかったのだが、とにかくこれによってアルディーシャ・グワラニーは文官としてそれまで誰も手にしたことがない地位と名誉、それから権力を手にすることになる。
もちろん多額の報奨金とともに。
……まあ、私にとって寝ていてもできる程度の児戯。
……だが、それでも褒美としてくれるというのであれば断る理由などない。
……当然ありがたく頂く。
グワラニーは恭しく頭を下げながら、黒い笑みを浮かべ、心の中でそう言ったものである。
さて、ここまでは多くの場所で語られており、誰もが知るものなのだが、それとは別に彼はこの交渉中に個人的な目的のためのある罠を仕込んでいた。
彼の目的。
それは……。
この紙がどこからやってきているのかという情報を掴む、つまり、向こうとこちらに出入りしている者を特定すること。
彼はそのために利用したのは、自らが出資している酒場での接待。
そこで、取引にやってきた海賊たちをもてなしながら、少しずつ情報を聞き出していく。
実はこの方法は立場を入れ替えればどこかで見たもの。
つまり、見た目通り堅物である彼自身はともかく、身近では頻繁に起こっていたものを参考にした情報収集のやりかたでもある。
そして、そこでわかったこと。
それは、彼らが扱う商品である紙は彼らの長であるバレデラス・ワイバーンが個人的に仕入れており、幹部を含めて他の者は一切関わっていないということだった。
さらに、「内緒の話」として聞かされたのは、それ以外にもバレデラス・ワイバーンは同じ場所から多くの魔道具を調達しているという情報だった。
……隣の船と自由に会話ができる魔道具?
……電話か無線機ということか。
……両目で見る望遠鏡や魔力を封じた箱によって使用できる夜でも見える望遠鏡。
……まあ、こちらは間違いなく双眼鏡や電池式の暗視スコープだろうな。
……確定だ。
……そのバレデラス・ワイバーンという海賊の親分があちらとこちらを行き来している者だ。
グワラニーはさらにその歩を進めるためにある罠を張る。
いかにも、王に忠実な文官を装って。
「バランキージャ殿。少々お願いがあるのですが……」
今回の取引の海賊側の責任者としてやってきたサンダリオ・バランキージャに酒をすすめながら、グワラニーはそう切り出す。
「実は、いつも頂いている紙の大きさとは違うものは手に入らないかという要望がある方より届いているのですが、この要望は叶うでしょうか?」
「……ある方?」
「誰とは申し上げられませんが……」
バランキージャは自らが問い直したものに歯切れの悪い言葉を返した同族の若い男を眺める。
……言葉だけで考えれば、直属の上司や親族の可能性もあるが……。
……公私混同……特に裏から手を回して利益を得ようとするものに対しては断固たる姿勢をとるこの男に限ってそれはありえない。
……つまり、ある方とはこの男の組織の最高権力者。
……すなわち王。
……だが、王の要請を簡単に断られることは色々な面で差しさわりがある。
……そこで、このような言い方になったのだろう。
バランキージャは、グワラニーの日頃の言動からそう推測した。
もちろん文官仲間から頻繁にやってくる裏ルートから商品を手に入れたいという申し出をグワラニーが門前払いにしている事実は間違いないのだから、バランキージャがそう考えるのはおかしなことではない。
だが、今回のこれに関してはその推測はハズレだった。
つまり、バランキージャは彼の罠に嵌ったのである。
もっとも、グワラニーに言わせれば、自分は王とは言っていないのだから、騙しているわけではいないということになるのだが。
……お互い大変だな。
実は大いなる勘違いなのだが、とりあえず彼の中では似たような立場の相手を憐れんだバランキージャが口を開く。
「この場でそれについて答えるわけにはいかないが、要望だけは聞いておこう。いったいどれくらいの大きさを所望しているのかな」
「……まず」
そう言ってグワラニーは、手元にあるA4サイズの紙を二枚並べる。
「ひとつ目は、この大きさ。さらに……」
グワラニーはさらにもう一枚そこに加える。
「……通常の三倍のものということか?」
「そういうことです。さらに……」
「まだあるのか」
「実は、少し赤味を帯びた紙など色があるようなものが欲しいという要望もあります」
「わかった。確認はするが、叶うかどうかは私にもわからん。それは事前に伝えておくべきだろうな。そのお方とやらに」
「ご配慮ありがとうございます」
そして、二日後それはやってくる。
「……ありがとうございます。では、数がまとまり次第注文させていただきます」
いつもどおり完璧な返答をしたグワラニーが手にした海賊からの答え。
それがこれとなる。
「残念ながら三倍の大きさのものは難しい。だが、それ以外の要望は叶うとのこと。ちなみに、色は薄い赤、黄色、青、緑から選べるそうだ」
……まあ、そうなるだろうな。
グワラニーは表面上とは違う笑みを心の中で浮かべる。
……A4サイズを二枚重ねたものとは、すなわちA3。当然手に入る。だが、それが三枚分となれば難しい。そして、海賊が示した色の紙。それはカラーのコピー用紙。
……これらを自らが作成している、または作成を依頼しているのであれば、サイズなどいくらでも調整できる。それができないということは購入しているからだ。
……つまり、ワイバーンの親玉はやはりこちらと向こうを行き来している。
……だが、焦りは禁物。
……せっかく手に入れた初めての手がかりだ。怪しまれて逃げられ手は元も子もなくなる。
……逃げられるだけならまだしも、消されかねない。
……完全に捕えられるところまで近づくまではこちらの気配は悟られてはいけない。
……絶対に。
心の中で自らを引き締めると、それを含めて感情をどこにも漏れ出ない完璧でグワラニーはこう言った。
「ありがとうございます」