不可解な彼女
自然と口がその人物の名前を紡ぐ。
すると、彼女――ナデージュは、ジゼルのことを見下ろした。
その目が宿している感情は、なんなのだろうか。今は、それがわからない。
「……ジゼルは、バカな子ね」
彼女が、小さな声でそう呟いた。
「大人しくしていれば、こんなことにはならなかったでしょうに」
そっと彼女がそう零す。
ナデージュの言っていることは最もだ。間違いないこと。
でも、ジゼルにとっては。そんな簡単な問題ではない。
「だったとしても……です」
「……そう」
ジゼルの言葉に、ナデージュはそれしか言わなかった。かと思えば、その場にしゃがみこむ。
彼女の傷一つないきれいな指が、ジゼルに絡みつく鎖に触れた。
「あの、お母様」
「なぁに」
「……マリーズ、だけは」
今のジゼルには、それを伝えるのが精いっぱいだった。
マリーズだけは、なんとしてでも助けなくては。だって、付き合わせたのはジゼルだ。彼女には、なんの落ち度もない。
「最悪、私はどうなってもいいので……」
本当はどうにもなりたくない。けど、今はそう言うのが適切だ。
なんとかナデージュの機嫌を取らなくては……。
その一心でそう言えば、彼女の指が鎖をはじく。
「……ダメよ」
ナデージュが、はっきりとそう告げた。
「お母様っ……!」
「――あなたが、諦めてはダメよ」
耳に届いたナデージュの言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
だから、目を瞬かせる。彼女はジゼルを見つめていた。力強い眼差しで。
「いいですか? 西口……使用人たちが使う出入り口に、馬車を用意したわ。……あなたの侍女は、そこにいる」
彼女の言葉の意味が、本当にわからない。
だって、これではまるで――ジゼルとマリーズを逃がそうとしているかのようではないか。
「お、かあさま?」
「ここから出たら、全速力で走りなさい。御者は、私の実家の者に来てもらったわ。だから、あの人には伝わらない」
ナデージュが、もう一度鎖をはじく。すると、それはきらきらと光の粒子になり、消えていく。
ジゼルの身体が、一瞬にして軽くなった。
「……お母様」
「執事と共に、頑張ってあの人の気を引くわ。……だから、行きなさい」
力強い言葉。彼女の目に宿った色も、普段見ないほどに意思の強いものだった。
それはまるで、人が変わったかのように……。
そう思っていれば、ナデージュがその場に倒れこむ。驚いて、彼女に駆け寄ってしゃがみこむ。
額ににじみ出る汗は、彼女の体調の悪さを物語っているかのようで。
ジゼルは、察した。ナデージュは、自らの魔力を使って鎖を解いたのだと。
「お母様。どうして、ですか?」
早く行かなくちゃ。
それはわかる。でも、やっぱり。これだけは、聞いておきたかった。
「どうして、私を助けようと……」
震える声で、問いかける。今まで憎み続けてきた母。自分を人形のように扱ってきた母。
彼女の中で、一体どんな変化があったのか。それを、知りたいと思った。
「……わからないわ」
ナデージュは、目を伏せながらそう零した。
「わたくしにも、もうなにがなんだかわからないのよ。……ただ、えぇ。そうね。最後に、きちんと親らしく、あなたを守ってあげたかったのかも」
「……お母様」
「さぁ、もういいわ。……さっさと、行きなさい。侍女が待ってる。あなたの最愛のエヴァリスト殿下が、待っていらっしゃるわ」
彼女がジゼルにそう伝え、目を閉じる。
……少し、不安だった。心配だった。
だけど、もう振り返ることはしない。その一心で、ジゼルはナデージュの側から立ち上がる。
「……行かなくちゃ」
物置小屋の扉を、ゆっくりと開ける。
ここから西口までは、全力で走って五分ほどだろうか。
(絶対に、見つかってたまるものですか!)
折角、ナデージュが助けてくれたのだ。……このままじゃ、終われない。
その一心で、ジゼルは丈の長いワンピースをはためかせながら、全力で駆けていく。
幸いにも履いている靴にはヒールがない。そのおかげか、走りやすかった。
(きちんと、やるわ。……後悔なく、生きていくって決めたのだもの!)
なんとかエヴァリストに助けを求める。そして、ナデージュからしっかりと話を聞きたい。
きっと、ナデージュの中にも葛藤があったのだろう。
(私が歩んでいるやり直しの人生は、どう転ぶかわからない。……お母様との関係も、変わってしまうのかもしれない)
不確定要素の多すぎる人生だ。それでも、立ち止まることはない。
(私は――もう、言いなりにはならないの!)
しっかりと自分の意思で地面を踏みしめて、駆けて、生きていく。
今のジゼルの一番の願いは、それだから。




