あなたのために生きてきた、後悔
エルヴェシウス侯爵家のジゼルという名前は、このフォルジュ王国にいれば知らぬものはいないとまで言われている名前だ。
ある者は「淑女の中の淑女」と言い表し、またある者は「冷徹な華」と言い表す。
ふわりとウェーブのかかった茶色の髪。その赤色の目は大きくてくりくりとしている。
しかし、その目は普段は鋭く吊り上げられており、宿しているのは絶対零度の感情である。
だからこそ、ジゼルは周囲から恐れを抱かれていた。
そんなジゼルは十七歳のある日、この王国の王太子バティストの婚約者に選ばれた。エルヴェシウス侯爵夫妻は当然だとばかりに胸を張り、普段から横暴だった態度はさらに横暴になった。
自分たちの娘は未来の王太子妃であり、王妃なのだ。
彼らの口癖はいつしかそんな言葉に変わった。
そのためなのだろう。ジゼルは未来の王太子妃、いずれは王妃として恥にならないように自分を正し続けた。
けれど――その努力は見事な水の泡として散っていく。
「ジゼル・エルヴェシウス。俺はキミとの婚約を解消したいと思っているんだ」
バティストに久々に呼び出された日。ジゼルは彼から婚約の解消を告げられた。
このときのジゼルは二十五歳を迎えており、世間一般ではとっくに嫁き遅れといわれる年齢になってしまっていた。
「……どうして、ですか?」
震える声を必死に抑え込み、ジゼルはバティストをまっすぐに見つめる。実際は、ジゼルは彼が婚約の解消を告げた理由をわかっていた。
数日前、バティストはジゼルではない別の令嬢と口づけを交わしていた。その光景を、ジゼルはしっかりと見てしまっていたのだ。
「俺はキトリーと一生を共にしたい。キミのような愛想もなければ可愛げもない女と一生を共にするのは、嫌なんだ」
彼はゆるゆると首を横に振りながら、そう言った。
王族貴族の結婚とは、つながりを求めるものだ。愛やわがままで覆るようなものではない。
が、国王夫妻は一人息子であるバティストにめっぽう甘く、彼のこの願いを聞き入れるであろうことは、ジゼルも理解していた。
彼の隣には、ふんわりと笑う令嬢が寄り添っている。彼女はジゼルを見て、唇の端を上げた。
「ジゼル様。今後何があっても殿下のことはわたくしがお支えします。なので、どうぞ安心してくださいませ」
にっこりと笑って、彼女がそういう。
……きっと、ジゼルはこの二人にとって燃え上がるための恋の障害でしかなかったのだろう。それを理解し、ジゼルは深々と頭を下げた。
「かしこまりました。……お二人のご婚約、祝福させていただきます」
淡々とそう告げ、ジゼルは踵を返す。
きっと、家に帰れば居場所などなくなっているだろう。ジゼルの家族はジゼルを道具としか見ていない。婚約を解消されたジゼルを責めるに違いないのだ。
その予想通り、家に帰ればジゼルは父に頬を殴られ、物置小屋に閉じ込められてしまった。
冬の物置小屋はとても寒い。身を縮こませ、必死に寒さに耐えた。
しかし、不幸とは何処までも積み重なるものだ。
ジゼルはこの後、バティストが寄越した刺客により刺殺されてしまう。
痛みからうっすらと開いた目に映ったのは……きらりとした短剣の切っ先。
(……あぁ、私、死ぬのね)
何も面白くない人生だった。バティストのため、家のため、自分を押し殺して生きてきた二十五年間だった。
(生まれ変わったら、今度は自由に生きたいわ)
目を閉じて、ジゼルは唇の端を上げる。
どうか、今度は幸せな家族の元で、幸せな人生を送りたいものだ。
今度は、今度は――……。
そう思い、次に目を開くと……見慣れた天井が、視界に入った。