第二話 自分には意味もなく
僕が日雇いに出る町は山と畑しかない田舎から徐々に工場が立ち並ぶようになっただけのこれと言って特筆する所がこれと言ってない所だ。
工場とは言ったが、そこで作られるのは主にタイヤや時代遅れなおもちゃ、文房具といった他の地方から注目が集まるというわけでもない。
そんな工場の中で僕が働いているのは真っ白のペンキがよりヒビを目立たさせてしまっている横に長い弁当工場だった。
建設費をケチったこの工場は、外見のように内部にまでヒビが所々で目立っていた。
中は『炊飯用』と書かれた黄染めのプラスチック箱に山々と盛られた古い白飯が従業員の手によって運ばれていき、野菜洗浄室から出た従業員と開いた扉の向こうからはアルカリ性の鋭い臭いが鼻を突く。
野菜を蒸す時や炊飯を行うさいに発生する水蒸気が工場内を蒸し、せっせと作業を行う作業員らの身に汗を染み込ませた。
「そこまでー、昼休憩に入れー」
安いプラスチック性の容器に具材を詰める作業員ーー僕を含む十五人の作業員に監督が昼休憩を告げた。
作業場を出ると、彼らは頭に被っていたキャップを雑にポケットの中に入れ込み、形だけは綺麗に置かれた賞味期限ギリギリの弁当に手をつけ始めた。
「そういえば君、今年で二十なんだよね?勉強とか大学って?」
「‥‥‥‥‥」
そんな時僕ーーー扇場 弦郎に話しかけてきたのは自分より一年早くここで働き始めた先輩だ。
大学は?
そう問いかけてきた先輩の口調からして悪意はない。
だがその口調、その質問が僕の心を突き、傷を開かせたのは事実だ。
「そうできるなら、こんな所にはいませんよ」
「っ‥‥悪い」
皮肉めいた答えを聞いた先輩は幽かに呻き、最後に『忘れてくれ』と返す。場を包み込んでいた静けさに重なるように重苦しい空気が覆い被さり、
僕はそれを受け流して食事を続けた。
「おいおいそこの若者。せっかくの若さなんだから今からしっかりしたほうがいいぜ?」
「?」
そう口を挟んできたのはこの工場に入ってきて十四年というベテランの正社員ーーー僕がその作業員に目を向けた所でその人は話を続けた。
「今はまだ後悔してもいいかもしれないけど、そのまま三十、四十になっていくとそれが障害となって本領を発揮できないまま一生を過ごすことになるよ」
「‥‥‥お、押忍」
「確かに高卒の人は大学の人と比べると五、六万ぐらいの給料の差があるけどその代わりに早めに稼げるだけじゃなくて経験をより深く積めるってメリットがあるんだ。この国には、学歴より経験を求める企業も多いからね」
「‥‥‥‥」
僕は水筒に入れた中身がすっかり冷え切った緑茶を口に含みながら話を一応聞き続けた。
「だから別に落ちたからって悩むことはないよ。働ける時間は自由なんだからね!」
(‥‥どうなんだろう)
すっかり空となった弁当箱の上に使い終えた割り箸を並べ置いた所でーー。
「休憩終了だぞー、急いで職場に戻れー」監督に促され、僕はその先輩達と一緒に職場に戻った。
すっかり空は真っ黒に染め上げられ、僅かながらの電灯しか足元を照らさないような時間帯。
「はい扇場さん、お疲れ様でした」
「ありがとうございます」
工場の中で唯一、明かりが灯り光っている公務室にて。
四十代ほどの男性、ここの主任から手渡しで日雇いーーー八時間分の給料を受け取り、僕は礼を言ってからその場を去った。
箱の中に具材を詰め込むだけのつまらない作業だが、それに耐えさえすれば日雇いと内容にしては高い方で一時間千百円にもなる。
公務室を去り、正面入り口で待ってくれていた四人の同僚と共に薄気味悪い歩道をスタスタと歩く。
会話もなくスタスタと歩いて帰る理由は単純な話で、思っていた以上に外が寒かったという話だ。
あの年からこの二年間でさらに温暖化が進み、この冬が運ぶ風は雪を流すことはなく、ただ厳しい冷風だけを吹き流していた。
その風は枯れた芒を優しく撫でるが、逆にその風は僕の心を寂しく削っていった。
身が縮む寒さに耐え、固くなる体を動かして僕はこの街で二つだけ存在するコンビニにて自分が食べる用の好物である辛めのカップ麺と、僕とともに暮らしている育て親の祖母用に梅干しの入ったおにぎりと野菜多めの惣菜を買って帰る。
僕と祖母はマンションに住んでいた。
『着物仕立』を名乗ってはいたが、仕立を行っていた祖母が歳ということもあって今は名だけのものであったが。
「ただいまばあちゃん」
「弦郎、帰ったのかい?」
玄関から上がるとその先の五畳ほどの和室から顔を覗かせた祖母ーー優子が僕を出迎えてくれた。
このマンションは三十年ほど前には建てれた二階建てのマンションで、僕らが住むのは一階の右端だ。
本家はバブル景気の時、まだ存命だったという祖父が土地を売ったことで失い、その後すぐに祖父はなくなった。
そのバブル景気が崩壊してから八年後に僕は生まれた。
が、物心がつく頃には親はすでにいなくなっていた。
そうして取り残された僕は同じく残されていた身の祖母に育てて来てもらった。
その恩も、こうして無駄になってしまったが。
「気にすることはないのにねぇ」
いつもそう言って祖母は僕を慰めてくれているが。
(この世の中の不況や学歴主義のせいで就職が難しいのに‥‥これ以上ばあちゃんに迷惑かけたくないのに‥‥‥)
食事と言うには粗末な飯を食べ終え、僕はとぼとぼと自分の部屋に入り込んだ。
物心ついてから使い続けてきたこの部屋も、見慣れているはずなのに毎日日雇いから返ってくるとどうしたものか、とても懐かしく感じる。
部屋には窓際に置かれた一つの机と椅子、その端には小さな本棚が置かれており、そこには二シリーズほどだが、僕の大好きなラノベが詰め込まれていた。
一時期は小説家になろうとしたものだ。たが、そんな職では確実な収入と安定は得られない。
今、自分がすべきなのはここまで自分を育ててくれた祖母に安息な生活を送ることだ。
(今の僕はあの先輩が言う通りならまだ経験だ‥‥高卒ならもっと積んでいかないと‥‥)
ガタンッ‥‥‥。
「ーーー?」
廊下のほうから響いてきた何か質量のあるものが倒れる音、何事かと僕は襖を開いた。
祖母が、そこで倒れ伏していた。
僕は硬直し、動くのに随分と時間がかかった。
その長く感じた時間も、他の人からすれば瞬きのものでしかなかったのだろうが。
衝撃。そこから僕は即座に祖母の元に駆け寄った。
「ばあちゃん!?しっかりしてばあちゃん!!」
声を掛ける。返事は、ない。
祖母の口元に手を当てる。呼吸は、している。
何が起こったのかーーそれを考えることも自分に許さず、僕は祖母をかずいて夜の街を駆けた。
「長年溜まった疲労でしょう‥‥‥」
祖母が倒れてから三十分が立った頃。病室が二十もない病室の一角、家のものより上等な厚みと質量があるベットに寝かせられた祖母と弦郎は担当となった医者の報告を聞いていた。
「このままではまた同じことが起こる可能性があります。しばらくの入院が必要です」
「‥‥‥入院、ですかい‥‥?」
そう弱々しい呟きと顔を医者に向けたのはほかでもない、祖母であった。
祖母は普段より重くなっているであろう体を起こし、背を曲げながらもその体を医者に向け。
「入院は‥‥‥どうにかなりませんかの、う‥‥そんな‥‥」
「だめですよ。そんな急に体を動かさないでください」
その医者の忠告も聞かずにそのまま体を動かそうとする祖母。耐えきれず、祖母の気持ちを宥めた弦郎は正面から彼女と向き合い。
「ばあちゃん、今は安静にしよう。じゃないと‥‥‥」
「じゃが弦郎‥‥入院費が‥‥」
弦郎が背を撫でている間でも、祖母は泣きそうな顔で心配する。
「お金のことは僕に任せて、だがら心配しないで」
翌日。家に一人と残った弦郎はまだ六時という早朝だと言うのに軽い身支度を済ませると早々と家を後にした。
電車に乗って渋谷で降り、また別の電車に乗り換えて新宿に、駅を出てバスに乗ってようやく目的の場所にたどり着いた。
デパートや専門店、飲食店といった彼の地方では建てられないものばかりのこの街で弦郎はこの白染めの市役所を思わせるこの施設ーーーハローワークに来ていた。
中には安っぽいジャージを着た二十代ぐらいの男性、四十過ぎたように見える男性がここに訪れる者の大部分であった。
(なんでもいい‥‥!お金を、お金を作れるなら‥‥‥!)
日雇いやバイトの掲示板を前に弦郎は数々の紹介書をはがし取り、その内容に目を通す。
今までやってきたような仕事ではすぐに祖母の入院費を支払うためのお金は作れない。
清掃員。受付人。接待員。クリーニング員。調理人。ーーーーそこで、ある紹介書に目が止まった。
(‥‥‥やっぱり、日雇いで高い給料をもらえるのはこの手の仕事か‥‥‥)
そして弦郎はその紹介書を握りしめ、受付に向かった。
三日後。
二月の早朝は肌寒く、息も白かった。
電柱の下に青い網の下に燃えるゴミの入ったゴミ袋をすべり込ませる。
その殆どがスーパーで買った食品が入っていたパックで、その全てが消費期限ぎりぎりのセール品であった。
バスの通過する音が重く響く待ち合わせ場所である屋根もないバス停に弦郎はいた。彼の他にも六人の男たちが共に専用車をまだかまだかと待ちわびていた。
その男たちは四十から六十代ほどの年老いた体つきで、とても力で仕事ができそうな肉付きではない。
(きっと、僕と同じ境遇なんだろうな‥‥‥)
そう思っていた弦郎の後ろ、二十代ほどの男性ーーー担当兼監督の馬珠がそんな弦郎たちを一瞥しては舌打ちを立てていた。
「ったく‥‥‥女並みの力しかなさそうな奴らだ。そんなんじゃこの仕事やってけねぇぞ」
「ッーーー」
ボソッと呟くように馬珠が発した言葉に、弦郎の心は刻み込まれた。
(今の僕は、この程度まで落ちたんだな‥‥)
そう思っている内に、排気ガスを吹き上げながらやっていてきた専用車に彼らは乗り込み、現場へと向かった。
改築現場に到着し、朝礼を終えたところで弦郎は十人ほどの作業員らと共に作業に入った。
彼らに与えられた仕事は彫り上げられた土を一輪車付きのワゴンで運んだり、解体の際に生まれた木くずを捨てたりするというもの。
聞けば簡単そうに聞こえるが、実際はそんな甘ったるいものではない。
「おら新人!早く運びやがれ!!」
「お、押忍!」
寒い風が体に叩き込まれているこのときでも、弦郎はダラダラと汗をたらし、息を切らしていた。
グググっと手元に力を込め、弦郎は土を山々と盛られたワゴンを重々文字と地を踏みしめながら、指定された場所に運び込む。
全体では彼のような若い雑用員は少なく、それに当たっている四十人中三十人ほどが中年、もしくは老いた男性で、馬珠が言っていたようにこの労働内容に過酷さのあまり耐えきれていない様子であった。
ドドドドド‥‥!!目の前をダンプカーが横切り、それで舞い上がった土煙が弦郎の目を突く。
「ウッ」
思わず目を瞑ってしまい、足元が朧けになったその反動でワゴンが横に倒れる。それを握っていたままの弦郎がそれに釣られて倒れてしまった。
「何やってんだ新人!」
「‥‥‥ぅ」
呼吸を乱し、頬を裂いた地面を鋭く睨みつけた。
まだ、ここで倒れるわけにはいかない。弦郎の頭には自分の事を頼りにしている祖母の顔が浮かんでいた。
彼の体に、影が差した。なんだと思った弦郎は裂けた頬から血を流したままその顔を上げた。
ーーー彼の視界は、キャタピラで埋め尽くされていて。
「嘘、だろ」
凄まじい質量が、彼を、その頭部を踏み潰し、骨と中身がひしゃげる音、肉が潰される音が響音として盛大に現場中に響き渡った。
「ーー」
場の近くにいた作業員は、何が起こったのかとという顔でキャタピラの下を見下ろした。
キャタピラと荒々とした地面の間から溢れ出す鮮血,飛び散った肉片、寒波を受ける胴体はピクリともしない。
死が、香る。
この時、扇場弦郎の命は潰された。
「ーーー」
頭に回る血がまるで泥を流しているかの如くに鈍く、それ故か吐き気が強い。
意識がまとまり、目を開けた時に最初に見たのは青々とした重なり合う茂った木の葉であった。
この森の中で風に揺らされた木々の枝が波打ち、葉が心地よい音を奏でている。
それに代わって背中に感じるのは水分を充分に含んだ土の感触だ。改築現場でのそれとは全く違い、この土は荒々しくもなく、乾いてもいないーーー。
「え?」
改築現場とは違い?
そこで身を起こした僕は辺りを見渡した。
ここはあの老人だらけの作業員は一人もいない。それどころか人の気配すら感じない。
無論、ショベルカーやダンプカーといった車両もあるわけなく、代わりに角を生やした兎がこちらを一瞥しては草々の向こう側に姿を消す。
先刻とは全く別物の世界。元いた世界とは常識が違う。
それらのキーワードがこの世界に転がっているのなら認めざるを得ない。
要は。
「僕が異世界転移‥‥‥?」