彼は助けに来た
まあ、これは……王太子殿下。
討伐の陣頭指揮を執られている御方が、どうしてこちらに?
見ての通り、ここにいるのは女子供ばかり。戦士達ならば騎士団の拠点におります。
早文の鳥が?
何という……ああ、どうかお許し下さいませ。皆すぐに落ち着きます。
王国にとってエルダードラゴンが大きな脅威であったことは分かっております。
ですがディビエド族にとっては神に等しい存在。それを殺めたともなれば幼い子供らが怯えるのも無理もありません。
わたくし? わたくしが何か?
それは……恐れながら申し上げます、王太子殿下。
わたくしの名はフィアル。ディビエド族の長アグリゴルの妻、フィアルでございます。
いいえ、アルジェント公爵令嬢はもうこの世におりません。
フィオレンツァ=アルジェントは二年前、婚約者のパトリツィオ王太子殿下を励ますため討伐拠点を訪ねる途中、魔獣に襲われて亡くなったのでしょう?
周辺国では有名な美談ですわ。
攫われた?
何を仰います。わたくしの結婚は、国のため民のためと国王陛下が命じたものではありませんか。
婚礼の衣装を着たわたくしが部族に迎えられるのを、貴方様もご覧になった筈です。覚えていらっしゃいませんか?
ええ、仰る通り、取引のようなものでしたわ。
わたくしを寄こさねば魔獣討伐から手を引くと言われたのですから。
けれど仕方ありません。あの時はディビエド族の協力なくして、鉱山の魔獣を駆逐することは出来ませんでした。
聖ミスリルは王国の防衛と貿易の要。
鉱山ひとつが使えなくなるだけでどれだけの民が路頭に迷うことか。娘ひとりで取り戻せるなら安いものですわ。
ああ、アルジェント公爵が言っておりましたの。『公爵家の娘として国に貢献できることを誇りに思え』と。
あら、まあ、どうしてお怒りになるのです。
先ほど申し上げた通り、結婚を命じたのは王家ですのに。
それでいてディビエド族に頼ったことは隠したかったのでしょう?
魔獣の爪と牙を弾く聖ミスリルの産出地でありながら、討伐に外部の手を借りたと知られたら周辺国に侮られてしまいますもの。だから作り話と空の棺を用意して、盛大な葬儀を執り行って下さったのですよね。
勿論、アルジェント公爵家がディビエド族と姻戚になるのを拒んだのもありますけれど……わたくしの結婚も葬儀も、国益のため必要なことだったのでしょう?
辛い役目、ですか。
確かに最初は戸惑いましたわ。山や森を転々とする旅暮らしは、今までと何もかも勝手が違いましたから。
それに魔獣の毛皮を被って血肉を食らうディビエド族は、何処へ行っても迫害されました。
城壁の中に入れるのは、狩りの腕を買われて魔獣討伐を頼まれる時だけ。そうして助けを求めてきた相手からさえ、蔑みの視線を向けられるのです。
そうそう、ディビエド族には恐ろしい噂がいくつもありましたね。
実際に暮らしてみて殆どがデタラメと知りましたが……その内のひとつに、子供を攫って食べるというものがあったでしょう? あれは口減らしの子を引き取って育てているのですよ。
部族内で婚姻を繰り返しておりますから、血が濃くなりすぎないように外部の血を入れているそうです。
ですから余所者のわたくしは、それはそれは丁重にもてなされました。辛いどころか寧ろ居心地が良いくらいでしたわ。
皆様とても親切にして下さいました。分からないことをひとつひとつ丁寧に教えてくれて、出来ることが増えると心から喜んでくれて……。
当たり前、ですか?
……ふ……ふふっ……いえ、お許し下さいませ。
だって、あの時のわたくしには当たり前だと思えませんでしたの。
アルジェント公爵令嬢がパトリツィオ王太子殿下の婚約者であった時は、王宮での厳しい教育に耐えても、未来の王太子妃として周りから妬まれ傷つけられても、全て当然のこととされましたから。
あら、何が違うというのです?
パトリツィオ王太子殿下との婚約もディビエド族の長アグリゴルとの結婚も、国益のために決められ、相手方から望まれた婚姻であったという意味では同じですわ。
ああ、でも、望んだのは王家であって殿下ではありませんでしたね。『押しつけられた相手だ』『顔も見たくない』と昔から仰っていましたもの。
アグリゴルは……外からの血が必要なのもありましたが、一目惚れだったのですって。ふふ、自分で言うと気恥ずかしいですわね。
本来ディビエド族は、報酬として人を求めるなんてしないそうです。揉め事になるといけませんから。
けれど幼い頃から部族を守るためだけに生きてきた彼が初めて言った我儘だったから、皆止めたくなかったのですって。
彼は嫁いだ時からずっと、わたくしを大切にして下さっています。
そういう点では、全く異なる婚姻でございますわね。
……そうですね、若かったのでしょう。殿下もわたくしも。
今思えば、殿下が私を疎んじたのも無理からぬこと。
あの時の私といえば、王国の誇る聖ミスリルに代わるものを考えてばかりでした。防衛も経済も聖ミスリルに依存しきっている状態では、いずれ鉱脈が尽きれば破綻してしまうと。
それで討伐した魔獣の死骸を利用することを提案したら、貴方様は激昂されました。
『聖ミスリルは王家が神より賜りし聖なる鋼』『それが尽きるなど王家に対する侮辱に他ならない』と。
いいえ、何も言うことなどございませんわ。
聖ミスリルについてはわたくしより王太子殿下の方がよくご存知ですもの。
本当はお気づきになられていたのでしょう? 採掘量が減り続けているのも、質が落ち始めているのも、聖なる鋼に頼りきりの騎士団が弱体化しつつあったのも。
だからこそ新しい鉱脈を求めて山の奥深くまで……地の底に眠るエルダードラゴンを目覚めさせるまで掘り進められた。
二年前、ディビエド族は『山をこれ以上切り拓けば更に恐ろしいことになる』と忠告しましたのに。
ええ、そうですわね。今や王国への脅威は去りました。
戦士達が戻り次第、わたくし達は発ちます。もうお会いすることも――
戻らない? どういう意味ですか?
……ああ、そういうことですのね。
雇った者が死ねば報酬を支払わずに済みますもの。だからといってドラゴン討伐に協力してくれた戦士達を、役目が終わるや襲うだなんて。
そんなにも金が惜しかったのですか? 王国はそこまで貧しくなっていたのですか?
違う? では何のためだと言うのです?
わたくしを? 助けに来た?
ふ……ふふっ、あはははははっ。
何をおかしなことを。そもそも殿下が望んだのではありませんか。
わたくしがディビエド族に嫁ぐことを。
ええ、冗談だったのでしょうね。
二年前、王太子殿下も騎士団の皆様も、交渉役以外のディビエド族は大陸語が分からないと思い込んでらした。それで、つい口を滑らせただけ。
『鉱山の魔獣を全て退治してくれるなら、あの利口ぶるだけの生意気女をくれてやってもいい』と。
あら、そうですの?
まあ、まあ、過分なお言葉を頂いてしまいましたわ。
そうですか。ですが本心であろうと冗談であろうと、貴方様がわたくしを愛していようと憎んでいようと、どちらでもよいのです。
最初に申し上げたではありませんか。ここには公爵令嬢など……王太子殿下の助けを必要としている者などおりませんと。
わたくしが必要としているのは愛する家族と部族の仲間達だけです。
《ねえ、あなた》
《怪我も無いようで良かったわ》
《勿論、あなたの腕を信じているし手筈だって知っているけれど》
《それでも心配せずにはいられないわよ、妻だもの》
ああ、殿下、どうか落ち着いて下さいませ。手足を縛るだけですわ。
夫は上手ですけれど怪力なので、無理に動くと手首が折れてしまうかもしれません。
それに、寧ろこちらが驚きたいくらいですわ。
ディビエド族は蛮族と呼ばれ、蔑まれてきたのですよ。魔獣討伐に利用するだけして切り捨てようなんて、陳腐で浅ましい計画を思いついたのが貴方様だけと思いますか?
彼らは何百年もの間、そんな“蛮族”を出し抜いてきたのです。不意討ちを見抜いて反撃するのも、早文を偽造するのも、造作もありません。
まあ、これは夫の受け売りですけれど。
騎士団の皆様ですか?
安心なさって。命までは奪っておりません。ドラゴンを眠らせるために必要ですので。
ええ、王国がディビエド族を使い捨てるつもりだったように、わたくし達も最初からエルダードラゴンを討ち取る気などありませんでした。
エルダードラゴンは眠りを妨げられただけで、人間への害意などありません。鼻先で騒ぐ生き物がいなくなって腹もくちくなれば、再び休眠に入ります。
ええ、その通りですわ。
それで、これも受け売りですけれど……口にする獲物の血が熱いほど、腹がよく膨れるのですって。
捨てられた復讐? そんな、滅相も無い。
フィオレンツァ=アルジェントが死んだ時から、貴方様とわたくしは何の関わりも無い、ただの他人になったのです。恨みを抱く理由がございません。
ですが、パトリツィオ王太子殿下。
貴方様はディビエド族を、大切な部族の仲間を裏切った。
わたくしの愛する夫を、お腹の子の父親を殺そうとした。
それについては、決して、決して、許しはしません。
《――あっ、んっ……もう、昂るのは分かるけれど、お話の途中よ。いい子にしてちょうだい、旦那様》
……あら、今お気づきになられましたか?
ああ、ディビエド族の服はゆったりした作りですから、座った状態ではお腹の膨らみが分からなかったのですね。
まあ、殿下、そのように暗い顔をされることはありませんわ。
貴方様と騎士団のおかげで王国はドラゴンの脅威から救われるのです。殿下は確かに、助けに来て下さったのですよ。
その献身は公爵令嬢の美談よりずっと長く語り継がれることでしょう。
それではパトリツィオ王太子殿下。
ごきげんよう。