イアンと悪魔
早朝訓練のために外に出てみると、久しぶりに晴れていた。深呼吸をすると肺に冷たい空気が入り込んできて、喉が縮こまる。
それでも、真冬の凍てつくような寒さはすでに通り越し、雪の降る量は次第に減ってきた。遠くにそびえ立つ氷鬼山脈は、いつもは頂上付近には雲がかかっているのにそれもなく、真っ白な山脈が綺麗に見渡せた。
「いい天気だな」
「もうすぐ春がやって来ますからね」
「春が来たら祭りだ。彼女と回るんだ!」
「俺も奥さんと娘と回るつもりだよ。ああ待ち遠しいな」
騎士達が口々に言いながら、城の裏手にある訓練場へと出て行く。その最後尾を歩きながら、イアンも久しぶりの晴天に胸を躍らせていた。
こんなにいい天気の日はなんだかうきうきしてくる。なんだかいいことがありそうだ。
「殿下、なんだか浮かれてますね?」
いつの間にか隣にいたキーラが、イアンの顔を見上げて言う。不思議そうに首を傾げる様はとても可愛い。
「いや、いい天気だから何かいいことがありそうだと思って」
脳天気な回答に、キーラはくすりと笑ってイアンの腕に腕を絡ませた。途端にイアンは、でれっとして締まりのない顔になった。
「ふぅん。でも、あんまり浮かれてると痛い目にあいますよ」
「なんだそれは?」
「魔女の第六感です」
ふふふといたずらっぽく笑うキーラもひたすらに可愛い。イアンの脳内がキーラで埋め尽くされた時、イアン!とどこからともなくシドの声が聞こえてきた。振り返ると、城の二階から顔を出して手招きをするシドが目に入った。
「戻ってこい」
声のトーンが低い。しばかれる、とイアンは思った。
しかし、最近のイアンは怒られるようなことをした覚えがない。訓練はきちんと受けているし、雪山の演習でも置いてけぼりにされたり、置き去りにされたりといったことはなくなり、騎士達に遅れることなく付いていけるようになった。
ダメダメだった悪魔祓いも、中級レベルの悪魔までなら祓えるようになったし、薬の精製もキャスリンの指導があってかなり上達し、使用人達や騎士達からの評判もいい。
ここ数ヶ月はめきめきと成長を遂げていると自分では思っていたのだが、何か叱られるようなことをしただろうか。
ビクビクしていると、予想外にシドは来客だと告げた。
「来客?」
「こんな時期に誰でしょう?」
キーラも首をひねっている。イアンはキーラに行ってくると言ってその場を離れた。
シュトックマー領は冬の間は雪に覆われるために、外部から人が来ることはほとんどないと聞いたことがあった。
だからといって、シュトックマー領への道が完全に閉ざされることはない。雪で道が埋もれないように魔術がかけられているために、馬車での移動も可能となっている。
ただし、外を移動するには死と直結する程の寒さのために、商人や軍人以外は余程のことがない限りはシュトックマー領へと入る者はいない。人の往来が盛んになるのは、ある程度雪が溶けて気温が上がった初春の頃だ。
王族が公務でシュトックマー領を訪れるのも、春の祭りが開催される頃や、避暑目的の真夏の頃しかない。
こんな時期に、どこからの来客なのだろうか。
不思議に思いつつイアンはシドの待つ応接室の扉をノックした。どうぞ、と返ってきたので扉を押し開いて中に入ると、長机にシドが腰掛けていた。
「遅いぞ」
イアンは申し訳ありませんと素直に謝罪を口にして、頭を下げた。
「呼ばれたら五秒で来るように。来客を待たせては客人に失礼だ」
「まあ、そうおっしゃらずに」
柔らかな女性の声がして顔を上げると、客人が立ち上がって頭を下げた。
「お久しぶりでございます、殿下。少し見ない間に逞しくなられた様子。安心致しました」
真っ白な神官服の胸には勲章と銀色のバッジが付けられていた。客人が顔を上げると、長い淡色の金髪が揺れて顔にかかった。それを邪魔そうに耳にかけて、ぴしりと背筋を伸ばす。女性にしては背が高く、凛としていて、ただ立っているだけで様になった。
「ウィンスレット神官長……!」
客人とは、女性初の宮内神官長のハリエット・ウィンスレットだった。
イアンはハリエットとは公務や式典で一緒になることはあったが、直接話したことはほとんどなかった。
「どうしてここに?」
「シド指揮官に呼ばれて参りました」
「雪の中を大変だっただろう。馬車で来たのか?」
「道中晴れになるようにと、ヨーク殿が魔術をかけてくださいましたので、苦労知らずな旅でした。それに、急ぎの一人旅でしたので、使役する魔物に乗ってまいりました」
リスベットが晴れにしたということは、シンの力を使ったのだろう。イアンは忘れかけていたが、シンは天水神という天候を司る神獣である。
「神官でも魔物を使役することが出来るのか?」
「もちろんでございます。魔力がございますから」
イアンは神官について詳しい話を聞いたことがなかったので驚いた。
すぐさま、無知なのは恥ずべきことだと、ジェイコブ・ラザウォードから散々言われてきた言葉を思い出し、後でシュトックマー領の神官に色々聞こうと決めた。
「それで……今日は何しに来たんだ?」
「イアン、遠いところをせっかく来てくださったんだ。大体今のお前はシュトックマー領の騎士見習いだ。言葉遣いに気を付けろ」
シドが鬼のように睨みをきかせて言った。イアンは騎士のように声を張り、失礼しましたと背筋を伸ばした。
「シド指揮官、そう言わず。私の前ではどうぞ普段通りにお話ください。殿下は尊いお方なのですから」
イアンは思わず目を大きくした。こんな王族らしい扱いを受けたのは久しぶりだったので、逆にどんな反応をしたら正解なのか分からなくなって、黙り込んだ。
そんなイアンを見て苦笑したシドが、話題を切り替える。
「まあ、雑談はこの辺にしようか」
「そうですね。でははじめに、殿下にヨーク殿から言付けがございます。使役する魔物を呼び出してないかの確認をして欲しいと言われたのですが、いかがですか?」
実は、イアンはシュトックマー領へ入る前に、リスベットから魔物を呼び出さないように言われていた。
「イアンはすぐにハルバードや魔物に頼るから、シュトックマー領にいる間は、自分の力で訓練に励みなさい。シュトックマー領の人々は過酷な環境の中で皆で協力して生きてるのよ。周囲と協力することの大切さをしっかり学んできなさい」
という理由で、イアンは魔物を呼び出すことを禁じられていた。
イアンはハルバードが大好きだったので、傍に置けないことにがっかりしたが、ずっと影の中から応援してくれているだろうし、イアンが着実に成長していってるのも見てくれていると思っている。
「それなら大丈夫です。きちんと守っています」
「さようでございますか。ならば、そのように報告しておきます」
ハリエットはニコリと微笑んだ。
「それで本題なんだが、今回ウィンスレット神官長に来てもらったのは、強力な悪魔が出たからなんだ」
「悪魔が?」
「春が近付くと悪魔の数も自然と減る傾向にあるんだが、先週城下町の外れで領民が魔物に襲われたと報告があった。しかし、よくよく話を聞いてみると、どうやらそれは魔物に取り憑いた悪魔のようでな」
「魔物に取り憑いた悪魔……?!」
「そうだ。悪魔に取り憑かれた魔物には特徴がある。まず、ちょっとやそっとのことでは死なない。本体の魔物が絶命しても、悪魔が取り憑いている限りは動き続ける。これは、物に取り憑いているのと同じことだな。そして、悪魔は魔物の持っている力を引き出すことが出来る。火を吹いたり稲妻を起こしたりすることも可能だし、強力な悪魔ならば、人に取り憑いた時のように記憶も受け継ぐことが出来る」
「それは……厄介ですね」
「そうだ。しかも、今回の悪魔は骨狐に取り憑いている」
骨狐とは、七つの尾を持つ狐の姿をした魔物だ。顔と尾は銀色の毛並みに覆われているが、胴体と手足は骨が丸見えになっていて、雪に紛れ、凍てつく吐息を吐き、人語を操って人を騙す知能の高い魔物だ。
本来骨狐は人里に降りてくることはなく、自分のテリトリーに侵入してきた人間を襲う。
「普段は滅多にお目にかからない上級の魔物に悪魔が取り憑いたとなると、このまま放置していたら、領民の命が危ない。そこで、急ぎでウィンスレット神官長をお呼びしたんだ」
以前シドが、ハリエットは国一番の悪魔祓いだと言っていたのを思い出した。
「ウィンスレット神官長を呼ぶ程の悪魔なのですか?シュトックマー城の神官では祓えないのですか?」
「祓えない」
シドはきっぱりと言い切った。
「骨狐だけでも手に余る魔物なのに、それに取り憑いたとなると、骨狐よりも強力な悪魔ということになる。並の神官では倒せない」
「そんなにも……」
イアンはごくりと喉を鳴らすと、無意識のうちに応接室の入口に飾られたドリームキャッチャーを見やった。それは、リスベット特製の悪魔除けだった。
「そこで、我々シュトックマー騎士団が骨狐の動きを封じたところを、ウィンスレット神官長には取り憑いた悪魔を祓ってもらう作戦でいく。うちの神官によれば、この一週間、悪魔の気配は城下町近辺から離れていない。城下町で骨狐が現れるのを待って、そこを捕まえる」
イアンは眉を寄せると、シドに視線を戻して聞いた。
「でも、そう簡単に現れるのか?もし逃げられたら?」
これにはハリエットが答えた。
「大丈夫です。悪魔をおびき寄せますから」
「おびき寄せる?そんなことが可能なのか?」
「ええ。悪魔除けがあるのと同じで、悪魔寄せもあるのですよ。それと悪魔の好きなものを取り合わせれば、必ず現れます。そこを、神官達に結界を張ってもらって逃げないようにします」
「悪魔が好きなもの……?そんなものがあるのか?」
「ええもちろん」
「それはなんだ?人形だとか熊のぬいぐるみではないだろうな?」
「悪魔が取り憑きやすいものといった点では惜しいがな……」
イアンが首を傾げると、ハリエットはフフッと小さく笑った。
「悪魔が大好きなのは、まっさらな生娘です」
柔らかい笑顔から想定外の言葉が飛び出して、イアンは言葉を失った。