宣戦布告 2
雪に覆われた真っ白な氷鬼山脈の間から、ゆっくりと顔を出した朝日が白い大地を照らし始めていた。朝日に反射した粉雪がキラキラと輝き舞っている。
日が昇ってすぐに、イアンは厩舎に来ていた。
イアンが中へと入って行くと、作業していた中年の馬丁が顔を出した。
「イアン殿下!おはようございます!」
「おはよう。今日も世話を手伝わせてもらっていいか?」
「ええ。もちろん!では干し草を配ってください!」
イアンはこの一ヶ月間、朝の訓練がない時はこうして厩舎に顔を出しては、トナカイや馬の世話をする手伝いをしていた。
はじめは、シドから家畜や獣にも悪魔が取り憑くことがあると聞いて、家畜に異常がないか様子を見るために来ていたのだが、出入りしているうちにトナカイや馬の世話をするようになり、今では朝早く起きて馬丁の手伝いをするのが楽しい。
イアンは干し草を配り終えると、トナカイに異常がないか確認していった。
「変わったところはないか?」
「ありませんね。今年は悪魔が寄り付きもしないんで、世話が楽でね。これも殿下のおかげですかねぇ」
馬丁の世辞に素直に喜びながら、イアンは厩舎の天井に吊り下げられている悪魔除けを見やった。それは、イアンがシュトックマー領へと来る時に持ってきたリスベットお手製のものだった。
「あ、リスベットお嬢様の悪魔除けのおかげでもありますね!」
王都では悪魔がほとんど出没しないので、悪魔除けを作っても効果があるのかどうかはっきりとしなかった。しかし、こちらに来てみて悪魔除けの効果の絶大さに驚いた。どうやらこれを吊り下げている所には本当に悪魔が寄り付かないのだ。
「本当によく効くんだな」
ほーっと白い息を吐きだして、今度はトナカイにブラッシングをかけて回った。
トナカイはおとなしくしている。気持ちよさそうに目を細めて、時にイアンの腕に甘えたように頬を擦り付けてくるので、その度に顎の下を撫でてやった。
「よしよし」
シュトックマー騎士団は冬はトナカに乗るが、トナカイは意外にも小さい。普通のトナカイはポニー程の大きさしかないので、乗馬には向かない。基本的にソリで引っ張ってもらうのが主流だ。
しかし、シュトックマー騎士団の乗るトナカイは違う。十代前のシュトックマー領主ジル・シュトックマーが、騎士団の乗るトナカイにと品種改良して作らせたのが、ジルトナカイであった。
普通のトナカイよりも角は短くて一定以上伸びない。毛は夏も冬も灰色をしている。めったに鳴かないが、低くぐぅぐぅ鳴き、力強くて脚も早く、気性は少々荒いが戦闘向きだ。
イアンはこのジルトナカイを気に入っていた。
厩舎で干し草を食べてのんびりとしている時は、山羊のように目尻を垂らして気の抜けた顔をしているが、一度戦闘態勢に入れば気性の荒さが全面に出て、躊躇なく敵へ突っ込んでいく力強さがある。
「お前達は強いな。早く私も強くなりたい」
顎を撫でると、トナカイは満足げに目を細めた。
✽
トナカイの世話を終えて着替えを済ませると、食堂へ向かった。ここ最近悪魔祓いの特訓で騎士団の朝の訓練がないので、シュトックマー家の人達と朝食をとるのが日課となっていた。
「殿下、おはようございます」
イアンが食堂に入るなり、一同は仰々しく頭を下げた。シュトックマー家は王家に仕える臣下であるから、こういった挨拶はきちんとする。
しかし、朝食が運ばれてきておしゃべりが始まれば、先程の態度が嘘のように、ただの噂好きの集団に早変わりする。
話題は、今年の春の祭りの衣装の話から始まった。北部の民族衣装を是非イアンにも着て欲しいとドミニクが頼み、それを了承するとどんな色にしようかと相談が始まった。
その後祭りの出し物や露店の数はどうするかなどを、皆でわいわいと話し合う。イアンは聞いているだけで、春の祭りが楽しみになってきた。
朝食を終えて食後の紅茶を飲んでいると、ケイトが口を開いた。
「ところで殿下。その後キーラとは仲直りしたのですか?」
イアンは苦虫をかみ潰したような顔をした。
キーラがあまりにも有能な魔法使いなので、ついついライバル心を燃やして宣戦布告をしたのだが、それにキーラは激怒。しばらくの間イアンとは口を聞いてくれなかった。
「一応仲直りはした……」
「殿下が対抗心を燃やすのも分からなくはないのですが、もう少し女心というものを察してあげてくださいな」
はあと答えつつも、それが一番難しいなとイアンは思った。イアンが眉間にしわを寄せていると、ガルシアがなんてことないように聞いた。
「ところで、キーラとはどこまでいきましたの?」
イアンは手にしていたティーカップを取り落としそうになった。イアンの顔がみるみるうちに赤くなる。
「なっ!ななな……なんてことを!」
「聞きましたよ。お祖母様に料理を作るよりも早く、キーラに手作りのお菓子をあげたんですって?しかも、部屋に連れ込んで……」
「な、なぜそれを!?」
動揺しまくるイアンをよそに、ドミニクがそれで?と詰め寄る。
「殿下、相手は未婚の女性ですぞ。手を出すならばきちんと覚悟を決めて責任を取るか、遊びならば誓約書を作成して証明書として残しておかねばなりませんぞ。後で訴えられたらどうします?」
「そうそう。火遊びが山火事になったら次期国王なんて夢のまた夢だよな」
「こんだけ寒いんだから、そりゃあ人肌が恋しくなるもんじゃて。あまり口出しなさるな」
「そうですよ。それに子供が出来たら出来たでいいじゃありませんか。今時の若い子なんて貞操観念崩壊してるんですから、誰だってそんなものですよ」
「そうは言いますけどね、キーラはああ見えて初心な娘ですから、結婚までは貞操を守ると思いますよ。うちの両親は意外なことに厳格ですから。殿下、ほどほどにしてくださいませ」
次々と浴びせられるあけ透けな言葉に、イアンはぶるぶると全身を震わせた。
シュトックマー家はよってたかって容赦がない。イアンは我慢の限界だと言わんばかりに、バンッと音を立てて机に手を付き立ち上がった。
「まだ、キスしかしてないっ!」
イアンは絶叫して食堂を飛び出していった。
「まだ、だとよ」
「あらまあ可愛らしいこと!」
「若いっていいわよねぇ〜!」
イアンはシュトックマー家から、生暖かい目で見送られた。
❉
食堂を飛び出したイアンが向かったのは、トナカイのいる厩舎だった。馬丁はまた来たのですかと驚いた顔をして、それならば朝食を食べてくるのでしばしここを任せますと言って、出て行った。
イアンは一番近くにいたトナカイの顎を撫でながら、シュトックマー家が容赦がないのはリスベットが言った通りだと痛感していた。
「この城は、何もかも筒抜けだな……」
はあっと長いため息を吐き出して、イアンはすり寄ってきたトナカイに抱き付いた。
ジルトナカイの背中の毛はゴワゴワしているが、顎やお腹の毛は柔らかくてふわふわしている。トナカイの暖かい体温に癒やされていると、厩舎の扉が開く音がして振り返った。
「殿下……いたのですね」
入ってきたのは毛皮のコートに身を包んだキーラだった。
「ああ……ちょっとトナカイの様子を見に」
「そうですか」
宣戦布告から仲直りした直後、キーラは北部の南端の村に大型の魔物が出没したため、討伐のためしばし城をあけていた。戻って来た後も、イアンは悪魔祓いの特訓で忙しかったりで、二人が面と向かって話すのは十日ぶりのことだった。
「なんて、本当は姉に殿下がここにいると聞いて来たんですけど」
「え?」
「これ、討伐の帰りに立ち寄った村で見付けたんです。お菓子を作ってくださったお礼にと思って」
キーラはコートのポケットから何かを取り出してイアンに差し出した。手のひらに乗せられていたのは、木彫りのジルトナカイだった。
中は空洞になっており鈴が入っていて、振るとチリンと音が鳴った。見た目はころんとしていて簡素で、子供向けに作られたもののようだ。山羊のように目尻を垂らして微笑むジルトナカイが愛らしい。
「か、可愛いな……」
思わず声に漏らすと、キーラがでしょ?と目を輝かせた。
「それは雄のジルトナカイで、こっちが……」
キーラはポケットからもう一つジルトナカイの置物を取り出して見せた。淡い桃色をした角が短いジルトナカイだった。
「雌のジルトナカイです。とっても可愛いでしょ?これは私のです。売店で見付けて、つい買ってしまいました」
ふふっとキーラが嬉しそうに微笑むと、白い息が吐き出された。頬と鼻の頭が寒さで赤くなっている。
「強くなれるお守りなんですって。殿下には私よりも強くなってもらわないといけませんからね。それまでは、仕方がないから私が守ってあげます」
心臓がきゅっとして、胸の奥から愛しさが込み上げてきた。イアンは置物をポケットの中へとそっとしまい込んだ。
「ありがとうキーラ。大切にするよ」
「はいっ……!」
照れたように笑うキーラが可愛くて、我慢ができなくなったイアンは、キーラを引き寄せて腕の中へと閉じ込めた。小さな背中に手を回して抱きしめる。
キーラはジルトナカイの置物を握りしめたまま、イアンに身体を委ねて体重をかけてきた。コートが分厚くてもどかしい。もっと互いの体温を分け合いたいという欲が湧きおこる。
「……殿下」
腕の中でキーラが身動きしたので、少し身体を離して見下ろすと、キーラが何かを言いたげにじっと見上げていた。
「殿下」
誘うように呼ばれて、イアンの中で悪魔と天使がせめぎ合う。
未婚の女性に手を出すなんて!という天使と、いいから口付けて干し草の上にでも押し倒しちまえよ!と悪魔が吠える。
イアンは眉間にしわを寄せて目を閉じ歯を食いしばると、うぅーと唸った。目を開けると、キーラが潤んだ瞳で見上げている。
いけ!という悪魔の声が頭の中に響き渡った時、キーラはああみえて初心な娘だとケイトが言っていたのを思い出した。
キーラは贅沢が好きで王妃になりたいと口では言っているが、イアンにまっすぐに好意を向けてくれている。
それなのに、一時の情欲に流されてキーラを傷つけることはしたくない。この気持ちもキーラのことも大切にしたいと思った。
散々葛藤した後、イアンはキーラの額に唇をそっと押し付けた。イアンの唇もキーラの額も冷たくて、感触はよく分からなかった。
「それだけ……ですか?」
いつもの誘い文句に、イアンはぐっと唇を噛み締めて一度天井を仰ぐと、今度はキーラの赤い鼻の頭にキスを落とした。それでもキーラが物足りなさそうに見つめてくるものだから、今度は頬に軽く口付けて、隙間を埋めるように抱きしめた。
「……大切にしたいから、ここまでだ」
キーラははいと消え入りそうな声で返事をした。白い息が空中に吐き出されて消えていく。イアンが抱きしめる腕に力を込めたその時、足音がした。
「いやぁ……若いってのはいいですなぁ……!」
馬丁の登場で二人はぱっと離れた。
これでまた城中に話題を提供することになってしまったが、イアンはそれでもいいかと、キーラと赤くなった顔を見合わせて小さく笑いあった。
めったに鳴かない厩舎のジルトナカイが、ぐぅぐう鳴いた。