宣戦布告
「と、いうわけでやってみてください!」
キーラがずいと差し出したのは子熊のぬいぐるみだった。一見可愛いテディベアのように見えなくもないが、目は赤くギラつき凶悪なオーラを身にまとっている。魔術師や神官が見れば一目で悪魔に取り憑かれているだろうことが分かる。
この中に悪魔がいると思うと、恐怖で自然と半歩後退った。すかさずキーラがイアンの腕を掴んで引き寄せた。子熊のぬいぐるみの方へ。
「や、やめろ!取り憑かれたらどうする?!」
「だから悪魔を祓うんでしょう?!」
「私は悪魔祓いをしたことがないんだ!!」
「やり方は教わったんですよね?!やってみてください!」
キーラはぬいぐるみをイアンへ押し付けた。ヒィっと声を上げると、キーラは呆れた顔を浮かべた。
「こんな小物にビビってどうするんですか?!」
「そう言われてもだな……」
「いいから!やってみてください!」
「わ、分かった。やってみる……」
やればいいんだろとイアンは口の中で呟くと、人差し指と親指だけで恐る恐るぬいぐるみを掴んだ。それは悪魔さえ取り憑いていなければ可愛いぬいぐるみだ。
シュトックマーの城下町に住む五歳の女の子が誕生日に贈ってもらったという子熊のぬいぐるみは、いつも一緒に寝ているという。それが、ある日突然悪魔に取り憑かれた。
悪魔を祓って欲しいと泣いて頼む女の子の顔を思い出して、イアンは覚悟を決めた。あの子のためにも悪魔を祓わないといけない。……やるしかない。
「で、ではやるぞ……」
ごくりと固唾を飲んだ。ギラギラと光る赤い目と視線が重なった瞬間、ぬいぐるみが凶悪的にニイっと口端を上げて笑った。
イアンは悲鳴を上げて後ろ向きに倒れた。そして、失神した。
❇ ❇ ❇
「情けないですわ……イアン殿下」
お茶の席でじとりとキーラに見られて、イアンは羞恥で顔を赤くさせると、身体を縮こませた。返す言葉はなかった。
「まあまあ。初めての悪魔だったんだから、仕方がないでしょう」
と、キーラの姉のケイトが言うと、キーラは眉根を寄せた。
「イアン殿下は大魔導師ノートン卿の弟子の弟子なんですよ?!悪魔一つ祓えないなんて恥ずかしいと思わないといけまけせん!」
「こればっかりは経験だからな」
イアンを擁護したのは意外にもシドだった。
「悪魔ってのは獣に近い魔物とは違って多種多様だからな。臨機応変に対応して数をこなしていくしかない。それに怖がることは悪いことではない。見た目が単なるぬいぐるみだと侮って、取り憑いていた強力な悪魔に命を奪われないとも限らないからな」
命を奪われると聞いて、イアンはゾッとした。
「まあそういうわけで、これからはぐんと悪魔祓いの依頼は増えていくはずだ。イアン、嫌でも数はこなしてもらうからな。悪魔祓いに慣れるまでの間、騎士の訓練は免除する」
シドに言われたら逆らうことは出来ない。イアンは騎士の訓練のほうがマシだと思ったが、渋々頷いたのだった。
❇
翌日から、イアンは悪魔祓いに励むことになった。しかし、ろくに悪魔祓いをしたことがないイアン一人では悪魔を祓うことなど不可能である。
というわけで、シドが付くことになった。
きちんと悪魔を祓うことが出来なければ雪山に置き去りにされるのではと思ったが、意外にもシドは丁寧に教えてくれた。
「まずは基本に則ってやってみようか。今日はこれを使う」
シドがイアンに手渡したのは二冊の教典だった。
「それは太陽信仰の教典と、北部の山岳信仰の教典だ。氷鬼山脈には魔物や悪魔も恐れる氷鬼が住んでいる。時には神となって人々を導き、時には鬼となって人々を叱る。山岳信仰は北部特有のものだな」
「山岳信仰の教典が悪魔祓いに効くのですか?」
「効く。北部で氷鬼に敵うものはいないからな。やり方は、人を惑わす悪魔を祓う氷鬼の一節を読みながら魔力を込めるんだ。しかし、イアンは北部育ちではないからな。信仰したこともない教典を読んだところで効力はないかもしれない。その時は太陽信仰の教典で試してみよう」
それからシドは実際に悪魔を祓ってみせた。
前回とは違って今回の悪魔はねずみに取り憑いていた。シドはねずみに金縛りの魔術をかけると、教典の一節を読み上げて短剣の柄でとんと軽くねずみの頭を小突いた。
すると、ねずみから黒い靄が出てきて奇声を上げると、あっという間に分散して消えてしまった。
「は、早い……!」
「これは小物だからな。大物は祓うのに三日三晩かかることもある」
「そんなにも……そんな大物が出たらどうするのですか?」
「北部で対応出来ない程の大物ならば、国に依頼して神官に来てもらうことになる。時間がかかるのが難点だが、ハリエット・ウィンスレット神官長に来てもらうのが一番だな」
ハリエットといえば初の女性宮内神官長だが、イアンは直接話をしたことはなかった。
「彼女は国一番の悪魔祓いだ。何度かシュトックマー領に来てもらったこともあるんだ」
へえと関心しているイアンに、シドは悪魔に取り憑かれた女の子の人形を持ってきた。
手始めに大人しい悪魔から祓ってみることになったのだが、シドが危惧した通りにイアンが山岳信仰の教典を読んだところで上手く悪魔を祓うことは出来なかった。次いで太陽信仰の教典でも試してみたが、それもダメだった。
「こういうのは東部の火の神と同じで信仰心がものを言うんだ。教典を使った悪魔祓いはイアンには向かないようだな」
王族なのに太陽信仰の教典でやってみてもダメだったなんて、信仰心がないと疑われても仕方がないのではとドキドキしていると、神官でない者が教典を使っても上手くいかないこともあるとシドが教えてくれた。
「こういうのは向き不向きがあるからな。となると……リスベット方式がいいか」
「と、いうと……」
「力で物を言わせる方法だ」
ああやっぱりと、イアンは思った。
神官が悪魔を祓う時は神の力を借りるのだが、リスベットのやり方は単純明快だ。出て行けと心の中で命じて、魔力を込める。問答無用で力尽くで悪魔を追い出し、消し去るのだ。
イアンは以前リスベットから悪魔祓いのやり方を教えてもらった時に、なぜこのようなやり方をしているのか聞いたところ、こんな答えが返ってきた。
「信仰心のない女に神様が力を貸してくれるわけないでしょ。自分の力を信じて力尽くで悪魔を祓ったほうが早いのよ」
イアンはあんまりな答えに絶句したのだった。
しかし、いざやってみると自分でも驚く程上手く悪魔を祓うことに成功したのだった。
イアンは喜びつつもなんだか複雑な心境だった。イアンはリスベットとは違って神様を信じていないわけでは、決してない。
❇ ❇
「まあ、それはよかったじゃないかい」
イアンはキャスリンの研究室で、悪魔祓いが出来るようになったことを報告していた。
「しかし、まだ小物しか出来なくて……」
「始めからなんでも出来る人なんていないさ」
「それに教典を使った悪魔祓いも出来なくて」
「北部以外で教典を使うのはほとんど神官だよ。国に仕える魔導師もよく使うが、魔法使いは使わないね」
「何か理由が?」
「さてね。魔法使いってのは型にはまらない自由な連中ばかりだからかね。自分のやり方で好きなように祓うんだろうさ。その筆頭があんたの師匠だろう?」
「た、確かに……」
自由奔放過ぎる気もするが。
「それにしてもこれから春まではひっきりなしに悪魔祓いの依頼が来るよ。覚悟しときな」
ぐううとイアンは唸り声を上げた。
❇ ❇ ❇
キャスリンの言う通り、翌日から悪魔に取り憑かれた品々がわんさか運ばれてくるようになった。
悪魔は様々なものに取り憑いていた。木彫りの人形や古い剣、手鏡や戦地から届いた手紙に、赤い靴や眼鏡等。
イアンはシドに付き添ってもらいながらも、順調に悪魔を祓い続けた。そうして小物程度の悪魔ならば一人で祓えるようになると、悪魔への畏怖は幾分和らいで自信が付いていた。
「物に取り憑いた悪魔ならばもう大丈夫そうだな。問題は人か……。丁度先程城下町から取り憑かれた女性が運ばれてきたところだ。祓ってみるか」
人に取り憑いた悪魔と聞いて少しだけ躊躇したが、自分ならば出来るだろうと過信して、シドの後に付いて客室へと入った。
しかし、それは甘い考えだった。
客室には三十代くらいの女が、手足を縛られて口には布を押し込められて寝台に寝かされていた。そんな状態でも女は暴れるようにバタバタと手足を動かして、赤く血走った目を剥いてモゴモゴと何かを発している。
その異様な光景に、イアンの小さな意気込みはすぐに萎んだ。
「イアン殿下。お願い出来ますか」
寝台の横には、シュトックマー城の老齢の神官とキーラが控えていた。
「人に取り憑いた悪魔はまだ祓ったことがなくて……」
「では、一度やってみましょうか」
「分かった……」
尻込みしながらも、イアンは寝台の横に立った。女の赤い目がギラリとイアンに向けられる。女は肌に傷が付くのも厭わずに縛られた皮のベルトを引き千切ろうと暴れている。ガタガタと寝台が揺れ、口の中で何か叫んでいる姿は常軌を逸していた。
イアンはぐっと奥歯を噛み締めた。この身体は元は普通の女性のものだ。このまま傷を付けさせてはいけない。早く悪魔を祓わなければ。
イアンは目を閉じると、心の中で出て行けと唱えた。
その女性の中から出て行け。その身体をそれ以上傷付けることは許さない。
すると、どこからともなくイアンの頭に嫌だと返事がした。
この身体は私のもの。精神を食い破り、やがては私の思うままに乗っ取ってやるんだ。お前の方こそ出て行け!
それとも、代わりにお前がその身体を明け渡してくれるのか?
悪魔の強い念によってイアンの魔力は弾かれた。堪らず目を開けると、強い女の視線に射抜かれた。血走った目に釘付けになって、身体が凍ったように動かなくなった。全身から血の気が引いていく。
このままでは、まずい!
思った直後、キーラの声が響いた。
「あなたこそ消え去りなさい!」
有無を言わせない強い口調だった。イアンの金縛りが解けて動けるようになると、キーラは短杖を女に突き付けた。杖先から黄色い光が溢れると、女の全身を包み込んで光が弾けた。
暴れていた女の全身から力が失われ、見開いた目が閉じられると、黒い靄が女の中から現れた。キーラがふっと靄に息を吹きかけると、悪魔の絶叫と共にあっという間に消えてしまった。
「大丈夫ですか?殿下」
いつになく優しいキーラに、イアンははっと我に返った。
悪魔祓いに失敗して、逆に悪魔に取り憑かれそうになってキーラに助けられたのだ。イアンは羞恥と情けなさで唇を震わせた。
「わ、私は……」
完全に油断していた。自分ならば出来るだろうと過信していた自分が情けなくて仕方がない。
「失敗……した」
イアンはぐっと拳を握りしめると、脱兎の如く部屋を飛び出した。
「殿下!」
飛び出したはいいが、イアンは廊下に出てすぐに追いかけてきたキーラに捕まった。逃亡は一瞬で終わった。キーラは足も早かった。
「どうしたというのですか?!」
「君は……なんでも出来るんだな……」
ん?とキーラが首を傾げた。
「私は女性を助けるどころか、逆に取り憑かれそうになってしまった。そして君に助けられて……情けないよ」
しょんぼりと肩を落としたイアンに、キーラはため息を吐いた。
「なんだ……そんなことですか?悪魔祓いは数をこなすしかないと言われたじゃありませんか!」
「そうだが……そうだが!私は、君に情けないと言われたり、君に助けられてばかりいるのは嫌なんだよ!」
キーラは困ったように眉を下げた。
「そんなこといったって……」
「私は……もっともっと強くなって、君を守れるような男になりたいんだ……!!」
叫ぶと、キーラは目を大きく見開いた。そして、じわじわと頬が赤らみ、目は潤みだした。
しかし、感動して何も言えなくなったキーラの様子に気付かないイアンは、感情のままに興奮して叫んだ。
「そのためには、君よりも強くなる!」
「殿下……!」
「そして、絶対に君に勝ってみせる!」
「…………え?勝つ?」
「そうだ!君にはもう負けない!これは宣戦布告だ!」
潤んでいたキーラの瞳は一瞬で乾き、目は釣り上がった。何よそれ、と呟いたキーラは怒りで拳を握るとわなわなと震わせた。
イアンはようやくキーラの様子がおかしいことに気付いたが、時すでに遅し。
「もう…………全部だいなしです!!」
キーラは拳をイアンの腹に打ち込んだ。イアンはぐえっとカエルのように呻いて腹を抱えて蹲った。
「殿下の馬鹿!私に勝ちたいなら死ぬ気で修行に励んでくださいよね!もう知らないっ!」
ふんっと怒りを顕にしたキーラの背中を見送って、イアンは自分がどこから何を間違えたのか、痛みに悶ながら逡巡するのだった。
「馬鹿だろあいつ……」
「ですなぁ……」
そんな二人を、影からシドと神官が見守っていたとは、イアンは知る由もない。