イアンとキーラ
イアンは北部の冬が厳しいことは知っているつもりだった。シュトックマー領は身も凍る程の寒さなのだろうと覚悟していたが、体感してみてその覚悟が甘かったことを思い知らされた。
いざ北部の氷鬼山脈を目の前にしたら、圧倒されて言葉も出てこない。連なる山々は寒々しく、どんと構える姿は恐怖すら覚える。
呼吸をすれば喉から肺が凍るのではないかというくらい空気は冷たい。雪に覆われた真っ白な世界は、吹雪けば方角が分からなくなる。
真冬のシュトックマー領では、長時間外でじっとしていれば血流が止まり凍死してしまう。まさに極寒の土地である。
北部の人々は冬はほとんど家に籠もって仕事をする。女達は縫い物をしたり、保存食を作ったり、男達は狩りに出てトナカイ等の動物を狩り、食料にしたり毛皮を剥いだり。
シュトックマー領では晶石がよく採れるので、夏場に採掘した晶石の加工をするのも冬の仕事だ。
ここまでは普通の寒い土地の暮らし方と変わらないのだが、シュトックマー領が過酷なのは、頻繁に魔物や悪魔が出没する点にある。
特に冬場には悪魔が出没することが多く、これを退治するのがシュトックマー騎士団と、シュトックマー領お抱えの魔法使いであった。
そしてイアンは、シュトックマー領へ修行のためにとやってきて早々、出迎えたシド・シュトックマーから毛皮のコートを渡され、防寒装備をするように言われた。それが終わると、待ち構えていた騎士達と魔物退治へと同行するはめになった。
狼のような魔物が小さな村を囲んでいると連絡が入り、退治するために遣わされた騎士はたったの五人。シュトックマー騎士団をまとめているシドをはじめ、新人騎士が二人、新人魔法使い一人にイアンのみだ。
曲がりなりにも第一王子であるイアンを、たった四人で魔物退治に同行させるだなんてと一瞬頭に過ぎったが、リスベットの弟子となった一年間で、イアンはかなりの成長を遂げていた。
魔法使いとしても人間的にも、リスベットにこてんぱんに叩き直されたイアンは、今ではそれなりの魔法使いとして強くなり、考え方や物の見方も変わった。少しの自信をつけたイアンは、意気込んで魔物退治に向かったのだが、外は吹雪で、村を囲む魔物の数は相当な数。
「なぜこの数の魔物に対してたった五人なんだ?!」
「何を言ってるんだ?このくらいの魔物ならば新人研修にもってこいだろ」
さらりと答えたシドは、さあ行けと容赦なくイアンを魔物の群れに突き飛ばした。シドはリスベットとは元婚約者同士と聞いたが、似た者同士だと背筋がゾッとした。
ともあれ、死ぬわけにはいかないので、イアンは向かってきた魔物を必死で倒していく。
光りで目を眩ませて、杖を剣に変えて切り裂き、炎で焼いて、水で凍らせる。寒さでかじかんで手が震えるし、身体は思うように動かないイアンとは反対に、北部育ちだという他の騎士二人は、重そうな長槍を振り回して魔物を薙ぎ払い、確実に急所を突いて倒していく。
北部生まれの貴族は子供の頃から魔物退治の訓練を受けるというから、彼らが慣れた様子なのは頷けた。
そして、新人魔法使いはというと、長杖の杖先から砂を吹き出したかと思うと、撒き散らした砂を無数の槍へと変えて、魔物に降り注いだ。圧倒的な槍の量と魔力の甚大さに、魔物はあっという間に一掃された。イアンは呆気にとられて魔法使いを眺めた。
魔法使いはイアンの視線に気付くと、毛皮のコートと鼻先まで覆ったマフラーから唯一覗いて見える目だけで、にっこり笑って見せた。
無事に魔物退治を終えた一行は、長毛に覆われたトナカイの背に乗ってシュトックマー城へと帰還した。
シュトックマー騎士団は夏は馬に乗り、冬はトナカイに乗るという説明を受けながら、イアンは暖炉の前で毛皮のコートを脱いだ。
毛皮の帽子、マフラー、手袋すべてを脱いでようやくほっとしたところで、騎士二人と改めて挨拶を交わして、イアンは気づいた。
毛皮のコートを脱ぎ捨てて、マフラーを取り払った魔法使いが、女であることに。
「お初にお目にかかります。イアン殿下」
と、恭しく頭を下げた女の歳の頃は十代後半。肩につくくらいの明るい金髪は外側に跳ね上がり、茶色の瞳は猫のよう。にこりと微笑んだ口元には笑窪が浮かんでいる。
「私はキーラ・アンダーソンと申します。イアン殿下に会える日を楽しみにしておりました」
人懐っこい笑顔に、イアンは思わず見惚れた。こんな可愛らしい雰囲気の女性がまさかあんな強力な魔法を使えるとは。
驚いていつまでも返事をしないイアンに、キーラは更に微笑みを強くしてにじり寄ると、その形の良い唇ではっきりと言った。
「あの傲慢で自分勝手で周りのことが全然見えないと評判のイアン殿下が、国一番の魔法使いにしごかれて、プライドがずたずたにへし折れてどんな風に変わったのか、この目で確認したかったんですが、やっぱり……」
見た目の可愛さからはかけ離れたあまりのストレートな物言いに、え、とイアンは固まった。
「とーっても素敵になられましたね!私、強くてお金持ちで権力があって顔のいい男性が大好きなんです!今のイアン殿下は私の理想です!」
きゅっとキーラの手がイアンの手を包み込んだ。驚く程温かく柔らかい感触に、イアンはどぎまぎした。
「殿下!私と結婚してくださいませ!私贅沢するのが大好きなんですの!私を王妃にして毎日美味しい物を食べて素敵なドレスを着させてくださいませ!」
「な、な、な……!なんだと?!」
あまりの事に仰天するイアンの横で、シドがくつくつと笑いながら言った。
「よかったなイアン殿下。婚約者候補が出来て。ちなみに、キーラは私の弟、デレクの妻ケイトの妹だ。西部の出身だからずけずけ物を言うぞ」
「そ、それにしても、言い過ぎだ!!」
人間的に成長したイアンだったが、この日は久しぶりに憤慨したのだった。
翌日、朝食の席でイアンはケイトに頭を下げられていた。
「殿下。昨日は妹のキーラが失礼なことを言ったようで申し訳ありません。あの子はなんに対しても正直で、よく言えば素直で分かりやすい子なんですけど、悪く言えば自分の欲望に忠実な子でして……」
「失礼だが、なぜ妹のキーラ嬢がシュトックマー領に?西部の出身と聞いたが……」
「魔法使いの才能があるから、私がスカウトしたんですよ」
と、デレクが言うと、シドが頷く。
「北部は悪魔が多く出没するので、悪魔払いの出来る魔法使いを常に募集してましてね。国に魔導士の申請をしてもいつまでたっても派遣されてこないので」
「それは魔導士が少ないからか?」
「いえ。シュトックマー領はご覧の通り過酷な土地ですから、皆赴任したがらないのです。こちらに派遣されてきた北部出身でない魔導士や騎士は、冬に耐えられずに逃げ帰る者が多いです」
初耳だった。そんなことも知らないでこの地に来た自分を、イアンは恥ずかしく思った。
「そ、そうなのか……。それじゃあキーラも逃げ帰る可能性があるのでは?」
「妹は今年の秋からこちらに来ていますが、私からの手紙でいかに過酷な土地かは言い聞かせておりましたので、ある程度覚悟はしていたでしょうし、アンダーソン家の女は根性だけはありますので」
「それでも、よく来たな……並々ならぬ覚悟がないと、若い女性が来れないだろうに」
関心するイアンに、ケイトは薄く笑った。
「シュトックマー領には見目麗しい男性騎士がたくさんいる上に、女性が少ないから絶対にモテるわよと言ったら、行くと即決しておりました。西部は女性のほうが多くて、キーラは学園を卒業して実家に戻ってから、婚活に苦戦しておりましたので」
イアンはもう何も言わなかった。
何はともあれ、その日からイアンは騎士団に混じって訓練に参加することになった。
イアンはリスベットの元で魔法使いとして修行をしているので、これからの一年は魔法よりも騎士として剣や槍、体術等、軍事訓練を中心にしていくことになった。
訓練はシュトックマー城の中で行われることもあれば、野外訓練として雪山の中で演習を行ったり、トナカイを狩って捌き町に卸ろしに行ったり、衛兵のように町の見回りをしたり、魔物退治に行ったりと多岐にわたった。
どの訓練も過酷で厳しかったが、中でもイアンは雪山の演習が苦手だった。特に吹雪いた時は最悪だった。道が分からなくなり騎士達とはぐれてしまった時は、このまま死ぬのではと覚悟した程だ。それが一度ならず三度もあった。
しかしそんな時は必ず、危ないところでキーラがイアンを見付けて助けてくれた。
「イアン殿下。また魔力を使い切っちゃったんですか?遭難した時の心得は何度も教えてるはずじゃないですか。魔力を残しておかないなんて頭空っぽなんですか?脳みそ詰まってますか?バカなんですか?本当に魔法使いですか?」
寒さで凍えて死にかけのイアンにも、キーラは容赦なかった。反論する元気もないイアンに、仕方ないなあと言って、驚く程の力でイアンを担いで仲間の元まで引きずって行った。
キーラは変な女だった。歯に衣を着せぬ物言いは毒舌といってもいいくらいだし、本人が言う通り顔のいい男が好きで、イアンの顔をうっとりと眺めながら、王妃にしてくれと手を組み合わせて、毎日飽きもせずに言い寄ってくる。
少し前の自分を彷彿とさせるところもあって鬱陶しいのだが、同じ騎士団で共に訓練をする仲間として邪険には出来ないし、言い寄られること自体は悪い気はしていないしで、三ヶ月経った今となっては、結婚してください。いやだ。という二人のやりとりは、シュトックマー騎士団ではおなじみの光景となっていた。
ある日訓練終わりに求婚してきたキーラに、イアンは呆れつつ言った。
「君も貴族の端くれだろうに、よく思ったことをそのまま口に出せるな。あまりに正直過ぎると痛い目にあうぞ。そんなことでは王妃にはなれない。貴族の大半は笑顔で称賛しながら、腹の中では悪態をついて足を引っ張ってやろうと企む者ばかりなんだ」
「あら。だからこそはっきりと言わなければならないんじゃありませんか。そんな人達と回りくどいやり取りなんてしてられませんからね!」
ふんと笑って見せたキーラがなんだか頼もしく見えて、イアンはぼうっと見惚れた。
「それに、動物や魔物が欲望のままに生きてるのに、建前だなんだと自分を飾ったり見栄をはったりと、人間は面倒なんですよ。私はそんなことよりも自分の人生楽しみたいんです!素敵な男性と結婚して愛情を注いで子供を産んで、幸せな家庭を築く!もちろんそのための努力は怠りませんよ!魔法使いとしても、王妃としても、国のために邁進します!」
突然のプロポーズはいつものことだが、今日のキーラはいつも以上にきらきらと輝いて見えて、イアンはドキドキして困った。
はっきり言ってキーラはイアンの好みではない。キーラには、ダリアのように女性らしくて妖艶なところは欠片もない。
確かに可愛らしくはあるし騎士達にも人気はあるが、ストレートな物言いにはたじろいでばかりだし、その毒舌ぶりには結構傷付いている。
それなのに、いつからか目で追うようになって、気になる存在となってしまっている。そんな自分に困惑した。あれ程ダリアに執着して中々諦められなかったのに。
「イアン殿下。だから……」
と、キーラはイアンに詰め寄った。考え込んでいたせいで、いつの間にか壁際に追い込まれていたイアンは、キーラに襟を掴まれて引き寄せられた。
「キスしてくださいませ」
「な、な、なぜそうなるんだ?!」
突然の申し出に、イアンは動揺して声が上擦った。すぐ目の前にキーラの可愛らしい顔が迫っている。それだけで顔が熱くなった。
「私が今したいんですの!」
「だからなぜ?!」
「そういうムードでしょ?!」
「どこがだ?!微塵もそんなムードではなかっただろ?!」
「いいですから!」
遭難した時も思ったが、キーラは驚く程力が強い。イアンがキーラの肩を押して引き離そうとしても、ビクともしない。どこにそんな力があるのか。離れるどころか、キーラはイアンを引き寄せた。
キーラの顔が僅かに傾いたかと思うと、触れる瞬間にまぶたが閉じられた。長いまつ毛が影を作る。どうにでもなれと、イアンもぎゅっと目を瞑った。
二人の唇がピタリと重なった。それは触れ合うだけのキスだったが、中々離れない。キーラの唇はしっとりして柔らかくて、イアンはふわふわとした心地になって、何も考えられなくなった。
キーラの肩を押して突き離そうとしていた手を背中に回すと、こちらから抱き寄せた。イアンは唇を離して角度を変えると、再び唇を重ね合おうと顔を寄せた。
そこで、真っ赤になったキーラと目が合って、はっと我に返った。
「で、殿下……」
「いや、あの……これは」
慌ててキーラを腕の中から解放したイアンは、うまい言葉を見つけられないまま、しどろもどろになった。キーラはキーラで、大胆にも自分からキスしてきたくせに、照れてもじもじしている。
そんなキーラのギャップにやられて、イアンは心中で苦悩の声を上げた。
可愛い。可愛すぎる。くそ!
その時、あらやだやだと扉のほうから男女の声がしてきた。え、と二人でそちらを見やれば、シュトックマー伯爵夫妻が扉から覗き見しているではないか。
「若いっていいわよねぇ〜」
「私達の若い頃を思い出すよ」
「いやだあなたったら!」
と、ガルシアとドミニクははしゃぎながら去って行った。イアンはぽかんとした後で、事の重大さに頭を抱えた。
よりによってあの二人に見られるとは!
「城中に今のことが知れ渡るぞ!」
羞恥で悩むイアンに、気を取り直したキーラが、イアンの背中を叩いて微笑んだ。
「まあいいじゃないですか!公認の仲ってことで!」
「よくない!」
イアンが危惧した通り、その日のうちにイアンとキーラがキスしていたことは城中に広まることとなった。このことは真冬で退屈していたシュトックマー城の者達にとって格好のネタとなったのだった。
そして、翌日からキーラを慕う騎士達からやっかみを受けたイアンの訓練は、より過酷さを増していくこととなる。それと比例して、キーラの求愛行動もより激しくなっていくのだった。