イアンと悪魔 4
黒焦げになった骨狐の身体はすでに限界を迎えているはずなのに、悪魔は大きく跳躍してハリエットに向かっていくと、凍てつく吐息を吐き出した。
すると、ハリエットの周りを飛んでいた蝶が集まり重なると、結界となり弾き飛ばした。
今度は悪魔が邪気を放ちながら、蝶の結界を体当たりで突き破ると、ハリエットに飛び付いた。
しかし、ハリエットは落ち着いていた。身体をひねって悪魔から逃れると、素早く杖をレイピアに変えた。
そして、身体を回転させて勢いを付けて悪魔の首に叩き付けたが、ハリエットの力だけでは首は落とせず、レイピアは悪魔の首に食い込んだまま途中で止まった。
「そんな力で斬れると思ったのか!」
悪魔がほくそ笑んだ時、ハリエットの影から一斉に蝶が羽ばたき、悪魔を取り囲んだ。
「斬れるわよ」
その言葉を合図に、蝶から無数の糸が放たれて、悪魔に絡み付いた。身動きが取れなくなった悪魔が、金色の光に包まれて叫んだ。
「やめろォォオ!!」
「引け」
ハリエットの合図で蝶が上昇し、悪魔の首が斬り落とされた。胴体は横倒しになり、ほとんど炭と化した真っ黒な首がごろごろと床を転がり、赤い目から光が消えると、壁にぶつかって灰となって散った。
辺りがしんと静まり返る。
「やった……のか?」
今度こそ終わったと思ったその時、キーラが駆け寄ってきた。
「殿下!」
「キーラ……!」
キーラが壇上に駆け上がり、イアンの胸に飛び込んできた。ようやく身動きがとれるようになってキーラの背中に手を回したその時、集会場に地を這うような声が響き渡った。
「首がなくとも身体は動く……」
首を失くした悪魔の胴体が突然起き上がると、ハリエットのレイピアを前足で弾き飛ばした。咄嗟のことで反応出来なかったハリエットに、悪魔が明朗な声で宣言した。
「神に仕える者が悪魔に墜ちるのを見せてやろう!」
悪魔はハリエットを蹴り飛ばして結界を破壊すると、床に押し倒して乗りかかった。ハリエットが呪文を唱えようとすると、それを遮るように悪魔が絶叫した。
悪魔の身体が首から胴体に向かって、みるみるうちに灰へと変わると、凄まじい邪気となって辺りに降り注ぐ。
灰がイアンの肌に触れた瞬間、心臓がぎゅっと掴まれた様に痛み、喉の奥から胃の中のものがせり上がってくる感覚に襲われた。イアンはキーラを引き離すと、顔を背けて、堪えきれずに嘔吐した。
「ここにいる全員、私の生贄だ」
頭の中に、悪魔の声が入り込んでくる。怨みや憎しみに満ちた言葉をまくし立て、恐怖で心を占拠しようとする。イアンは頭をかきむしった。
キーラもまた、頭を抱えて床に倒れ込むと、耳を塞ぎ、声にならない声を上げている。
「逃げてください!」
ハリエットが結界を張って叫んだが、すぐさま悪魔の叫び声にかき消されてしまった。床板が剥がれ、天井の一部が崩れ落ちる。そのつんざくような声に、鼓膜を突き破られ、頭が割れそうになった。
キャスリンと神官達でさえ、あまりの邪気に耳を塞いでうずくまり、動けないでいた。
このままではまずい!なんとかしないと!
歯を食いしばり、なんとか顔を上げて悪魔を見やると、尾と足だけになった悪魔の足下から、どろどろに溶けた黒い液体が広がり、ハリエットを侵食しようとしていた。
ハリエットの制服が黒く染まり、禍々しい邪気が全身に絡み付く。ハリエットが金縛りにあったように動けないでいると、悪魔から伸びた影が首に巻き付き、呪詛の言葉を撒き散らした。
「まずはお前から取り憑き、殺し、闇に墜としてやる……!」
悪魔はどろどろに溶けていく。強烈な邪気を撒き散らすその様に、イアンは絶望しそうになった。このままハリエットが悪魔に取り憑かれたら、取り返しがつかないことになる。
どうする?どうしたらいい?
こんな時、リスベット先生ならどうする?
その時、イアンはふいに思い出して、上着の内ポケットを弄った。そして、震える手で小さなドリームキャッチャーを取り出した。
それは、リスベットお手製の悪魔除けだった。今日のために、イアンがお守り変わりにと、自室からこっそり持って来たのだ。
イアンはそれを握りしめると、リスベットの言葉を思い出した。
「信仰心のない女に神様が力を貸してくれるわけないでしょ。自分の力を信じて力尽くで悪魔を祓ったほうが早いのよ」
――自分の力を信じて、悪魔を祓う……!
イアンは額にドリームキャッチャーを当てると、祈るように魔力を込めた。
イアンは自分が神力を持ち合わせているかは分からなかったが、曲がりながりにも王族だから、悪魔に対抗する力は充分持っているはずだ。
例えなかったとしても、何としてでもここにいる全員を悪魔から護らなければならない。春の祭りを楽しみにしていた騎士達を思い出し、誰一人欠けることなく、春を迎えたいと思った。
とはいえ、思いだけで勝てる相手ではない。ならば、とにかく今は、ハリエットから悪魔を引き剥がすのが先決だ。
「ウィンスレット神官長から離れろ!!」
渾身の力を込めて、イアンは立ち上がった。頭に刺すような痛みが走り、悪魔の呪詛の言葉が頭の中に侵入しようとしてきても、イアンは歯を食いしばって耐えた。
大量の汗が全身から吹き出す。今すぐにでも倒れてしまいそうだ。
それでも、王族の自分が悪魔に乗っ取られるなど、あってはならない。撥ね退けろ、出ていけ、と何度も念じると、悪魔めがけてドリームキャッチャーを思いきり投げ付けた。
「喰らえッ!」
ドリームキャッチャーは綺麗な放物線を描いて、ハリエットの上に落下した。その瞬間、光が弾けて集会場が真っ白になる。
イアンはあまりの眩しさに目を閉じた。そして、魔力を全て注ぎ込んだせいで全身から力が抜けると、その場にへたりこんだ。
「殿下!」
キーラが叫び、イアンの身体に縋り付く。光が弱まってきて、イアンはうっすらと目を開けた。キーラがイアンの上体を起こすと、膝の上に頭を乗せて、今にも泣き出しそうな表情で見下ろしていた。
「キーラ……大丈夫か?」
「それはこっちのセリフです!」
キーラの目から涙が溢れたその時、悲鳴が上がった。それは悪魔の口から出たものだった。
まだ終わっていなかったのだ。イアンとキーラは身を強張らせた。
骨狐の身体は完全に灰となり、体を失った悪魔が黒い靄となって這い出ると、ハリエットの前で苦しみもがいていた。
ハリエットは、ぜえぜえと荒い呼吸を繰り返しながらゆっくりと立ち上がると、いつの間にか手にしたレイピアを悪魔に向けた。呪文を唱えると、白い光が集まる。ハリエットは凛とした声で言い放った。
「玻璃の鏡」
レイピアが楕円の鏡に変化した。白い額縁に蓮の花の模様と古代文字が彫られた、美しい鏡だった。ハリエットが鏡を悪魔へと向けると、悪魔が悲鳴を上げた。やめろやめろと怯えた声を上げている。
ハリエットは悪魔を一瞥すると、淡々と述べた。
「悪魔のはじまりは、天界から堕落した天使だといわれているけれど、あなたはこれまでにどれ程の罪を犯したのかしら?」
ハリエットの瞳が金色に輝きだした。鏡に神力が注ぎ込まれると、光が放たれて悪魔を照らした。
悪魔の黒い靄を光がじりじりと焦がしていく。悪魔は絶叫して異臭を撒き散らし、靄となってもじたばたともがく。誰かに取り憑こうと影を伸ばすも、光が逃さなかった。
ハリエットは目を細めて鏡を覗き込むと、その中に何かを見つけたかのように微笑んだ。
「――ルシファード。地獄で罪を償えるのならいいのだけどね」
名前を呼んだ瞬間、悪魔の絶叫が消えると、目を開けていられない程の圧倒的な光が靄を消しさった。悪魔の影も形もなくなると、ハリエットの鏡から光が失われた。鏡は真っ黒に染まっていた。
ハリエットがゆっくりと鏡を覗き込むと、鏡の中には、一人の美しい青年が映し出されていた。
「それは誰だ……?」
「ルシファード。……悪魔の元の姿ですよ。さて、彼を地獄へ送りましょうか」
イアンの問いに答えてから、ハリエットは鏡を宙に浮かせると、手を組み合わせた。すると、倒れていた神官達も身を起こし、ハリエットと共に聖典の一説を復唱しはじめた。
「天と地が分けられ、神と獣が生まれ、やがて地に人が生まれた。罪を負った天使は地に落ち、形を変えて悪魔となった。神は裁きはせず、ただ見守る。代わりに人に力を与えた……」
宙に浮いた鏡がぐるぐると回転すると、再び光を放ちはじめた。ハリエットは声を張り上げた。
「神に仕えるものに神力を捧げると!」
鏡がピタリと止まると、元の真っ白な鏡に戻っていて、鏡の中にはすでに青年の姿はなくなっていた。
「今度こそ、終わった……?」
「ええ。なんとか悪魔を祓うことが出来ました」
ハリエットが疲れたように微笑むと、神官達からわっと声が上がった。それを聞いて避難した騎士達が戻ってくると、歓声が沸き起こった。半壊した集会場が、拍手と歓声に包まれる。
皆ぼろぼろの格好で怪我をしている者も多く、立っているのもやっとという状態だったけれど、手を叩くのを止める者はいなかった。
ハリエットはようやく気が抜けたのか、がくんと膝を折った。そこを、シドが駆け寄ってきて倒れる寸前で抱きとめた。
「気が抜けてしまいました……申し訳ありません」
「それはこちらのセリフです。悪魔を祓ってくださってありがとうございます」
丁寧にお礼を言ったシドが、ハリエットの肩に手を回した。その隣りで、キャスリンが二人を見比べてニヤリと微笑んでいた。
「殿下……」
辺りを見渡していたイアンの頬に、そっとキーラの手が添えられた。イアンは視線を上げた。
「キーラ、本当に終わったのか?」
「無事に悪魔を祓いました!」
それを聞いた瞬間、強張っていた身体から一気に力が抜けた。
「よかった……。キーラ、そこの騎士は生きてるな?」
キーラは、隣で倒れたままの騎士の顔を見下ろし、首筋に手を当てて脈を測ると、大丈夫ですと微笑んだ。
「よかった……。他の皆はどうだ?」
「皆無事のようです」
それを聞いたイアンは、心から安堵した。達成感と魔力を使い切った疲れとで、無性に眠い。このまま目を閉じてしまいそうだったので、せめて意識を手放す前にと、キーラの手を取った。
「キーラ、寒くないか?」
「殿下の体温が温かいです」
「そうか……。キーラ。悪魔相手に啖呵を切って、護ってくれてありがとう」
キーラは目を大きくし、破顔した。
「私は強いですから。殿下こそ、結界で私を護ってくださった時、悪魔に立ち向かった時、とってもかっこよかったです!私、惚れ直してしまいました……!」
イアンはふっと微笑み、思い出したように告げた。
「キーラ、ずっと言うのを忘れてたんだが……そのドレス姿、とても綺麗だ……」
イアンは頬を染めて照れるキーラの笑顔を見て、幸せな気分になった。
そして、誰一人死なずにすんでよかったと、誰にともなく感謝をして、ゆっくりと目を閉じた。