イアンと悪魔 3
集会場は静まり返っていた。騎士や神官は、それぞれの持ち場でじっと息を潜めて悪魔が現れるのを待った。
それからどれだけの時間が経ったのか、薔薇の香りで集会場が満ちた頃、異変が起こった。
カタンと風が窓を揺らす小さな音がして、視線を窓へ向けたが、何もない。隣のシドが、左右に目を動かして警戒しているのが分かると、イアンの緊張も一気に高まった。
扉は閉まったままなのに、どこからか冷気が流れ込んできて、暖炉で暖まった集会場の中が、急に冷えてきた。
吐息が白い。暖炉の炎が小さくなっていることに気が付いた時、炎がふっと消えた。
キーラはドレスを一枚しか着ていないので、寒さに震えていないか心配になって顔を上げようとしたところで、今度は蝋燭の炎が小刻みに揺れていることに気付いた。
――悪魔が近くにいる。
イアンは汗で湿った拳を握りしめた。
集会場の入口は一つしかない。扉を注視していると、扉の前にある二本の蝋燭の炎が大きく揺れて消えたのを合図に、ギィィと音を立ててゆっくりと扉が開いた。そこから冷たい風が一気に吹き込んで来て、次々と蝋燭の炎が消えていく。
やがて壇上にある蝋燭の炎のみとなった時、キーラが立ち上がった。キーラは扉のほうを注視している。
イアンは耳を澄まし目を凝らしたが、そこには骨狐の姿はない。それなのに、ひたりひたりと何かが歩く音が聞こえてきた。それはゆっくりと、着実に壇上へと向かっていた。
イアンは思わずキーラの元へ行こうと立ち上がりかけて、シドに腕を掴まれて引き止められた。まだだ、と小声で制されて、イアンは奥歯を噛みしめた。そっと机の影から壇上を覗き見ると、キーラは両腕を抱きしめるように交差させて、寒さでかたかたと全身を震わせていた。
「誰かいるの……?」
キーラの声が集会場に響き渡ると、答えるようにキシキシと床が軋む音がし、次いで低く唸るような声がした。
「肉体も、精神も若く。処女の生き血と、強い魔力。欲が深く……それでいて、愛情深い」
じゅるりと舌なめずりをするような音がした。そして、ひたりひたりと、ゆっくりとした足取りで壇上へ向かっていた足音が、突然ひたひたひたと加速すると、壇上の蝋燭の炎が消えて、集会場が暗闇に包まれた。
「明かりよ!」
キーラの声で集会場に明かりが灯ると同時に、禍々しい邪気が集会場を埋め尽くした。
そして、ついに骨狐が姿を現した。
狐の顔をして大きな牙を生やし、赤い縦線が額に入った骨狐は、四肢と尾は銀色の毛で覆われているのに、胴体の太い骨は丸見えになっていて、所々血のように赤黒く染まっていた。
大きさは牛程だが、全身からは禍々しい邪気が漏れ出ていて、口端から唾液を垂らし、赤く鋭い目はキーラにだけ向けられている。その目は冷たいのに、目の奥は笑っていた。イアンはゾッとした。
骨狐は走る速度を上げると、大きく跳躍した。向かう先はキーラだ。
「キーラ!」
イアンが机の下から這い出ると、シドがかかれ!と声を張り上げた。すると、集会場のあちこちから騎士が飛び出してきたが、骨狐とキーラのほうが速かった。
キーラは迎え撃つようにドレスの裾から短杖を引き出すと、ピシリと骨狐へと向けた。すぐに杖先から砂が吹き出したが、同時に骨狐の口からも冷気が吐き出された。
砂と冷気がぶつかり合うと、激しい爆発音を立てて、凍った砂が吹き荒れる。イアンや騎士達は、爆風に飛ばされないように咄嗟に屈んで踏ん張った。
空中に留まっていた骨狐が、キーラへと急降下して襲いかかった。
しかし、事前にイアンが張っておいた水の結界が骨狐を弾き飛ばした。跳ね返された骨狐は、空中で一回転して壇上に軽やかに着地した。口端からだらだらと血が混じった唾液を垂らしている。
骨狐は首をぐるりと回すと、騎士達を睨み付けた。騎士達はじりじりと骨狐との間合いを詰めていく。と、一人の騎士が剣を振り下ろしたのを合図に、一斉に斬りかかった。
はじめの一撃は飛び下がって避けようとした骨狐の前足を掠めた。間髪入れずに二撃目が一本の尾を斬り捨て、三撃目は胴の骨を砕いた。
騎士達は連携の取れた動きで骨狐を追い詰めていく。三人の騎士が素早く骨狐に詰め寄り剣を突き出すと、避けたところを二人の騎士が挟み込んで、二本の尾を斬り落とした。
骨狐は悲鳴を上げると、逃れようと大きく跳躍した。そこを、シドの放った炎の渦が襲いかかった。既のところで炎を避けた骨狐の尾先が、ちりちりと焦げている。
次に、騎士の投げた槍が後ろ足に命中した。体勢を崩した骨狐が、壇上に落下して転がる。
「今だ!やれ!」
シドの掛け声で騎士達が一斉に剣を突き出したが、既のところで体勢を立て直した骨狐が大きく跳躍すると、凍てつく吐息を撒き散らした。
咄嗟に、キーラが土の壁を出現させて騎士達を護ったが、その壁を骨狐が残った尾を大きく振り回して破壊した。
土の壁の破片が騎士達に降り注ぐも、今度はイアンが素早く張った水の膜で防いだ。
そうしている間に、骨狐はキーラのほうへ走り出していた。そこを、放て!というシドの合図で、扉の前で待機していた騎士が、弓で狙い打った。
弓は骨狐の胴体を掠めた。次々と弓が放たれて、とどめにシドの放った氷柱の刃が降り注いだ。無数の矢と氷柱の刃が、骨狐の手足や首に突き刺さる。
しかし、確実に致命傷を負わせたはずなのに、骨狐はダメージを受けた様子がない。それどころか、刺さった矢や氷柱をそのままに、走る速度を緩めずにキーラ目がけて飛びかかった。
「キーラ!」
「まかせてください!」
イアンの杖先から水が吹き出し、キーラの杖先から稲妻が走った。水が覆うように骨狐の動きを止めると、稲妻がジグザグに伸びて骨狐を襲った。電流でバリバリと全身を黒く焦がしながら、骨狐が悲鳴を上げた。
どす黒い煙と、肉が焦げた匂いが集会場に広がっていく。
イアンは急いで壇上に上がると、キーラの元へ駆け寄り、抱き寄せた。キーラの身体はすっかり冷えきっていた。イアンはキーラの背中に手を回して、温めようとさすった。
「キーラ!怪我は?」
「大丈夫です」
ほっとした時だった。骨狐の悲鳴が止むと、身体が横倒しになった。イアンとキーラは、息を飲んで骨狐を見つめた。黒焦げになった骨狐はピクリとも動かない。
「倒した……のか?」
その場にいた全員が気を抜きかけた時、違うぞ!とキャスリンの声が集会場に響き渡った。
「骨狐は死んでも悪魔は生きておる!早くここから出るんだ!」
「外で神官が結界を張っています!後は私に任せて、避難してください!」
ハリエットは叫ぶと、短い呪文を唱えた。突如、空中に長杖が出現すると、ハリエットはそれを掴み取り、聖典の一節を復唱し始めた。
その時、耳をつんざく絶叫が集会場を揺らした。黒焦げになった骨狐から膨大な邪気が放たれていた。
窓ガラスが割れ、集会場の壁に亀裂が入った。ガタガタと地面が揺れ出すと、イアンは咄嗟にキーラの手を引いて壇上から飛び降り、机の下へと潜り込んだ。扉の近くにいた数人の騎士が、慌てて外へ飛び出していったが、揺れはどんどん激しくなっていく。
イアンは壇上を見やった。逃げ遅れた騎士達が、邪気に当てられて、動けずにいる。
「キーラ!揺れが収まったら外へ逃げろ!」
「殿下っ!」
イアンはキーラをその場に残すと、壇上へと走った。激しい揺れの中、何度も転びそうになりながらなんとか壇上を登った。するとそこには、シドが取り残された騎士を二人一気に担ぎ上げていた。
「イアン!もう一人を頼む!」
「はいっ!」
イアンはなんとか騎士の元へ辿り着くと、顔を覗き込んだ。痙攣を起こしているが、幸いまだ意識はある。
「しっかりしろ!」
「い、イアン……殿下……」
「大丈夫だ!」
イアンは騎士の肩に腕を回した。立ち上がろうと足に力を入れたその時、絶叫が消えて、倒れていた骨狐がゆっくりと起き上がるのが視界に入った。イアンは青褪めた。
「逃さない……」
黒焦げになって、顔も尾も、溶けた肉と骨だけになった骨狐の目に、赤い光が蝋燭の炎のように揺れていた。
イアンはその光を見た瞬間、邪気に当てられて動けなくなってしまった。ガタガタと全身が震えだす。
「私の餌……」
悪魔の目が、ぎょろぎょろとキーラを探して忙しなく動く。黒い煙と灰を撒き散らして、じゃりじゃりと壇上を歩き出すと、担ぎ上げた騎士の痙攣が止まって床に倒れ込んだ。あまりの邪気で気を失ったのだ。
ふと、悪魔の目がイアンに留まると、ぎらりと赤い目が強烈な光を灯した。
イアンは総毛立った。狙われている、と直感的に思った。朽ちた骨狐の身体を捨てて、イアンに乗り移ろうとしているのだ。
今までに経験したことのない圧倒的な恐怖がイアンを襲った。金縛りで、指一本動かせない。唯一、額から汗がだらりと流れ落ちた。
ひたり、と悪魔がイアンに一歩踏み出したその時だった。
「殿下から離れなさいよ!」
キーラが叫び、悪魔に岩の礫が降り注いだ。悪魔はそれを跳び上がって避けた。
「その男に乗り移り、お前の生き血をすする」
「お断りよ!」
キーラが仁王立ちで悪魔に食ってかかった。
「殿下は渡さないわ!私のものなんですから!」
キーラ、とイアンは心の中で感動して涙ぐんだ。今すぐ抱きしめたいと思った。
「観念するのですね」
ハリエットの声が集会場に響く。悪魔はハリエットを見て、低く唸った。
「清く、磨きのかかった魂……金色の神力……邪魔だ」
「神に仕える身ですから、あなたを祓いにきたのです」
ハリエットは落ち着いた調子で返すと、キーラに下がるように言った。その時、壁にかけてあった絵画や時計が落下し、椅子が吹き飛んだ。骨狐が全身をぶるぶると震わせて、怒りを顕にしていた。
「私の餌を差し出せ!!」
凄まじい邪気が放たれたが、ハリエットが長杖を向けて、それをはね退けた。
「出来かねます。キャスリン様、シド様、タイミングを見て、皆様を避難させてください」
「あいよ!」
ハリエットが悪魔と睨み合っている間に、机の下に避難していたキャスリンが這い出てきて、イアンの周りに結界を張った。
すると金縛りが解けて、イアンは膝から崩れ落ちた。大量の汗が吹き出し、情けなくも膝が震えて立つことが出来ない。
「殿下、そちらで待機していてください」
神官達がなだれ込んできて、キャスリンの結界を強化するのを手伝い、シドと一緒に動けないでいる騎士達を連れて外へ連れ出して行った。
「さて……」
壇上のイアンと騎士を残して、全ての騎士が避難したのを確認したハリエットは、長杖を器用にくるくると回転させた。
すると、ハリエットの足下に円形の魔法陣が現れた。真ん中に太陽が大きく描かれ、それを取り囲むように蝶が舞う美しい魔法陣だ。
それは金色に輝き出すと、ゆっくりと回転をはじめ、中から無数の蝶が飛び出してきた。蝶はハリエットの周りを優雅に舞い、金色の鱗粉を撒き散らした。
「そろそろ地獄へ送ってさしあげましょうか」
ハリエットは薄く微笑み、長杖を悪魔に向けた。