届いたメール
白昼夢の様なものから解放され、我に返る有津世。
なんだか穏やかな夢を見ていた気がするが、よく覚えていない。覚えていないから、友喜に貰った豪奢な装飾のノートに何も書けそうに無い。
ノートの表紙の、その煌びやかな装飾をじっと眺める。
待てよ…
夢の中で、あの花の香りはした気がした。
いいや、確かに嗅いでいた。
有津世はその、香りについてだけを、細々と書き記した。
『夢を見た。花の香りがした。』
僅かそれしか書けなくて、程無くノートを閉じた。
ふうっと息を吐き、予め借りてきた家族共用のラップトップコンピュータを開き、新着メールが届いている事に気が付いた。
「ん?」
見ると、差出人は例のゲームの公式サイトからだ。
クリックして開けてみると、
「え…何だこれ、文字化けだ…」
読めない。
少しドキッとしたが、ここは前に、父から教わった方法で修復してみる。
が、それでも所々が破損したままだ。
内容はこうだ。
「〜☆※$ヲヲウ…?a5useama津世 様
この度はお問い合わせいただき、誠に有難うございます。
調査中ですので、今しばらくお待ちいただきます様お願い申し上げます。$※〠✘〜」
宛名のバグは直らないが、ここまでの内容は普通だ。問題なのは、この後の文章だ。
「〜※)“緊急緊急。ブロックエラー発生中!⊿◯‡直ちに配置に付け!!緊急緊急。経路に不備発生! 直ちに¶∋∬………………………………
サンデン公式サイト担当 奈巣野 則陽〜」
どういう事だろうか。
前半の文章とどうにも繋がらない。ゲームの宣伝だろうか。
有津世は、早速返事を書いた。
本文を引用しつつだ。
「サンデン公式サイト担当 奈巣野 様
早速のお返事を有難うございます。こちらで読もうとした所、文字化けが起きてしまい、後半部分の意味を汲み取る事が出来ませんでした。再度送って下さると助かります。 柚木 有津世 」
送信ボタンを押して完了したのが確認出来ると有津世はコンピュータの画面を閉じた。
調査中という事は、進展は無しだ。
コンピュータの隣に置いたままの、水色の豪奢な装飾のノートに目をやる。
先程、自分が見ていた夢が気のせいでは無いのだとしたら、自分もひょっとしたら雨見と同じ様な夢を見た可能性もある。確信を持てるのは、ただ、花の香りをしっかりと覚えている事だ。
とても穏やかな夢の様な気がした。
そして体が軽くて。
手元の飴色の小石を左手で弄り回しながら、自分が見た夢の事をほんの少し思い出せている事にふと気が付いた。やはり気のせいでは無さそうだ。
弄り回していた手を止め、石をじっと見る。
有津世は、自分が不思議な世界に足を踏み入れている事に、決して自分を疑いはしなかった。
都内の飲み屋街、その片隅にある地下のオフィスで、則陽は一人黙々と作業に向かっていた。
文字通り、珍しく他には誰も居なかった。
画面を見つめつつ、必要に応じて調べ書き換える。
ここのオフィスは薄暗い。
ともすれば夜の残業で居残りしているかの様だが、外はまだ昼だ。
こんなに陽気の良い土曜日は、仕事をしに来るよりも、気分転換の時間に費やしたいと思う人の方がおそらく多いだろう。
けれども則陽にとって、コンピュータの前に座り作業を進めていく事は、街を何気無しにぶらつく事よりもずっと、意義を感じる事だった。
…このコンピュータは、何なんだろう…。
コンピュータ関連の業界に勤めていて詳しいのにも係わらず、何処の物なのか、見た事も聞いた事も無いシステム。
こうしてマニュアル本を渡されているから、扱い方こそ分かるが、背景が見えて来ない。これはやっていて大丈夫な作業なのか。
関わる様になって少し経ってから感じ始めた疑問だった。
科学者が、興味を惹かれたが故に、いつの間にかマッドサイエンティストになっていた、というのは、笑えない。自分は科学者では無いが、報酬金に釣られ、汚い世界にいつの間にか入り浸っている、なんてのは避けたかった。
だから則陽はこうして自分しか出勤していない時を狙って入力作業しながらも、自分のノートに手書きでメモを残した。
スマートフォンはオフィスに入る時にロッカーに預け入れるシステムなので、手書きでやるしかない。
ただ、他の人には苦痛になりそうなその作業は、則陽にとっては、さほどでも無かった。
元々、地味で正確を要する作業に向いているのだ。プログラマー気質とでも言おうか、彼は我慢強かった。
画面入力とメモへの写し書きをただひたむきに進めていく。
マニュアル本は途方も無く分厚い物だから、全てを書き写せる訳では決して無い。
でも必要に思う箇所は多く、多分殆どそうだが…彼は上手く要所要所をかいつまんでノートに残した。
四方にある監視カメラは、則陽の姿をじっと映し出す。
そんな事も気に留めず。
彼は日差しの柔らかいこの日を薄暗いオフィスで昼前から夜になるまでの時間を過ごした。
街が夕闇にとっぷりと浸かった頃、則陽は自宅アパートへと帰り着き、部屋のコンピュータの電源を入れた。
と何かがモニター画面内をひた走った様に見えた。
則陽は目を擦り、画面がいつもと変わりない事を確認し、荷物を置き上着を脱ぐ。
今日は最後まであの仕事場には誰も来なかったし、なかなか充実した時間を過ごせた。
則陽にとって、コンピュータと向き合う事は何事にも代え難い喜びなのだ。
コンピュータを始めに作った人に、是非ともお礼が言いたい。たまに彼が感じる思いだった。
画面に何かが一瞬映り込んだ。
彼はモニターに目を向けていたので、今度ばかりは気のせいとも言っていられなかった。
「なんだ‥?」
画面をスクロールしてみて、エンターキーを押して、いつものデスクトップ画面に戻る。
モニターの故障か?
それにしては今は綺麗に壁紙が表示されているし、何かのプログラムが暴走しているわけでも無さそうだ。
コンピュータの起動音以外に音を立てるものは無く、部屋は静まりかえっていた。
今夜は、炊飯器に残っている白米と、乾燥わかめを入れた味噌汁と焼き魚だ。
前方にあるテレビをつける事も無く、黙々と食事をする。
お酒に興味は無かった。
一時期飲んではいたが、その後のコンピュータとの時間が無碍になる気がして、今は年に二回か三回くらいしか飲まない。
それでも則陽に不満は無かった。
シラフな状態で、コンピュータと向き合い色んな状況に対峙して、そんな世界に魅了されていた。
則陽だからこそ、今の状況が与えられたのかも知れない。
今夜は何と無く、腹六分くらいで夕飯を済ませ、皿洗いもそこそこに、起動していたデスクトップコンピュータの前へと戻った。
メ―ルが届いていたので早速開くと、先日職場でも要調査となったゲ―ムのバグの一件での問い合わせ主からの返信だった。
手掛かりとなるものが無いまま、とりあえずこれから調査をするとの内容を送っていた訳だが。
表示されたメ―ルの返信内容を読みつつ則陽はモニター画面に顔を近づけると小首を傾げた。
深く薄暗い森の中を歩き進みながら三人は思い思いに視線を巡らせる。
ゆっくり歩きながら、キャルユが言う。
「ねえ、私、夢を見たのよ。」
キャルユの発する言葉に頷きながらツァームとアミュラが耳を傾ける。
「ここよりもずっと遠い何処かの星で、私達が違う私達で、でも同じ様に仲良しなの。…楽しかったわ。」
「それ、前に話してくれた話の事かい?」
「そうね、正確に言うとちょっと違うけど…、でもそうね…、同じだわ。」
キャルユが二人を慈しむ様に見つめる。
「だから私、何が起きても、別の星でもあなた達と会える事を知っているから、今のこの状況もへっちゃらよ!」
彼女の言葉を受けてアミュラがツァームと目を見合わせる。
そうして二人はキャルユに向き直った。
「キャルユ…そうだよね…、どんな状況になろうとも、あたし達は一緒だね、きっと大丈夫!」
「うん…。二人とも偉いよ。」
ツァームが感慨深げに言った。
「僕達の役目は、エールを送る事だ。送れなくなってしまった箇所については、今の所なすすべが無い。ただ、石碑の”主”からのメッセージの中で、ひとつ、分かった事があるんだ。」
キャルユとアミュラがツァームに注目する。
ツァームは二人の顔を交互に見ながら続けた。
「樹が枯れてしまう前の日に、僕らはあの樹にエールを送ったし、光は届けられた。そう、いつもの様に成功したと思っていたんだ。だけれど、石碑からのメッセージを読み解く限りでは、その光は上手く到達しなかった様なんだ。」
「え、どういう事?」
キャルユとアミュラが驚いた顔を見合わすと、ツァームの方を振り返る。
「うん、僕らはエールを送って光が満ちると、その光が何処か遠くへと飛んでいくのを度々見ている。そしてあの日も飛んでいったと思ったんだけど、それが跳ね返ってきたのが、あの樹の枯れた原因みたいなんだ…。」
「エールが…跳ね返った…?」
「でも、エールだったら、光だったら、戻っても樹を枯らす事は無いんじゃないの?」
「そこが分からないんだ。エールは樹を枯らした事が今まで一度だって無かったんだ。だから枯れた事に関しては、僕も疑問に思っている。」
「うん…。」
三人は黙り込んだ。
ツァーム達が存在しているこの世界は、森の樹々の空気が濃く、それでいて軽やかだ。
妖精の光はそこら中に舞っているし、世界ごと、バリアーが張り巡らされているかの様に守られている感覚があった。
だからこそ、そこに存在した始めの時には幼児だったが彼等自身で生き延びる事が出来たし、つまり対峙する脅威なども無かった。
それがここに来て初めての難題が、樹が立ち枯れた事だった。
「ねえ、」
キャルユが言った。
「樹にもう一度、エールを送ってみない?」
「何か、変化があるかも知れないし、ねえ、どうだろう?」
キャルユの言葉を受けて、頷きながらアミュラがツァームにも意向を尋ねる。
「そうだね…やってみようか。」
ツァームが笛を取り出すと、キャルユとアミュラがツァームの肩に手を伸ばしてそっと触れた。
ツァームは二人の手が自分の体に触れているのを確認すると、短く特徴的な音色を笛で奏でた。
直後、三人の体が白い光の粒子に包み込まれ、霞がかって消えた。
再度送られてきたメールは、真っ当に読めた。文字化けが無かったからだ。
ただ、最初の文字化けメールの文末にあった、意味の不明な文章も、それに関する説明も、一切載っていなかった。とてもビジネスライクな、要点だけをかいつまんだ文章だ。
メール内容を確認して、有津世はラップトップコンピュータのモニター画面を閉じて注意深く小脇に抱え、自分の部屋のドアノブに手を掛けた。
カチャっと軽い音がしてドアが開く。
すると同時に友喜の部屋からも同じくドアの開く音がして、友喜が出てきた。
二人共もうパジャマ姿だ。
「チェック完了?」
友喜は有津世の手にしているラップトップコンピュータを目にして問いかけてから、
「私は喉が渇いたんだ。」
部屋から出てきた理由を続けて話した。
そんな他愛のない会話は普段からしているのに、何故だか有津世は気になった。そして、リビングへと続く階段を下り始める友喜を、何故か目で追っていた。
友喜が視線に気付き、
「何?」
と有津世に尋ねると、有津世は、
「いんや、ちょっとボーっとしてただけ。」
我に返り、改めて父親の部屋へと向かった。
ラップトップコンピュータを父親の部屋のデスクに丁寧に置いて、有津世は自分の部屋に戻ろうとする。
下の階から母親と談笑する友喜の声が聞こえた。
有津世は二人の談笑を耳にし、頬を緩ませながら、自分の部屋へと戻って行った。
「ひっ、くっ…」
ようやく泣きやんだ私は、泣き過ぎで、吐息に嗚咽の名残が混じる。
今も時々ひきつける様に上下する胸の内部が、相当泣いた余韻を表していて。
まだ瞳に涙を溜めたままで私は女の子に聞いた。
「あなたは、見守っていて、どうするの?」
『どうもしないわ。ただ寄り添うだけ。』
「どうもしないの?」
『そうね。ただ、隣で、こうして落ち着くのを待っているの。』
もう一度、女の子の姿をよく見ると、銀色の美しい髪はサラサラと揺れ、クリーム色のドレスの裾を何だかもぞもぞと弄って遊んでいるその手から見る肌の色は浅黒いのか、色白なのか分からない色をしている。
私の視線に気付いた女の子はドレスの裾から視線を上げ、慈愛溢れる美しい緑色の瞳で私を見つめた。
『落ち着いた…かもね。』
「…っく。」
嗚咽の名残を載せた吐息を発しながらも、私は先程よりは、ずっと気持ちが冷静になっていた。
「ねえ、あなたはいつもここに居るの?…ひっく。」
『そうね。私は、いつもここに居るわね。』
「こんな場所で、寂しくないの?」
『寂しい…?寂しい…、そうね、寂しいかもね。』
「じゃあ何故ずっとここに居るの?」
『何故かしらね…ひとつ言えるとすれば、あなたみたいな子とお喋りするのが好きだからよ。』
「私みたいな子…っく。」
涙で泣きはらした目は、女の子の美しい緑色の瞳を見つめ、今の言葉の意味を汲み取ろうとした。
「私みたいな子って、じゃあ…、っく。」
『あなたみたいな子よ。どうしようもなく、絶望しているじゃない。私はその絶望に合わせて、その子に寄り添うの。それでもダメな場合もあるけれど…。』
「ダメ…?…ひっ。」
嗚咽の名残が続きながらも、会話を続ける。
『そうね。ダメだわ。あなたは、どうやらそうじゃないみたいだけど。』
「ダメだと、どうなの?」
『そうね。こうやって寄り添っていても、途中で消えちゃうわ…。』
「えっ、私消えちゃうの?」
途端に自分の姿がある事を、立ち上がって見回して確認する。
『あはははは、大丈夫よ。あなたはそうじゃないって言ったでしょう?』
「何で分かるの?」
『消えちゃう子はね…自分で消えちゃうだけだから…。救いを求めていないのよ。』
「救いを…求めていない…。」
『こういう世界が、まやかしだとも思っているわね…だから、自分で消えちゃうだけ…。』
私は初めて周りを見渡した。
私と女の子しか見当たらないその場所は、地面がある様で無く、空がある様で無く、上と下さえも、どっちがどっちなのか、おぼつかない、そんな場所だった。
色は、立ち込めた雲が重なる曇り空の様で、それが上と下、どちらがどちらか分からないけれど、とにかくそんな色が全体に広がっている。
改めて見ると、おかしな場所だった。
何時からここに居るのか、自分でも分からなかった。
別の疑問がむくむくと湧きあがった事を察し、私が口を開くより前に女の子は言う。
『元気が出てきた様ね。良かった。』
「…。」
『私は寄り添うだけだから。それが、私の仕事。』
「…あなたの、…仕事…。」
『そう、私の…。』
…私の…仕事…、私の…。
「…!」
顔を上げた私を、女の子は慈愛が溢れる緑色の瞳で変化を見届ける。
周辺に、キラキラと光が走った気がした。