晴れ間
林の奥の二棟の家。
奥には堂々とした佇まいのログハウスと、手前側の黒色の外壁と深緑色の屋根のスマートな印象の家が林の木々の緑色の中に別荘さながらに存在している。
奥側のログハウスでは雨見が自分の部屋で勉強しながら、手前側の家では有津世と友喜がそれぞれ自分の部屋で過ごしながら、三人はほぼ同時にキャルユの事を想っていた。
前に友喜が気持ちを引きずられて有津世に惹かれていたのとは別で、キャルユそのものが友喜と入れ替わってこちらの世界に顕現した。
短い時間ではあったけれど、彼女との再会を喜ぶというよりは驚いて友喜への気遣いで対処した事にもやもやが残った。
雨見と有津世は特に、あちらの世界でツァームとアミュラがキャルユを恋しがっているのに自分の対処はどうだっただろう、と、時間が経てば経つ程考え込んでしまうのだった。
街路樹が生き生きと繁茂している道路脇の小ぶりな6階建てのビルの4階で、デスクで作業を進めている功がスマートフォンの通知音に気が付いた。
作業の手を止めて、スマートフォンを手にして内容を確かめる。
功の挙動に気が付いた後ろの席の則陽がちらりと功に目をやった。
林の奥の二棟の家。
友喜は何かをしようとはなかなか思えないでいた。
机の席で突っ伏しながら時々起き上がって机の上の奥の鏡に映る黄緑色の光のもやをちらりと見る。
もう一人の友喜についての向きは自分と功の中で意見が一致したが、キャルユについては何をどうしようか方向性が自分の中で何ひとつ見いだせない。
気持ちが引きずられる事が無くなってからは、濃厚な花の香りと自分と瓜二つの外見以外は別物だと思ったしそこまで気にもしなかった。
それがここに来て自分がキャルユと入れ替わる現象が起きた。
石を触らなければこのままこの現象は有って無い様なものになるだけだろうか。
それで終わらせて良い現象だろうか。
それで終わらせるべき現象だろうか。
少なくとも、自分が兄、有津世を想って苦しんでいた時の感情と同等のものをキャルユが持ち合わせているのだとしたら、彼女を全く無視してしまうのも違うとも思ったし…。
友喜にはやっぱり、分からなかった。
淡い色合いの花が咲き乱れる景色の中で、ノリコがソウイチに尋ねた。
「…元気に、なれた?」
ソウイチに抱きしめられて肩に顎を載せた状態のノリコにソウイチは頷いて答えた。
「良かった。必要があればいくらでもここには居れるし、必要があれば私も来れるはず。だから安心して。私はいつだってソウイチくんに寄り添うよ。」
飲み屋街の一角。
本業の就業時間が過ぎて、穂乃香は副業のオフィスに立ち寄ろうと建物前に着いて階段を下りていった。
ロッカーに貴重品を預けて受付を済ます。
奥の作業スペースに入ると、自分から言ってきたにもかかわらず今日は辰成の姿が見当たらなかった。
…珍しいな。
残業しているのかな、と穂乃香は思い、適当な席に座る。
そして受付で受け取ったマニュアル本を開いてコンピュータのモニター画面に目を向けた。
退社後、会社から駅までの道を、功と則陽が横並びで歩く。
「今日は寄って行くのか。」
「はい。梨乃にも予め伝えてありますし、小一時間程、作業をして行こうと思って。」
「ふうん。熱心だな。」
功が感心して則陽に返す。
「功は?明日は来ますか?」
「う~ん、まだ未定。」
「…。」
則陽は功の顔を見る。
「…何だよ。」
「いえ、何でも。」
則陽が功から視線を外すと口角を上げる。
「…。」
功がまあいいか、と深く追及せずに、進行方向に向き直る。
駅が見えてきて、二人は同じ路線の改札口を通った後、ホーム手前の分岐する所で互いに挨拶を交わして別々の進行方向に歩いて行った。
副業のオフィスに着いて奥の作業スペースに入ると穂乃香の姿があった。
則陽は軽く会釈をして、穂乃香も笑顔で答える。
則陽は自分の気に入っているデスクの席に掛けて、今日も分厚いマニュアル本を自分のノートと同時に開いて作業を始める。
則陽が作業を終わらせて席を立ち上がると、穂乃香も立ち上がった。
受付を順に済ますと、二人共自分の荷物を預け入れたロッカーから鞄を取り出す。
分厚いガラスのドアの外に出ると、お疲れ様、と互いに言い合い、階段を上り始めた。
「立木さんが居る時は水内さんも見るのに、今日はどうしたの?」
則陽が穂乃香に尋ねた。
「知らない。あっちから来いって言ってたのに。」
「いつも言われて立木さんってここに来てたの?」
「最近は…そうだったな。何で?何かおかしいかな。」
則陽の反応に、昼間の梨乃の言葉も思い出して穂乃香は則陽の意見を欲した。
「ううん。おかしいとは思わないよ。…仲、良いんだな、って思って。」
「…奈巣野さんまで…。」
納得いかなそうに言う穂乃香に、階段を上り終えた則陽が振り返る。
「他にも誰かから言われたの?」
「うん。野崎さんにも。」
「梨乃が同じ様な事言ったんだ。」
穂乃香が頷く。
「俺達二人の目から見ても、立木さんと水内さんは仲良さそうに見えるって事か。実際、そうなんじゃないの?」
「…ん~、まあいいや。それでも。じゃあ、お疲れ様!」
「うん。お疲れ様。気を付けて。」
ありがとう、と穂乃香は言って、建物の前から去って行く。
則陽は立ち止まって彼女の姿を見送ると、自分も駅の方向へと歩き出した。
来ないのに連絡ひとつよこさない。
こんな事は滅多に無くて、穂乃香はオフィスから歩いて角を曲がった所で立ち止まり、スマートフォンを取り出して辰成に電話をかけてみる。
すると電話の呼び出し音が5回程繰り返された後で、気だるい声が聞こえてきた。
「…はい。」
「辰成?なんで今日来なかったの?誘ってきたの、そっちだよね?」
「…あ~、もう…大きな声で喚くなよ…。」
いつもトーンを変えずに通話口でも話す辰成だが、様子が何か違う。
「え、何?体調崩してるの?」
「ああ、そう。今夜、そっちに行けなくて悪かったな…。」
「…そ…れじゃあ仕方無いけれど…。…もう、しょうが無いなあ。鍵、前と同じ所に入ってるの?」
「ん?…ああ。」
それだけ聞くと、穂乃香は電話を切った。
繁華街の中に埋もれて存在しているワンルームマンションの建物に穂乃香が辿り着く。
集合ポストに辰成の部屋番号を見つけると、取り出し口を覗く。
封筒がひとつ入っていて、それには封がされていなかった。
さっと取り出して中から鍵だけ出そうとする。
するとメモが一枚、鍵と一緒に小さな透明の袋に入れられていた。
メモの文字を見て、穂乃香の目に涙が溜まる。
メモにはひと言、
『愛しているよ。』
と書かれていた。
エレベーターで階を移動し、辰成の部屋のある階に辿り着く。
涙はエレベーターの中で拭いたし、部屋のドアの前に着いた時には袋から鍵を取り出す際にメモの文字は見ない様にした。
鍵穴に鍵を差し込んで回す。鍵が開いたのを確認すると、入るよ、と断りを入れてドアの中に入って行った。
返事が返ってこない。
靴を脱いで中に進むと、たったひとつの居室のベッドですやすやと眠り込む辰成が居た。
穂乃香は静かに息をつくと腰を下ろして、ベッドの脇に腕組みをして顎を乗せて辰成の寝顔を眺める。
こうして寝ているだけなら、聖人君子に見えない事も無い。
寝顔につられて、穂乃香の意識もうつらうつらとしてきて、しまいにはその場で眠り込んでしまった。
住宅街の一角。
功が家に辿り着いて、ただいま、と第一声を家の玄関で発した。
リビングに入ると、座卓の前に座って居たなつが功を見上げる。
「おかえりなさい。」
「おう。腹減っただろ?直ぐ作るからな。」
「…。」
なつは兄の姿を見ると、一瞬呆ける。
「…うん?どうした?」
なつの反応に功が首を傾げる。
「ん~ん。お兄ちゃんも見えてるんでしょ?だったらお兄ちゃんの方が分かるもんね。」
「…。」
黙っているつもりが、その光の強さを無視出来ずに思わず声に出してしまった。
「あ、これの事か。うん、まあ、目立つよな。」
石と同じ色味で燃える様な光を放つ胸の奥を、功は、なつの言葉に納得しながら頷いた。
「じゃあさ、友喜もそうなってるって事?」
「…そう…だな。うん。かも知れない。」
知ってるだろうに、はっきりしない返事をする功に、なつは頬を緩める。
「お揃いが増えて良かったね。友喜にも教えて上げたら?喜ぶよ。」
「…。」
功が情けない顔で赤面をしてぽかんとする。
「あ~、もう。ほら。明日は土曜日でしょ?友喜が来るんじゃない?楽しみだね。」
立ち上がり功の傍に寄ると背中をぺしぺし叩いて、夕飯、何にする?手伝うよ、と、話題を変えた。
繁華街の中に埋もれて存在するワンルームマンションの一室。
辰成が目を覚ますとベッドの脇で眠り込んでいる穂乃香の姿があった。
辰成が上半身を起こしながら、いてて、と頭を片方の手で押さえる。
辰成はベッドの背にもたれて改めて穂乃香を眺めた。
「…。」
手を伸ばして、指先で穂乃香の前髪にそっと触れてみる。
寝ている姿からは文句は出てこないし可愛いもんだ。
これが起きるとああもうるさくなるものだ。
でも、やっと………来てくれたんだな…。
ふああ~、とあくびをして、目の端に溜まった涙を拭う。
あ、寝ちゃってたんだ。
大きく伸びをしようと視線を前にして腕を伸ばした時に、辰成が起きているのに気が付いた。
「あ。」
「あ、じゃねえよ。」
「何?弱っていても憎まれ口は減らないわけ?」
辰成は穂乃香の言葉に呆気に取られると一拍後に口を開く。
「…別にそういう意味で言ったんじゃねえよ。お前何でもかんでも悪意と受け取るんじゃねえよ。あたた…。」
「大丈夫?」
頭を抱える辰成に穂乃香が慌てて立ち上がろうとする。
「優しくしてくれれば…。」
「暴言吐く人には優しくなれません。」
「…何だよ…ちぇっ。」
「何よ、自覚あるんじゃない。」
穂乃香が横目で見る。
「ちげーよ。お前優しくする気、無いだろ。」
「そんな事無いよ、私、優しいよ。」
「…。」
「何か食べたい?ほら、優しいでしょ。」
「何か持って来てくれたのかよ。」
「ううん、何も。」
穂乃香は平然として答える。
「あ?お見舞いの品ひとつすら、持って来てねえのかよ、…てて。」
辰成が声を張り上げようとしてまた頭を抱える。
「冷蔵庫に何かあるかと思って…何も無いの?」
「知らねえ…。」
「もう。覗くよ。」
断りを入れて穂乃香が辰成のキッチンの小さな冷蔵庫を覗く。
「…何このラインナップ。」
文句が聞こえてくる。
「お前、俺が自炊しないの知ってるはずだろ…。」
「じゃあちょっとコンビニ行ってくる。」
「こんな遅くにか。」
「うん、だって何も無いし。お見舞いの品無いの不満なんでしょ?」
辰成が穂乃香の顔を見る。
「…冗談だよ、半分は。」
「じゃあ半分は本気なんだね。」
「そう…、っていいから、こっち来いよ。」
睨みつけている穂乃香をベッド脇に呼ぶ。
「今夜はもう遅いし、出るの明日にしろよ。」
再びベッド脇に来た穂乃香に対して熱を帯びた目で辰成が言う。
「…その顔は、ずるいよ。」
「仕方ねえだろ、熱、あるんだからさ。」
「シャワー、浴びてきて良い?」
「ああ、勝手にしろよ。」
「…なんか適当に、服も借りるから。」
「…勝手にしろ…。」
弱くなっていく語尾に、本当に弱っているんだなと穂乃香は悟る。
居室の隅の小さなクローゼットを勝手知ったる顔で開けて中を確かめる。
そんなに覚えていなかったし適当だったけれど。
それでも自分が着れそうな服を何とか見つけて、きょろきょろと見回し、バスルームに移動して行く。
脱衣所でタオルを見つけると自分が着る服と合わせて隅に置いた。
設置されている洗濯機の中に着ていた服を脱いで中に入れると傍にあった洗剤を入れてスタートボタンを押して、奥のバスルームの扉を開いて中に入った。
シャワーを済ませて部屋に戻ると、辰成は再び眠っていた。
穂乃香は静かに息をつくと、ベッドの脇に再び腕をつく。
すると、辰成が細目を開けて穂乃香の姿を確認すると気だるそうに話し掛けてきた。
「一緒、入って…。」
「…邪魔になるでしょ。」
「他に寝れる所何処にも無いだろ。良いから来いよ。」
「…移るよ。」
「そしたら一緒にさ、良くなるまで寝てれば良いじゃん…。」
「…しょーも無いな…。」
穂乃香はため息をついて、辰成の隣に潜り込む。
「あっつ!」
「熱だからこもってるんだよ。」
「私これ要らないわ。」
上に掛かっているブランケットを辰成側にどける。
何も掛けずに横になって片肘で頬杖をついて辰成の寝顔を眺める。
今喋ったのが彼の精一杯だったみたいで再び眠りについた様だ。
ホントに、静かにしてるとさあ、ホントに…。
なんて綺麗な顔なんだろう…。
穂乃香はうとうととし始め、やがて眠りについた。
林の奥の二棟の家。
夜も更けた時間に、手前側の家の二つの天窓からは今夜も明かりが漏れていた。
「お兄ちゃん。」
ドアをノックする音と友喜の声がドアの向こう側から聞こえてきた。
有津世はドアを開けて友喜に答える。
「ん。どうしたの?」
今はお風呂を入り終わって、友喜はネックレスをしていない代わりにハンカチを顔に当てていた。
「あ、取る時今日も大丈夫だった?」
「うん、飴、舐めてからしたから…。」
有津世が友喜を部屋に入らせてドアを閉めた。
「座る?」
「ありがとう…。」
有津世の机の椅子に友喜が座って傍に立っている有津世を見上げた。
今は友喜だ。
キャルユじゃない。
けれども瓜二つの顔は、何も言わずに見上げてくる顔は、友喜に戻すが為にほんの数分しか話さなかったキャルユを想起させて有津世は微かに胸が痛んだ。
「友喜、この前はさ、石になるべく触らない様にって言ったけれど…。」
「うん。」
友喜が真剣な表情で有津世の顔を見る。
「もし友喜が何かの拍子に石を触ってしまった事がこれから先にも起きたとしても、」
友喜は頷いて言葉の先を聞く。
「その時は丁寧にキャルユに接するから、安心して。」
有津世の言葉にはキャルユへの想いが詰まっていた。
「キャルユとも、お話したいって事?」
「…そうだね。前回と前々回は焦り過ぎて、ちょっと後悔があったからさ。」
有津世は友喜に正直に告げる。
「あちらの世界ではもうキャルユと接する事が出来ないのに、俺、なんて冷たい対応をしたんだろうって…。」
友喜は有津世の言葉に重みを感じた。
「もし、さ、もし…友喜が石を触らなくてキャルユにならなくて、クリスタルの中に入ってもキャルユに会う事がこの先もずっと無かったら、この前の事を一生後悔するんだろうな…って。」
「お兄ちゃんの言う事、ちょっと分かるよ。」
「友喜…。」
「私もね、キャルユの気持ちに引きずられていた時期があったから、それを思うとここ数日、考えちゃってたの。」
「もしかして友喜のしたかった話って、それ?」
友喜はハンカチを顔に当てながらも、柔らかな表情をその目で見せて頷く。
「だから丁度良かった。お兄ちゃんの言いたい事、私も分かる。」
友喜の言葉で、有津世は微かに頬を緩めた。
部屋に数秒の沈黙が流れる。
「友喜さ…。」
「うん。」
「…吉葉さんにはキャルユの事どこまで話してる?」
「…。」
友喜が途端に気まずそうな表情になったのを見て答えを知る。
「そっか、話して無いんだ。じゃあこの話題は伏せておいた方が良いか。」
「お兄ちゃん…。」
「だってそうでしょ?言ったら…変にかき回す事になっちゃうかも知れないもんね。」
「…。」
友喜は困惑した表情のままだ。
「もう…過ぎた事だし、…話そうと思った事、無かった。」
有津世が友喜の言葉に頷く。
…それに、知られたくない。
友喜は本音を胸に抱える。
考えれば考える程どつぼに嵌りそうで、友喜はその事に考えを巡らせる事自体が苦手だった。
功の存在はそれ程に大切で、かけがえが無くて。
無言で次第に目が潤んでくる友喜に、有津世は優しく声を掛ける。
「大丈夫?友喜…。」
「…ん。」
友喜の座る椅子の前でしゃがんで目線の高さを合わせて友喜を見る。
「…平気。」
「そう?」
友喜の様子を見ながら、ぽんぽんと頭を撫でる。
唇をきゅっと結び、涙が出てくるのを堪えているのが伝わって、有津世はしばらく妹、友喜の頭を優しく撫で続けて落ち着くのを待った。
とうとう笑顔に戻るまでにはならずに、それでも目からの涙は何とか流さずに堪えて、自分の部屋に戻って来た。
ネックレスと飴を顔に当てているハンカチに上手くくるんでロフトの上に片手で梯子を伝って上る。
ロフトの上に着くと、くるんでいた二つのアイテムをハンカチから取り出し丁寧に枕の脇に置いて、友喜は枕を背にごろんと横になった。顔にはハンカチをふわりとあてがう。
天窓から夜空が見える。
ぽわぽわは、今夜もこれから有津世を訪問するだろうか。
ハンカチを顔から取り払えば分かるその答えを、友喜は敢えて知ろうとはしない。
ぽわぽわの訪問先は、訪問した先の人達との秘密で…。
アミュラとの秘密、有津世との秘密…。
ぽわぽわはそんな風にひとつひとつの体験を大切に想っている。
その想いは時に自分の意識とは深く乖離をしていて。
大切さの度合いの違いの様な気もして。
でも違わない気もして。
それも感じれば感じる程分からなくなってしまう。
ぽわぽわは…。
かつて一緒に過ごした空間にこうして再び戻って過ごして居ると、ふとその頃にタイムスリップした気になる。
当時私は浮かれていて。
きっと片思いで終わると思っていた恋だったから。
随分と始め無理をしていた。
思えばそれが自分自身に無理をきたしていた。
無理は続かない。
だって本当の自分じゃ無いから。
何を言われても笑って、何を注意されてもそうだね、って言って。
でもそれだと自分が無くて、この人は自分の何を認めてくれているのか、もしかしたら何も認めてくれていないんじゃないかって思ったんだ。
だから私は彼から離れる事を決めた。
だって為にならないから。
自分の為にならない。
自分を卑下させる言葉ばかり浴びせられる自分が可哀想。
そんな事よりも自分をもっと可愛がってあげる。
そう決めたんだ。
そう…決めた…。
周りが建物ばかりのこの場所でも、朝は小鳥がさえずる程度の自然はかろうじて残っている様だ。
爽やかなさえずりと共に、朝の強い日差しが部屋の一角に差し込む。
体の感覚も軽くすっきりとした目覚めと共に視界に入って来たのは隣で妙な格好をしたまま眠り込む穂乃香の姿だった。
…ああ、そう言えばこいつから電話がかかってきて…。
辰成は懸命に経緯を思い出そうとする。
服も借りるとか何とか…言ってたか。
それにしても…。
ぶかぶかのサイズの辰成のTシャツを着こみ、そのTシャツがめくれ上がって太ももの付け根ぎりぎりまで危うく見えてしまいそうな清々しい寝相だ。
辰成は自分だけにかかっていたブランケットを穂乃香の体を覆う様に掛け直して自分はベッドから立ち退く。
顔を洗った後、汗を掻いたのでシャワーをさっと浴びて、別の服に着替え直した。
そうして自分の通勤用鞄から財布を取り出して、部屋のドアから外に出て行った。
鍵穴に鍵を差し込み鍵をガチャっと回す音が聞こえる。
穂乃香が目を覚ますとベッドに居たはずの辰成が消えていた。
同時に玄関のドアが開く音がして、続けて足音も聞こえた。
その音にびっくりして起き上がると、入って来たのは何処かから帰って来た辰成だった。
「あ。おはよう。…もう大丈夫なの?」
「おはよう。おかげ様でもう大丈夫だよ。ほら、朝飯買ってきた。」
ビニール袋を突き出して穂乃香に告げる。
「あ…りがと。」
「…。」
昨夜洗った穂乃香の服はまだ乾いてなくて辰成の服をもう少し拝借する事にする。
辰成が着てもぶかぶかなくらいのサイズのTシャツはよくこんなのがあったなと穂乃香が感心するくらいにでかいTシャツだった。
おかげでこれだけで大体の部分は隠せる。
太ももから下は度外視だったけれど。
「…。」
随分久し振りにダイニングテーブルの対面に座る穂乃香の恰好は少々どぎつい。
本人はそこまで気にして無さそうだが辰成にとっては目に毒だ。いや、言い換えれば目の保養とも言ってしまえるが。
細身の小洒落たパイプ椅子にTシャツの裾をなるべく伸ばして足を隠して座る穂乃香に、目を逸らしているつもりでも気が付くと目が行っている。
「お前さ、何でそれにしたわけ?下も…選べば良かったじゃん。」
「洗濯物増やしちゃうと思ったから一枚で済むのはどれかな、って。」
「…それで帰るなよ。」
「帰る訳無いじゃん!」
いつもは無表情の辰成が穂乃香の恰好に流石に照れている。
テーブルにビニール袋から出したフルーツジュースとペットボトルのお茶をそれぞれ2本ずつ、近くのおにぎり屋さんで買ってきたと思われる大きめのおにぎり2個と唐揚げとお漬物が入ったプラスチックパックを穂乃香と自分の席にそれぞれ置いた。
「わ。美味しそう。」
「だろ?」
辰成が得意になって言う。
いただきます、と嬉しそうに言う穂乃香を見て辰成が続いて容器を開けて食べ始める。
「…なあ、鍵、久し振りに開けたんだよな。」
辰成が確認したそうに口を開いた。
「…うん。」
「…。」
それ以上の言葉が続かずに辰成は黙り込む。
穂乃香も追及をしなくて、気まずい空気が流れた。
「鍵、後で返すから。」
「…とけよ。」
「え?」
「持っとけよ。…お前の分だよ。」
言い出しにくそうに、それでも言わずにはいられないとでも言う風に、辰成は言葉を絞り出した。




