飴色の石
林の奥の二棟の家。
有津世達の家のリビングで、三人はしばらくの間ぼうっとしていた。
有津世はゲーム機のコントローラーを握ったままだ。
「あれ?何で…?」
不満気に声を上げたのは友喜だ。
前回は有津世も入れたし、その前は友喜が入れたから、今回も誰かしらはクリスタルの中に入れると思い込んでいた。何なら三人同時で、とかも。
なのに今回は誰も入れなかったので、クリスタルの中が淡く白く光るだけの現象をまた目にした三人はがっかりしている。
特に雨見は殊更がっかりしているみたいだ。
「え…これじゃあ…」
雨見がぼそりと呟き、座卓に視線を落とす。
この先もクリスタルの中に入れないのが続く様なら雨見の夢の経過をただ見守るしか無いのではないかと、三人は同じ事を考えた。
リビングに静寂が流れる。
座卓に置いた飴色の石をふと眺めると、有津世は石を手に取った。
雨見と友喜が有津世の仕草に注目する。
二人の視線にも動じずに、有津世はただ一心に石を見つめてみるのに自身を集中させた。
そこは明るい場所だった。
森を通り抜けて開けた所で、ひとつの石碑の前に自分は居る。
いつ来ても、この場所は心身を洗う様な風が吹いていて気持ちが良い。
風は自分の水色の袖を柔らかくはためかせた。
ツァームは石碑の前で胡坐になると目を閉じた。
もうすぐ繋がる…。
ツァームはより一層、気を静めた。
視認するのが難しい、神社の建物の一角で、ノリコが顔を上げた。
写本の手を止め辺りを見回す。
ノリコの祖父は変わらず瞑想中の様だ。
服のポケットに手を入れて取り出したものを見つめて立ち上がった。
縁側から靴を履いて表に出ると、ノリコはお気に入りの道なき道へと向かった。
山の緩やかな斜面の木々の幹や枝をしっかりと掴み、注意深く尚且つテンポ良く下って行く。
途中に見えてきた幅の狭い小川近くに辿り着くとノリコはその足を止めた。
小川の周りに転がる透明の石達が、今日は皆光り輝いている。
いつも注意深く見ればその美しい姿を覗かせてくれるが、今日はそうせずとも、皆がきらきらと自ら光り輝いていた。
ノリコの胸元を見ると、ネックレスにして下げていた形の変わった石も呼応するかの様にいつもよりも輝きを増していた。
ツァームは感じた。
もうすぐ繋がる…と。
続けてツァームの胸の内に見えてきたのは、白が基調で時々虹色に光る生き物達の姿だ。
始動する。
直後、圧倒的な熱量が動き出すのをツァームは感じ取った。
光り輝く石達から突然生き物達が飛び出してきたのを見て、ノリコは、わあっ!と歓声を上げた。
それは光を帯びていて、熱とも風ともつかぬ、透明だけれど質量があり、白と虹色とを交互に表現する色味で光り輝いている。
数は…どれぐらい居ただろうか。ほんの小さな石達から出てきたそれは、50体、いや、200体程くらい居ただろうか。
何しろ石だった時に目にしていた質量とは比べるべくも無い程に巨大になった生き物達は飛び出したと同時に喜び勇む様にノリコの目の前を駆け抜けて何処かへと一斉に去った。
少しの間を置いて、再び圧倒的な熱量と風がノリコの傍に迫り来て、生き物達は嬉々として石の中へと戻って行った。
ノリコはその目をきらきらと輝かせる。
綺麗…。
幻想的な情景はノリコの胸に刻まれ、胸の奥と呼応した。
一見、窓の様に見える大きな照明がはめ込まれた壁のある一室。
ソウイチは自分のコンピュータを操作し、
「そろそろの様ですね。」
と、誰かに告げた。
「ええ、こっちは万全です。」
ソウイチは一人そう答えると、何かを手早く、キーボードで打ち込んでいく。
彼は、穏やかな表情でコンピュータに向かっていた。
林の奥の二棟の家。
飴色の石を眺め始めて集中する有津世に雨見と友喜は注目したが、そんなに間も経っていないのにもう有津世は二人の方を向いた。
「あれ?有津世…終わったの?」
「一瞬だったけど…。」
雨見と友喜が口を揃えて、そのあっけなさを指摘した。
有津世は有津世で、
「う~ん…?」
なんとも歯切れが悪い。
「ああ、そうか…。有津世は、もし見たとしても、直後は、あまり思い出せていない、って、前に教えてくれたっけ。」
と雨見が理解する。
「見た様な感じは…した?」
「う~ん…、多分…。」
有津世は手元の石を眺めながら難しそうな顔をする。
石が、より光り輝いている様に見えた。
都内アパート。
アパートの則陽の部屋で、ダイニングテーブルの席で梨乃と則陽が、則陽の作った夕飯を食べている。
「則ちゃん、」
「うん?」
「持って来た炊飯器、使って良い?」
「良いけど…。梨乃がご飯、炊いてくれるの?」
その言葉に、嬉しそうに梨乃が頷く。
「ご飯だけはね、美味しく炊けるの!」
「じゃあ、明日からお願い。」
「うん!」
嬉しそうな梨乃を見て、則陽は微笑んだ。
先程までしていた話はお互い頭の片隅にあったけれど、今は夕飯のほのぼのした時間を二人は味わっていた。
今日持って来たのが炊飯器だけだったとか、他の持ち物はどうするの?とか、そんな話を二人でして、
「今月中には、何とかなりそうだね。」
と、梨乃が契約していたマンションの解約に向けての動きを、二人は確認し合っていた。
いつものカフェ。
風のそよぐテラス席には、今日はなつしか居なかった。
テーブル脇に置いた、いつものいちごシェイクをたまに口にしながら、一人勉強道具を広げ、熱心に勉強する。
強い風が、テラス席を通り抜けた。
筆記の手が止まり、なつは風の吹いてくる方を向く。
なつは深呼吸をすると、一瞬目を閉じて全身で風を感じた。
辺りがとっぷり日が暮れた頃に、なつの兄がカフェに立ち寄り、なつに話し掛けてくる。
「あんまり遅い時は先に帰れよ。」
「だってさあ…。」
勉強に集中していたと言う。
「まあ、それならしょうがねえけどよ。」
ガラスの向こう側に居る店員の姿を横目で見ながら、なつに向き直り、行こう、と促す。
自分の持ち物を鞄にしまい終えたなつは、行けるか?と聞くなつの兄に頷いて答え、二人はカフェから退散した。
商店街沿いの道は賑やかだが、そこから一歩住宅街へ入るとあまり人通りが無く、たまに家の中から聞こえてくる団らんの声が聞こえてくる程度だ。
そんな静けさ漂う住宅街の通りで、いつも口数が多い訳では無かったが、今日の二人は沈黙しがちに歩いていた。
なつは兄の姿を眺め、兄は前を向いて歩いている。
「ん?何だ?」
視線に気付いて兄がなつに向き直すと、
「うん、実はさ…。」
なつが口を開いた。
林の奥の二棟の家。
今は夜で、ログハウスは明るさを醸し出し、外壁の黒い家はさながら漆黒を醸し出している。
奥のログハウスでは、今夜もあの夢の続きを見るんだ、と、自分の部屋のベッドの上で夢日記を胸に抱きしめながら覚悟を決めている雨見が居て、手前側の家では、有津世が父からラップトップコンピュータを借りて、メールボックスの画面を自分の部屋で開いた所だった。
「友喜、友喜。ちょっと来て。」
有津世が友喜の部屋のドアをノックし、友喜を自分の部屋に呼ぶと、早速友喜にラップトップコンピュータに表示されている、一件のメールを見せた。
「え、あ、これ…!奈巣野さんだけど、文面は梨乃さんだ!」
その内容が梨乃が書いたと思われる口調で綴られているのを見て、友喜は兄の有津世と一緒にその文面を追った。
「…これ、って、え…?」
「これって、…この前一緒に目撃した、ぽわぽわから現れた小学生の友喜の事、じゃないかな…。」
有津世が自身の見解を示す。
そこには梨乃が小学生の友喜とクリスタルの中で会った事が記述されていた。
「…え、キャルユ!?」
友喜は思わず大声を上げた。
梨乃に自分からは一切教えていない名前が文面に載っている。
「これは…、どういう訳だろう、梨乃さんはキャルユにも会った、って言ってる。」
「しかも、この書き方だと…だいぶ幼いんじゃ…?」
え、キャルユって…と有津世に確認しようとしたら、俺の知ってるキャルユは既に成長した姿になってるよと有津世が言ってきた。雨見に見せて貰った夢日記のイラストに描かれていたのも、覚えている限りは幼子の姿では無かった。
「え、ちょっと待って。…梨乃さんはクリスタルの中に入る事で、…あちらの世界に飛べたって事?」
友喜の言葉で、二人はその衝撃に固まった。
とにかく、返信しようか、と有津世が言い、文章をキーボードで打ち込み始める。
こちらの友喜は、クリスタルの中で梨乃さんには会っていないという事、キャルユは、友喜の、あちらの世界での名前だと言う事を添えて、ひょっとしたら梨乃は、自分達が体験しているもう一つの世界に飛んだのかも知れないという事などを、友喜がモニター画面を眺めている隣で有津世が簡潔にまとめた。
「これで良いか。」
返信メールの送信ボタンを押した後も、二人は話し込んだ。
「梨乃さんは、小学生の友喜と、小さなキャルユが一緒に居るのを目撃したんだよな…。」
「うん…。」
有津世も友喜も首を傾げたが、クリスタルの中では時系列が特定されていない可能性があると則陽が言っていたのを考慮すると、そういう事もあるのかもと二人で納得し合った。
「一度クリスタルの中で会っただけだけど、梨乃さん、何かすごいな…。」
有津世が呟いて、友喜は感心して頷いた。
使命…か。
メールの文面にあった言葉。
「梨乃さんがクリスタルの中であちらの世界に繋がったのは、どうしてなんだろう…。」
もしその方法が分かってその地に飛べるとしたら、今回のあちらの世界に起きた問題に直接介入出来るんじゃ無いかと有津世は言った。
更に、有津世は続ける。
「梨乃さんが見たのがホントなら、友喜、小学生の友喜の方、って括りはあるけど…。友喜自体はもう既にあちらの世界に飛べている、って事だよね。つまりもう、直に繋がっている。こっちの友喜と記憶が合体しないのが不便ではあるけれど…。でも、梨乃さんの話からみるとそういう事だよね。敢えて分割させているって小学生の姿の友喜は答えたんでしょ。」
自分の一部が…別人格では無い友喜自体が、直接あちらの世界に飛べている。
「あ、じゃあ、待てよ…。」
有津世は俯きぎみになって考えてから言葉を続けた。
「キャルユがさ…、こっちの世界の事をツァーム達に教えてくれたんだよ。それは姿はキャルユだったけれど…、」
友喜が有津世を見る。
「あれも…こっちの友喜とは合体していない、小学生の友喜って事は考えられない?」
敢えて分かたれているのなら小学生の友喜がツァーム達にこっちの世界の事を教えたんじゃないかって考えると色々な辻褄が合う気がしない?と有津世は友喜に問い掛けて、友喜も、それなら分かるかも、と答えた。
「明日、雨見にも話そう。友喜は明日帰りは?」
「早く帰れるよ、早く帰る様にする。」
友喜の返事に、良し、と有津世が言ってラップトップコンピュータを閉じた。
「じゃあ、話が済んだ所で、今日は寝ようか。」
「うん、お休みなさい。」
「お休みなさい。」
友喜は自分の部屋へと帰って行った。
有津世は友喜の背中を見送ってから、手に持ったラップトップコンピュータを父の部屋まで返しに行った。
星がひとつ、落ちてきた。
それはきらりと輝いて。
ここに留まりたいと言ってきた。
そこで星をこの地に相応しい形に整えた。
星がふたつ目、落ちてきた。
その星もきらりきらりと輝いて。
ここに留まりたいと言ってきた。
二つ目の星もこの地に相応しい形に整えた。
時が満ちれば形となって、それはこの地に姿を現す。
愛おしむ様に手元の星々を見たけれど、星達はまだ眠ったままだった。
林の奥の二棟の家。
奥側の、夜も明るく見えるログハウス。
雨見はベッドの中で就寝している。いつもの様に照明は全部消した部屋で。
雨見の眉間からは極々細い、糸の様な光の筋が時折光り、ゆらゆらと揺れて見えた。
濃淡の緑が入り混じる星。
アミュラは考え直して、小さな切り株の場所まで戻った。
淡い色とりどりの光はアミュラに気付き集まってくるが、アミュラは磁界を掛けないまま、一人花冠を作成し始めた。
魔法で編まれる花冠は次々と作成が進み、完成させた花冠の数は、いつもよりもだいぶ多い。
持ち運ぶのに片腕では足りず、両腕に掛けやっと全部を手にすると、ひび割れた石碑の場所まで向かう。
石碑の境目まで来るとアミュラはそうっと足を延ばし、何も起こらない事を確かめてから石碑の外側に回り、自分が目を覚ました場所へと向かった。
ツァームの姿が視界に入ってくる。
まだ倒れたままだ。
走って近寄ると、アミュラはツァームの前に腰を下ろした。
ツァームの姿を眺めて髪の毛を優しく撫でた後、ツァームの後頭部を手で支えてそっと持ち上げる。その頭の後ろに一つ、花冠を敷いた。
肩を片方ずつ同じ様にそっと持ち上げると、そこにも花冠を敷いた。そうしてほぼ全身の下に花冠を敷き詰めると、アミュラはもう一度ツァームの顔を眺めた。
その内に、また涙がポロポロと出てきた。
泣いてもしょうがないのを知っている。知っているけれど、それでも涙は出てきた。
アミュラはツァームの手を自分の両手で包み込み、祈りを捧げる様に、その手を自分の額へと当てる。
するとアミュラの手から白く輝く光が産出されて、その光は徐々にツァームの手から体の中心へと吸い込まれていく。
その現象が無くなってからも、ツァームの手をしばらくアミュラは握っていた。握ったツァームの手を頬に寄せながら、一人途方に暮れる。
そして次の瞬間思い立った様に、
「ツァーム…、待ってて。」
両手で顔を優しく包み込み顔全体を撫でると、アミュラは立ち上がってその場を後にした。
自分達の倒れていた場所の先を見据えて歩き始める。
石碑の内側と外側は、何が違うのかは正直良く分からなかった。
それはツァームが受け取った”主”からのメッセージによる、不可侵な場所、との事だったし、キャルユの居なくなる直前での説明では内側だと自分達は守られていてそれ故にキャルユが行いたい事が叶わない、という話だったけれど…。
「キャルユ…。」
アミュラは彼女の名を呟いた。
キャルユは目的の地へ辿り着けただろうか。
ツァームへの想いに、立ち枯れた樹の現象に、毎回あんなにおろおろしていた彼女なのに、去り際のキャルユはキャルユじゃ無いみたいな表情で…。
もう彼女がこの地に居ないなんて信じられなかったけれど、キャルユの目的の達成をアミュラは心から祈る。
石碑の外側の森に入り込んだアミュラは、その奥へと歩みを進めた。
あんまり内側の森と、様子が変わらないじゃない…。
今まで歩いてきた方角を振り返り思った。
ふと気付いてもう一度、裾の中を探るも、やはりぽわぽわは見当たらない。
アミュラは周辺の樹々を見回しながら、更に奥へと足を踏み入れた。
住宅街の一角。
なつとなつの兄は家に着くと、玄関へ入り照明を付ける。
「今日もカレーでしょ~?」
「おう。」
なつの兄が応じる。
カレーを作れば3日は持つからな、とは、なつの兄がよく言う言葉だ。
数年前に母が他界して、父は仕事の関係でしょっちゅう地方に単身赴任をしていたから、なつの事もあり、一人暮らしをしていたなつの兄がここ数年、実家に戻ってきていた。
カレーライスをよそった皿を兄から受け取り、テレビのある部屋の座卓へと運ぶ。
「いただきまーす。」
夕飯を口にしながら、なつはいつもの話題を兄に吹っ掛けた。
「お兄ちゃんさ、いい加減観念して、彼女作ったらどう?」
「お前…口を開けばそればっかり…うるせえなあ。」
「そればっかりじゃないじゃない。さっきだって別の話題だったもん。」
なつは、帰路での話題を思い、兄に反論する。
「んで?お兄ちゃん、どういうタイプが良いのよ?」
なつが楽しそうに話す。
「そんな事言ってねえでお前は勉強しとけよ。」
「さっきまでずっとしてましたー。」
「あ、そうか。なつ、お前進学するのか?どっちにしてもよ、親父には、早めに話しといた方が良いぞ。」
「ん~…それは考え中でさあ…。」
兄の顔を見て、なつは考え込む。
「お前が何をしてえのか分からねえけど、もしあるならさ、準備は早い方が良いだろ?」
うん、まあ、確かに、となつは頷く。
「でもさあ…。」
その先の言葉を言いかけて、なつは言い留まる。
なつの兄はひと息ついて、
「俺の事は気にしないで良いぞ。俺は自分のたっての希望で、今までの道を歩んできたからな。」
なつの言い留まった言葉の先を読んだかの様に、なつの兄が言葉を足した。
無言でなつは頷くとカレーのスプーンを眺め、また食べ始める。
なつを見ながら、なつの兄は席を立った。
「おう、おかわり要るか?」
「私の額の石は…、糸を巡れって。助けが必要な時には、いつでも糸を巡りなさい、って、そう言ったわ。」
「私のは、生き物を探せ、って。何の生き物だか分からないけれど、とにかくそればかり言うの。」
キャルユとアミュラが互いに話し、それを聞いているツァームも、三人笑い合う。
アミュラは思い返していた。
生き物…。
石碑の内側とそう変わらない外側の樹々の風景を眺めながら、アミュラは何か分からないそれを一心に探していた。
山奥の神社。
神社に帰り着くと丁度瞑想の終わったノリコの祖父が居てノリコに振り返った。
「ただいま。」
「ノリコ、おかえりなさい。…何か、良い物を見つけた様ですね。」
「そうなの!」
ノリコは早速祖父に、先程小川で目にした圧倒的な熱量と風を併せ持つ生き物達の話をした。
ノリコは目をきらきらさせて水を得た魚みたいだ。
ひと通り話を終えると、ノリコは今度は縁側近くの小さな座卓から写本のノートを持ち出して祖父に見せる。
「おじいちゃん、これはどういう意味?」
ノリコは写本のノートを手に持ち、自分が読めた文章をそのまま言ってみると、ノリコの祖父は少し考え、自身のした解釈をノリコに伝えた。
「なんかおじいちゃんが前にしてくれた話と似てるね。」
「…そうですね…もしかしたら、これはその文章版なのかも知れません…。」
「そうかあ…。」
ノリコは写本のノートを見つめ、小さな座卓に置き直し、またしばらく、写本を進めて行った。
都内アパート。
夜ご飯を食べ終わって、則陽が片付けを済ませ、一冊の本を本棚から持って来た。
「面白い本があるんだ。」
ベッドに座っていた梨乃の隣に座って則陽が本の表紙を見せる。
「最近になって興味を持ち始めた分野だけど、梨乃も知っておくと良いと思って。」
「へえ。こんなのがあるんだ。」
梨乃はその本の表紙を眺めた。
副業のオフィスにて、自分がいつも座ると決めている席に一冊の本が置いてあった。
それを見た則陽は受付の人に、忘れ物です、と届け出たのだが、それは管理者からあなたへのプレゼントだと言われ、有難く頂戴した分だった。
ソウイチがアパートを訪問するだいぶ前の話で、後一歩の所で当時の解析が進まず、やきもきしていた時の事だ。
この本がきっかけとなって、その分野の本を図書館で読み漁る事になるのだが、この本無しには自分の行っている作業が世界の修正プログラミングとは知れなかった訳で、事実ソウイチにはその考えに辿り着く様に助けられた訳だ。
「じゃあ、ソウイチさんって人は、本当に則ちゃんを応援してるんだ…。」
「言われてみれば、本当にそうなんだよ。」
「その、見た事も無い種類のコンピュータを作ったって、言ってた人なんでしょう?」
「うん、他の何処にも見た事が未だに無いし、他とは全然作用の仕方が違うから、今ではそれも頷けるんだけど…。」
「うん、」
「作るきっかけになったのって、何だろうな、て思って。」
「作るきっかけ、かあ。」
梨乃はもう一度則陽から渡された本の表紙を眺めた。
林の奥の二棟の家。
今朝も雨見が有津世を待っていると、有津世が家の玄関ドアから出てきた。
「おはよ。」
「おはよう。」
「どうだった?」
「…うん。」
雨見の返事とその表情を見た限りでは、あまり芳しく無い様で。
「行こうか。」
「うん。」
有津世は雨見の手を握り、その温かさをお互い確かめ合いながら、林の道を歩いて行った。
6階建てのビルの4階部分。
今朝も則陽は朝の始業時間に合わせて出社していた。
「おはようございます。」
「うーっす。」
「おはよ。」
会社入り口で会った先輩の吉葉と梅に、則陽が挨拶すると二人はそれに返してくる。
二人の影になっていた観葉植物ノーリの姿が視界に入ってきた時に、則陽は、あっ、と声を上げた。
仕事場へ入ろうとしていた二人が則陽の声に振り返る。
「どうしたの?奈巣野くん。」
「どした?則陽。」
「あ…あ…、いえ、何でも無いです、すみません。」
慌てて誤魔化したが、則陽の姿を見て、梅は、
「そっか、ふふ、朝から元気良いね!」
と言い、吉葉は、無言で何かを考えている風だった。
仕事の合間に、吉葉が席の後ろから、
「よっ、ちょっと時間あるか?」
則陽に聞いてくる。
「え?ああ、はい。」
則陽はそれに応じて、二人来たのは入り口の観葉植物ノーリの前だ。
パイプ椅子を二つ広げて座ると、
「先輩、休憩ですか?」
吉葉に呼び出された理由を尋ねた。
でも則陽の目は、今も尚、観葉植物ノーリの方を時折仰々しく眺めている。
「休憩…ああ、休憩かもな。仕事とは、別の話だからな…。」
則陽の視線を吉葉は注意深く見て、
「お前さ…、ノーリの光ってるの、見えてるだろ。」
とノーリを指差して言った。




