星
都内アパート。
唇に温かい感触を感じ、ふと我に返る。
目を開けると、直ぐ目の前には則陽の顔があった。
手にしていたはずのゲームコントローラーは床に落ちていて、おもむろに抱きしめられた。
「ただいま…。」
もう一度くちづけを交わし、則陽の言葉に微笑みながら梨乃は答えた。
「おかえりなさい、則ちゃん。」
「え、じゃあやっぱり梨乃も、中に入れてたの?」
則陽が帰って来た時の梨乃の状態を思い返し、感嘆の声を則陽は上げた。
「うん、有津世くん、に会えたよ。」
「…そうか。俺はまだ、有津世くんとは文面でのやり取りしかしていないけれど…そうか、彼とも会えるんだ。」
則陽は嬉しそうだ。
梨乃は続けて、友喜はやっぱり自分の知っている友喜だったと話し、更なる驚きを則陽に与えた。
「友喜ちゃんの時も思ったけれど…、友喜ちゃんのお兄さんの有津世くんも、歳の割にはしっかりしてるな、って。背景を聞いたらね、そうか、それでか、って思った。」
友喜から以前聞かされた別の世界の事を言っているんだと則陽は理解出来た。
「本当に不思議な事ってあるんだね。」
遅い夜ご飯を食べながら、嬉々として二人は会話を続けた。
林の奥の二棟の家。
夜になっても明るめの丸太の色味は、隣の家とは対照的な夜のイメージを放つ。
一階リビングの階段から、上がって直ぐにある雨見の部屋で、雨見は夢日記と友喜に貰った豪奢な装飾のピンク色のノートをそれぞれに広げて、もの思いにふけっていた。
「アミュラはこんな事、思いもしないのに…。」
自分の感情に不便さを覚えながらも、今日の帰り、有津世が玄関ドアの外まで追ってきて、雨見にしてくれた抱擁を思い返し、それを心の底から嬉しく感じる自分にやれやれと思った。
有津世は雨見の態度に困りながらも嬉しそうだったが、当の雨見は自分の反応が信じられなかった。
やきもち焼いたの?私が?
ここ最近になるまで判明しなかった自分の気持ち。
どうやらそれは、自分が思っているよりずっと根が深そうで。そんな事に改めて気付く。
これ以上こうしていても何がどう変わるとかどうこうでもないので、雨見は今日の作業は終了する事にした。
夢日記と豪奢な装飾のノートを脇に片付けてから、ベッドに入る。
部屋の照明は付けずに寝るのが雨見にとっての通常で、今夜も窓から差し込む夜空の光と共に就寝する。
目を閉じて眠りに就く雨見の眉間に、キラキラと極々細い糸の様な光の筋が見え隠れしていた。
緑の星の、とある場所で、光の爆発が起きた。
濛々と光の破片を所々に見せながら上がる煙は、地を飲み込んだかの様に見えたが、やがて、煙も収まり始め、地面へと倒れたアミュラとツァームの姿が見えてくる。
辺りは静まり返り、それからどれくらいの時間が経っただろうか。
アミュラの指先がぴくんと動き、閉じていた瞳がうっすらと開く。
その瞳に映り込んだのは大地の色だった。
「…う…ん、」
何事だろう、と、一人疑問に思う。
何をしていたんだっけ…。
何とか上体を起こすと、辺りを見回した。すると少し間を置いて、記憶が徐々に戻って来る。
「…ああ!そうだ、キャルユは…?」
見回しても、彼女の姿は何処にも無い。
おそらくそのための術だった。
彼女がこの地から何処か別の世界に行く為の。
そんな事実を信じたくはなくて、アミュラはキャルユを探した。
当然居ないだろうと分かってはいても。
すると地面にツァームが倒れ込んでいるのを見つけた。
多分アミュラと同じで術後に気を失ったのだろう。
アミュラはツァームの下に駆け寄ってしゃがんで彼に声を掛けた。
「ツァーム、起きて、ツァーム!………。」
アミュラと同じ状況ならば、彼は直ぐに目を覚ますだろう。
そう思ったのに。
彼は倒れたままでアミュラの呼び掛けに何の反応も示さない。
何度か呼び掛けるも、結果は同じだった。
彼は全く反応しなかった。
ツァームのこんな姿は見た事が無い。
でも、もう少ししたら、きっと、彼は…。
しばらく待ってみた。
辺りは静かだ。
何も起きない。
ツァームは起きなかった。
「ツァーム…!」
アミュラは両手で顔を覆い、悲痛な声を漏らした。
「これは一体…どうすれば良いの…?」
返ってくるのは静寂ばかりだ。
今一度待とうとも、ツァームの起きる気配は無い。
震えてしまう手を擦り、ぐっと拳を握り締めてからアミュラは一人立ち上がる。
潤んだ瞳でキッと前を見据え、その場から立ち去った。
雨見は早朝に目が覚めて、一人泣いていた。
泣きながらも、今しがた見てきた夢の内容を書き記す。夢日記を付けてきて、泣いたのはこれが初めてだった。
朝。学校に行く時間になって。
雨見は珍しく、有津世よりも遅いタイミングで家の玄関ドアから出てきた。
「雨見、おはよ。」
「おはよう…。」
遅く出てきた雨見の様子に気遣わし気に、有津世が声を掛ける。
「雨見、元気無いんじゃない?」
「…有津世。…どうしよう。」
「?」
「キャルユ、本当に居なくなった…。」
ポロポロと大粒の涙をこぼし、今朝見た夢を有津世に聞かせた。
雨見の見た夢の話は有津世に衝撃を与えたが、更にショックだったのは、あちらの世界の自分であるツァームが意識を失っていると雨見から告げられた事だ。
「時系列に関してはどう思う?」
もとより有津世が見るのは白昼夢で記憶の破片みたいなものだから時系列はバラバラだ。
有津世は雨見の夢についてのそれを聞いた。
「私の見ているのは、…ちょっと遅かったのかな…?キャルユはその前からこっちの世界に居るんだっていうのが正しいんだとしたら…。」
時間の流れ方が違うので、何とも言えないけどね、それと自分達が気を失っていた事も関係しているかも知れないね、と続けて雨見は言った。
有津世と話をする事で気持ちが落ち着いてきた雨見は、目を腫らしたまま有津世と共に学校に着いた。ただ周りは勝手なもので、そんな二人を、喧嘩したんじゃないか、と噂をする者も居た。
学校終わりに有津世がいつもの様に雨見を廊下で待っていると、雨見がやってくる。吐き出したい胸の内は朝に少し吐き出せた事もあり、雨見は落ち着いた様子で有津世の側に寄って来た。
「じゃ、帰ろうか。」
「うん…。」
有津世は雨見の手を優しく握りながら微笑んで見せ、安心させてくれる。
前を向いて一歩前を行く有津世の横顔は、とても凛々しく見えて。
彼の存在は、雨見にとって今一番、心の支えになるものだった。
柚木家のリビングで、雨見が有津世に淹れてもらった紅茶のマグカップを手にしながら、今朝の夢の話の続きを有津世としていた。
キャルユが石碑の外側に出ようと言った事、それは気を失う前の出来事だったはずなのに、何故か今になるまで思い出す事が無かった事実に、どうしてだろう、と雨見が言い、有津世も考え込んだ。
「雨見と俺が見ている記憶の一端に、何かからくりがあるのかな。」
「からくり…。そうかも。だって今朝の夢を見るまでは、私達はずっとキャルユと一緒に行動しているって、そういう内容の夢しか見ていなかったから…。きっとそう、からくり…あるのかも…。」
いつものカフェ。
風のそよぐ、テラス席。友喜は今日はなつと最後まで勉強をすると約束した。
いちごシェイクと抹茶ラテが脇に置かれたテーブルに、勉強道具を広げている。
「なっちん…、世の中にはさ、不思議な事がいっぱいだね…。」
兄の有津世がクリスタルの中で会ったのが梨乃だったとか、梨乃が今まで自分達がやり取りしていたゲーム会社の人と恋仲だとか、様々な情報を散々なつに提供してから一区切りついた友喜が発した言葉だ。
「やっぱりさ、縁ってあるんだね。」
なつが言う。
「縁、かあ…。」
「そう、縁。不思議だね、巡り巡って。でさ、でさ、どうなの?その梨乃さんの恋人の奈巣野さんってさ、格好良い?」
「…何なの、なっちん。奈巣野さんについて、今までそういう興味持ち出した事無かったじゃない。」
横目でなつを見て友喜が言った。
「ええ、だってさあ、そんなに一途に思われる人だよ?何か…想像しちゃうじゃない、どんなかなって!」
仕方が無いなあ、という感じで、友喜は則陽の事を思い浮かべてみた。
「う~ん、そうだな…。初めに会った時は、こっちがイライラするくらいにおどおどしていた印象しか無かったけれど…。この前再会して見てみたら…派手な感じでは決して無いんだけれど…何だろう…主張し過ぎない恰好良さ、はあるかも…。」
「は、何だそりゃ。」
「ほらあ、皆が言う恰好良い人ってさ、自分が恰好良いって分かり過ぎているって言うか、恰好良さを主張したりするじゃない。あ、ちなみに私はそういうの恰好良いとは思わないけれど。そういうのが無い、…自然な恰好良さ…は、あるかも。」
友喜の説明を聞いて、なつは、ほほう、と言う。
「友喜がさ、他の人を恰好良いって言うの、珍しいね!」
「え、そう?」
「友喜今までさ、友喜のお兄さん以外の人の事、恰好良いって言った事、無かったじゃない?」
ぽかんとする友喜の反応を見て、なつは続ける。
「でもま、そうか、梨乃さんの想い人か。そこはちょっと残念だけれど、友喜、他の人も見れる様になってきているんじゃない?」
「残念だなんて…そんな事…微塵も無いし…。」
「そうかな。まあ、いずれにしても、良い兆候なんじゃないかな。その意気でね。」
なつは軽くウインクすると、自分のいちごシェイクをストローですする。
何がその意気なの、と思いながら、友喜も抹茶ラテのマグカップに口を付けながらも飲もうとするのを一旦止めた。
「…でも私そんなにお兄ちゃんの事を恰好良いって言って無いんじゃない?」
友喜が納得しきれない様子だ。
「何言ってんの。口を開けばやれお兄ちゃんの方が恰好良いだの、あたしがどれだけ他の人の事を言っても、批判してきたのは、友喜でしょうに。」
「…。」
迷惑そうに返された。
そんな自分の今までに蓋をしたい。
「まあ、余程のお兄ちゃん子なんだね。別にそれには否定しないけどさ。…。」
なつは友喜の俯く姿を横目に見ながら、いちごシェイクを更にすする。
今までの自分にげんなりする。私はキャルユが乗り移らなくても、そういう危険は元々持ち合わせていたんじゃないか…。友喜は頭を両手で抱えて、自分大丈夫か?と自問する。
「…はは。分かりやすい子だね…。」
そんな友喜を呆れた顔でなつは見る。
しばらくの間、友喜は固まったままだった。
気を取り直して勉強を再開した夕暮れ時、通りから誰かが近づいてくる。
「お兄ちゃん。」
友喜がなつの声で視線をノートから外すと、そこには長らく目にしていなかったなつの兄が目の前に立っていた。
「え、今日は早いじゃん。どうしたの?」
「ん、まあな、たまたまだよ。」
「あ、こっちは友喜。覚えてる?」
「ああ、覚えてるよ。前に会った時は、こんっな、ちっさな…。」
なつの兄が親指と人差し指で大きさを示す。
「それじゃあ、豆じゃん!」
なつが突っ込む。
「あはははは。」
友喜が情けない顔で笑う。
「じゃあ、友喜、またね!今日は最後までありがとう!」
「なっちんがそう言ったんでしょ~。」
「そうだった!またね!」
「うん、ばいばーい。」
なつの兄に軽くお辞儀をして、先に歩き去る二人の後ろ姿を眺めながら、ひと息おいて、友喜も自宅へと帰り始めた。
そこは一見真っ暗だった。
けれども手足は自由に動くし、重力が弱いのか、水の中の様に、浮いて居られた。
男の子を助けるミッションの途中で、どうやら自分は別の空間に飛ばされた様だ。
ノリコは辺りを見回す。
とにかくどういう状況なのかは不明だが、これも意味のある事なんだろうと一人納得する。
もう随分前に、女神様から貰っていた何本分かある、糸の様な光の筋をいつの間にか手にしていてこれが必要な場所に行くんだと分かった。
ガラリと一瞬で場面が変わり、何処かの建物で何かが呼ばれたのを聞いた。
「お、ノーリ、今日の水だぞ!」
誰かが観葉植物に水をやっている。そこでノリコは、
『呼んだ?』
と聞き、
『呼んだね!』
と誰が答える訳でも無い風なのに自分で答えた。
水をやっている誰かがノリコを凝視するのを感じたが、そんな事にはお構い無しで、ノリコは宙に浮かびながら観葉植物に糸の様な光の筋を括り付けた。
また場面が変わり、そこは公園らしかった。
男女が何かを話し、談笑しているみたいだが、そこにノリコが、
『呼んだ?』
と聞き、
『呼んだね!』
とまた自ら答える。
男の方に糸の様な光の筋を渡したが、男が女に発する言葉を聞いてノリコは、
『あ、こっちもか。』
と言い、女の方にもそれを渡した。
渡した所でまた場面が切り替わる。
『おじいちゃん…!』
そこは、自分の住まう神社で、ノリコの祖父が表へ出向き、何かに応戦していたが、苦戦しているみたいだった。
祖父が何かの術を行使している姿を目にするのも初めてだったので、ノリコは一瞬驚いて固まる。
我に返ったノリコは手元に糸の様な光の筋がまだある事を確認して、それらを神社の木々に取り付けようと試みる。
が、何かに跳ね返されてしまった。途端に地面に打ちつけられる。
宙に浮き直したノリコは、祖父の援護をしたいと思ったが、他にはどうすれば良いのか分からないので、祖父の応戦している様子を宙に浮きながら、ただ見守っていた。
なつが自分の兄と家までの夜道を歩く。
街の商店街を抜けて、そこは打って変わって閑静な住宅街だった。
「見えた?」
なつが聞く。
「ああ…まあな。…お前、わざと引き合わせただろ?」
「わざとって言うか…私はただ、役に立ちたいなと思って。で、どうだった?」
「随分珍しいもの付けてんな…てのは思ったよ。それにありゃあ…。」
「…何?」
「自分でそうしてる様だな。」
「自分で…。」
「ああ。訳は分からねえが…。でもよ、似たケースは他にも知ってるよ。」
「え、友喜の他にも居るの?」
「あれはきっと…。」
なつの兄は、なつの質問には答えないで、前方を仰ぐ。そんな兄を、なつは目で追う。
神の思し召しじゃねえかな…。
なつの兄は、声に出さずに思った。
都内アパート。
梨乃は当然の様に則陽の家に入り浸っていて、マンションには碌に帰っていなかった。
「ねえ、梨乃。」
「うん?」
「賃貸の契約、もう止めたら?」
夕飯の席で則陽が言う。
「んー…」
「え、考える必要ある?」
「そうじゃなくて…、私の荷物、どこまで持ってきて良い?」
契約を止める前提の質問を梨乃はしてきた。
「全部持ってきたら、ここ狭くなっちゃうでしょう?」
「そんなに物増えたの?」
ううん、と梨乃は首を振る。
物があまりに無い事は、則陽の目からも明らかだった。
あのツピエルの一件でマンションの梨乃の部屋を訪問し見渡した時の感想だ。
だから、そんな訳無いと分かりながらも発した則陽の質問だったので、梨乃の返しも、分かりきっていた。
それなのに、ここが狭くなるんじゃないかと危惧する梨乃がまた可笑しくて、より愛おしく思えた。
「良いよ。全部持ってきたければ、持ってくれば良い。狭くなったら、その時はまた考えよう。」
「うん。」
梨乃が則陽の提案に納得して頷き、則陽は満足そうに梨乃に微笑んだ。
林の奥の二棟の家。
夜も尚明るさを放つログハウスは、窓から漏れる照明と共に、その温かみが伝わってくる様だ。
雨見は自分のベッドに居ながら、今夜は眠りにつくのが少し怖かった。
あの続きになるのだから、と。
今日の作戦会議には友喜は最後まで帰って来なかったけれど、友喜には当然話す必要があるし、それは明日にでもするだろう。
幸い友喜は、記憶のほとんどを思い出せないし、この夢に関して言うのならば、今まで既に居ないかも、とキャルユの話を進めてきた事もあるのでそこまでショックを受けはしないのではとも思う。だけど有津世が、ツァームが、このまま目を覚まさなかったら…。
雨見は覚悟をして、就寝する事にした。
電気を消して、ベッドの中に入る。
目を閉じる雨見の眉間に、きらりきらりと糸の様な光の筋が時折輝く。
その細さといったら、まるで蜘蛛の糸の様な繊細さで、そこにあるのを感じさせない程だ。
それでも確かにある。
それは揺れて、揺れて、…そして何処かに繋がっている。
濃淡の緑が折り重なる地。
ツァームとアミュラとキャルユの三人は、一斉にエールを送る。
送られた樹の幹には、様々な色味に変わる光が蓄えられ、それは勢い良く、一挙に何処かへと飛んで行く。
青い星、地球。
きらきらと光りの粒が降り注ぎ、道路の上のそれは消え、緑の間に落ちたそれは少しの間だけ留まり、山奥の小川近くに落ちている数々の透明の石の中には喜んで飛び込んだ。
緑の間に落ちたものは、姿を顕現しようとするが、程無く消えてしまう。
透明の石の中に入り込んだそれは、嬉々として石の中を泳ぎ回る。
そして良い場所に来れたという風に、その場に留まる。
光の粒が入り込んだ途端に、石達は以前よりも光り輝いた。
山奥の神社。
日がきらきらと光り輝いている。
ノリコは今日も写本を進める。
写本している内に、自分がミッションの途中から、体から抜け出て様々な場所を巡った時の事を思い出した。
何故だかこの写本している文字にノリコの記憶が書かれている気がするのだ。
そう感じた途端に写本のお手本が光り、正解だと言っているかの様にノリコに知らせてくる。
ノリコはじっと文字を眺める。
すると不思議と文字の理解が進んだ。
ただ、言い回しが難解な事もあって、そこは祖父に教えを請おうと思った。
ノリコは胸元に下げている形の珍しい石をしばし眺め、同じ社内の一番広い空間の奥中央に位置している祖父を呼んだ。
「おじいちゃん。」
祖父の返事が無い。
見ると、まだ祖父の瞑想は終わっていなかった様だ。
ノリコは一度持ち上げて見せようとした写本のノートを自分の小さな座卓に戻し、もう一度胸元の石を見た。
石はこの日も、奥から小さな光を産出している様に見えた。
アミュラは石碑の外側と内側の境目まで戻ってきていた。
石碑の外側へと一歩踏み出した時に鳴った何かの音と振動は一瞬だったし、その一瞬の変化以外には特に変わった様子も見受けられない、ただひとつ、自分が石碑の外側に居るという事以外には。
アミュラは少しの間立ち止まっていたのを思い切って足を踏み出し、石碑の内側へ戻ってみた。
何も起こらなかった。
ほっとしたアミュラは、石碑のある草原から奥の森へと足を運んで行く。
森の奥の小さな切り株の場所に着くと、アミュラは磁界を発生させ、その場だけ他と遮断させる。
次々と近寄る光が、磁界の膜を通った途端に妖精の姿へと変貌して、
『アミュラ、無事だったのね、良かった。』
口々に言ってきた。
アミュラは首を振り、
「無事じゃないの。」
今の状況を妖精達に話して聞かせた。
「キャルユは別の場所に行ってしまったし、ツァームは目を覚まさないの。このままではエールを送れないし、どうすればツァームは目を覚ますの?」
アミュラの言葉に、妖精達は顔を見合わせた。
『あたし達が知っている訳無いじゃない。アミュラ、それはあなたが考える必要があるわ。』
「…こんな時にまで、そんな風に言うの?」
アミュラは妖精達の言葉に腹を立てた。
『あら、あたし達は、石碑の外側には行くな、って言ったわ。取返しが付かないからよ。でもあなたはそれを選んで行ったんでしょう。それなら、そこから先は、あなたが考えるのよ。』
「それは…」
妖精達の言う事が正当性を持っているのが分かるし悔しかった。
それでも少しは寄り添ってくれても良いじゃないか。
今まで支え合って存在してきた大切な二人が、アミュラの事を受け止め受け入れてくれていた二人が、一人は姿を消し、一人は意識を失ってしまい、アミュラの傍に、居ないのに。
アミュラはポロポロと涙をこぼし始めた。
『アミュラ、勘違いしないで。あたし達は皆、あなたを愛しているわ。』
妖精達の投げ掛けた言葉も虚しく、アミュラは無言で磁界を解き、妖精達の姿はまた色とりどりの淡い光へと還る。
アミュラは一人、また別の場所へと歩き始めた。
深い森の中、アミュラは歩み進みながら、そうだ、ぽわぽわ、と思い立った。
確か袖の中に収まっている、と思い、袖の中をまさぐるも、ぽわぽわの居る気配も感触も無い。
「え、確かずっとここに…。」
更に袖の中をまさぐり続けるも手は虚しく空を切るだけで、何処にもその存在は無い。
アミュラは森の中で立ち尽くした。
二日連続で、涙を流して目を覚ました。
それでも覚悟をしていた分だけ、一昨日ほどのショックは受けずに、雨見は涙を流しながらも冷静に今朝見た夢の内容を夢日記に記した。
登校の時間になって、雨見は有津世が玄関ドアから出てくるのを待つ。
「おはよ。」
「おはよう。」
雨見よりもひと足遅くに玄関ドアから出てきた有津世は、
「…大丈夫?」
雨見の顔を覗いて聞いてきた。
有津世の優しさに触れながら、雨見は、うん、と有津世に返す。
「とりあえず、行こうか。」
有津世に手を引かれ、その温かさを感じながら、雨見は自ら有津世の近くに身を寄せる。
雨見のその行動に、有津世は気付かない訳無くて、
「雨見、おいで。」
より近くに雨見の体を寄せると、優しく抱きしめて、頭を撫でながら唇を重ねた。
夜、父から借りたラップトップコンピュータを自分の部屋で開いた友喜は、則陽からのメール内容が梨乃の体験した出来事を綴っている事で兄の有津世がクリスタルの中で梨乃と会った事を則陽側からも確認出来た。
梨乃と則陽が純粋に自分達との交流をクリスタルの中で図れたのを喜んでいるのがメール文章から伝わってきて、友喜はほのぼのした。
ああ、何か…似ているのかも。
則陽と梨乃を思い浮かべ、友喜はしみじみと思う。
梨乃が則陽に惹かれる訳も、メール文章とクリスタルの中の則陽を思うと、何だか分かる気がした。
なつに先程カフェで言われた言葉がふと浮かぶ。
友喜は一瞬でそれを打ち消して、確かに梨乃さんと会った事を兄からも聞きました、という風な内容のメールを則陽に返信した。
草原で、幼いキャルユが何かを弄っている。
先程友喜から貰った細い糸の様な光の筋は、キャルユの小さな両手指で摘まんで伸ばせば伸ばす程その量が増えるのだ。
「あは、あはははは。」
キャルユは愉快に感じ、次から次へと糸を増やす。
もうこれ以上は良いや、と増やしきった所でキャルユは草原に寝っ転がった。
キャルユは全く気にしていなかったけれど、寝っ転がった時に糸の様な光の筋はまとめてキャルユの内側へと吸い込まれて消えていった。
キャルユは仰向けになって空を見上げた。
空が青い。
鮮やかな青色だ。
反射する光を湛えた瞳で、キャルユは空を見上げていた。




