希望の糸
小ぶりなマンションの、こざっぱりとした、梨乃の自室。
今日もいつもの様に仕事から帰ってきて、始めにデスクトップコンピュータを起動してから、炊飯器で炊いたご飯と買って来たノリムーのお惣菜を、いただきます、と言って食べ始めた時の事だ。
視線はご飯茶碗の方を向いていたので、はっきりと視認した訳では無いが、コンピュータ近くの方で何かが動いた気がした。
梨乃は、え、やだな、何か虫が入り込んだかな?そう思った。
特段虫が苦手な訳では無かったけれど、得意な訳でも無い。
だからそこまで気に病まなかったし、そこまで良しともしなかった。
ちょっと経つと、見間違えだったかな、と思い、ごちそうさまでした、と、両手を合わせて夕飯の時間を終わらせた。
片づけを終えてデスクトップコンピュータの前に行くと、陶器製の小さな犬の置物、のりすけの頭をひと撫でしてから画面へと目を移す。
ダイレクトメッセージが今日は二件、来ている。ひとつは友喜からだ。もうひとつは…。
都内アパート。
あれから則陽は、”Rino”からの返事を待ちわびていた。
もし、自分の知っている梨乃でなければ返事は来ないだろうが、ブログの内容を読み進めれば読み進める程、彼女である確信は強まった。何なら、もう、彼女の元まで飛んで行きたいとも思っていた。
デスクトップコンピュータの画面を見つつ、新着メールのチェックを、これまでにもう何回もしている。
と、デスク脇に置いていた則陽のスマートフォンの着信音が鳴った。
すかさず通話ボタンを押すと、
「則ちゃ~んっ!!」
割とすごい、かなりの音量で、則陽は自分の名前を呼ばれた。
住所をメモして、スマートフォンを片手に、則陽は軽装のまま夜の街へと繰り出す。
予想外だったのは、そこは則陽の会社の最寄り駅の街だった事だ。
繁華街の外れに該当の建物はあった。
部屋番号を確認して部屋の玄関前のインターホンを押すと、なんとも形容しがたい表情の梨乃が出迎えてくれる。
「えっと、」
「あの…入って…。」
そこは飾り気も何も無い部屋で、本当に女の子の一人暮らしか、と疑うくらいだったけれど、梨乃はそんな事は気にも留めない様子で、自身のデスクトップコンピュータの画面を遠くから指差した。
「あれなの、あれっ!!」
見るもおぞましいとでも言う風に、則陽の影に隠れて指を差す梨乃は、なんだか可愛かった。
「…あー…。」
梨乃のデスクトップコンピュータの画面の中で、ツピエルが悠々とお茶している。
「なんなのこの小娘は。人が来るなり、ぎゃーぎゃーぎゃーぎゃー。騒がしいったら無いわ!」
と言いながらも、少ししたり顔だ。
「ツピエル…。」
則陽は何事かとここに辿り着くまでの間緊張して上がり気味だった肩をふうっと下ろした。
ごめんね、こんなものしか無いの、と言いながら、梨乃は冷蔵庫からペットボトルのお茶を数少ないマグカップへと注ぐ。ううん、良いよ、と則陽は言って、ありがとう、と受け取った。
「えっと…まだ信じられないけれど、でも居るから、そうなんだろうけれど、」
梨乃は横目でちらりと自分のデスクトップコンピュータのモニター画面に映り込むツピエルを見ながら則陽に話す。
「要するに、則ちゃんは、つい最近は、こういう現象を日常的に…目にしていた、と…。」
なんだか梨乃が物分かりが良い。
まあ、ツピエルが消えずにしつこく居座っているものだから信じるなと言われても信じるしか無い状況ではあるが。
「うん…、話せば長くなるけど、実は結構、突拍子も無い話が他にもあって…。」
「私…、あれ…、どうしたら良い?」
「いつの間にか、勝手に消えるよ。勝手に出現するけど…。」
画面の中から、んまあっ、失礼しちゃうわね!との叫びが聞こえるけれど、そこは無視だ。
「梨乃…、うち来る?」
その後、則陽が梨乃のデスクトップコンピュータの電源を消して、梨乃は、少ない必需品の準備をした。炊飯器の残りのご飯は、冷凍庫に移して、お釜は綺麗に洗った。
少しの服と、化粧品を鞄に入れた後、梨乃は思い出した様に、陶器の小さな犬、のりすけを、そっと一緒に鞄に閉まった。
「出来た?」
則陽に聞かれ、うん、と頷くと、則陽は梨乃の荷物を預かり、梨乃は部屋の電気を消して、則陽と一緒に、自室を後にした。
夜の街を、則陽と二人歩く。
気恥ずかしいのもあったし、話さず居られるのも、久し振りで心地良かった。電車では僅か2駅ではあるけれど、特に何も喋らなかった。
二人は言葉少なく、則陽のアパートまで辿り着く。
先程のツピエルの件についてはまだまだ話していない関連した出来事があるけれど、それはさておき今夜のこの時間は大切にしたいと則陽は思った。
「本当に変わって無いね…。」
部屋に入った梨乃は、懐かしむ様にその内装を眺める。
「梨乃が一生懸命決めてくれた配置だからさ…。」
則陽はそれだけ言って、梨乃に微笑んだ。
「強いて言えば、うちの会社のソフトが遊べるゲーム機だけ、新しく加わったかな。」
「ゲーム機…。」
二人の視線がゲーム機に向いた途端に、独りでに電源が入り、則陽にとってはお馴染みのクリスタルの画面が小さなテレビに映り込んだ。
「…へえ、今のゲーム機って、こんなに進んでるの?すごいね、」
「えっとそれは…後で説明するよ、」
則陽は頭をぽりぽり掻きながら、少し可笑しそうに言った。
と、テレビのゲーム画面に、通りかかったツピエルが映り込む。
「ツピエル…。今夜は…勘弁してくれないか…。」
則陽は彼を見て、せめて今夜はと退散を請うた。
林の奥の二棟の家。
今は夜で、有津世達の家ではちょうど夕飯の時間だった。
友喜は夕飯ぎりぎりに帰って来たけれど、ついこの間までの友喜の表情とは違い、今日もすっきりした顔色だ。有津世はそれを見て安心したけれど、先日目撃した現象を忘れた訳では無い。
ご飯を家族四人で食べながら、有津世は何となく友喜の方を見る。
いつもと変わらない食事風景だったけれど、有津世の心持ちは幾分か違っていた。
食事と風呂を終えると有津世は自分の部屋で、友喜から貰った水色の豪奢な装飾のノートを開いていた。先日の出来事を書き記したページに日付が載っている。有津世はそれを見て、父から借りたラップトップコンピュータを開く。
メールの返事が則陽から来ていて、エールについてもっと詳しく教えてくれとあったが、自分の記憶だけでは心許無く感じ、友喜と雨見に確認をしてから改めて返事を送ろうと思った。
都内アパート。
則陽の家では、則陽がゲーム画面に現れたツピエルに退散をお願いした直後、ツピエルは片手を上げて、にんまり笑って消えてから、この日再度は現れなかった。
作業部屋脇のベッドで、則陽が梨乃を自分の胸に寄りかからせる姿勢で、優しく抱きしめている。
その体勢のまま、則陽は今まで自分の身に起きた、不可思議な出来事の話の続きを梨乃にしていた。先程のゲーム画面のクリスタルの中に入った事、副業をしていてそれが現実に直結している物事の修正プログラムだという事、その管理者だと言う男がこのアパートを訪ねてきた事。則陽はそういった出来事も、梨乃には話しておきたいと思った。
「信じる?」
「信じるよ、もう、見ちゃったからね…」
ツピエルの事だろう、梨乃が言った一言の後で、則陽は梨乃に深く長いくちづけをした。
翌日、則陽と梨乃はそれぞれ仕事だったから、梨乃の分も則陽が用意して軽い朝食を摂った後で一緒に則陽の家を出た。
最近彼の身に起きた出来事に則陽は夢中で、特にあのゲーム画面のクリスタルの中に入る話に傾倒している様で。冒険話を聞いているみたいで楽しくて、梨乃はそんな則陽に夢中になった。
「それじゃあ、行って来るね。」
「うん。」
二人共、会社の最寄り駅が一緒だったから、駅により近い場所にある梨乃のオフィスの前で、二人は一旦別々になった。
建物へと入っていく梨乃を見送り、則陽は晴れやかな笑顔で、自分も会社へと向かって行った。
~第三章 希望の糸
「ソウイチ様。日光浴の時間です。」
部屋に広げた数々の精密部品に囲まれながら何かを組み立てていた男の子は、言葉を聞き、あともうちょっと、と言い出そうとしたけれど、一拍後に男に連れられて日の当たる場所へと移動をする。
男の子の本心としては、ずっと組み立て作業を続けていたかったけれど、ここに来る前にノリコとおじいさんに教えて貰ったのだ。
「元気に活動するためにはね、お日様を浴びなきゃダメなんだよ。」
ソウイチは、日光浴の時間の度に、二人からの言葉を思い出す。
大人に成長した今でも尚、神社での思い出は昨日の事の様に鮮明に思い出されていた。
ふと手元の石を見る。
綺麗に透き通った石だった。
直後、ソウイチの他に誰も居ない空間の中で彼は何かを聞いたかの様に、ああ、分かった、と言葉を発して席に掛けてコンピュータを操作し始める。
「ああ、それもだ。やっておく。」
次々とキーボードに打ち込んでいく。彼は目の前のモニター画面を見ながら入力作業へと集中していった。
林の奥の二棟の家。
今は夜で、漆黒に見える手前の家の丸い二つの天窓からは、それぞれ淡い光が漏れていた。
友喜は家族共用のラップトップコンピュータを自分の部屋で開き、梨乃のブログページを開いた。
あの可愛い犬の置物がトップページになっていて、目を和ませてくれる。
最新記事がアップされていたので、何となく目を通す。
友喜の目が、記事の内容を追っていく毎に、段々と見開かれていった。
何故なら新しい記事の内容は、今までブログの主軸であった梨乃の想い人との復縁報告が控え目に綴られていたからだ。
直後にダイレクトメッセージを開き、梨乃にメッセージを送る。
梨乃と実際に会って話したのはまだ回数こそ少ないけれど、梨乃がどれだけ彼の事を想っているかは深く理解しているつもりだったから。
そんな彼女の願いが叶って欲しい、そう思っていたから。
「梨乃さん、おめでとう…。」
友喜は画面を目にしながら呟いた。
不意に友喜の部屋のドアをノックする音が聞こえた。
友喜は感動して潤んだ瞳をぱちくりぱちくりと高速で瞬かせると小さく頭を振るってからドアの前に行った。
「友喜、ちょっと良い?」
有津世の声だ。
友喜はドアを開けて、どうしたの?と聞いた。
有津世は友喜の目を見て尋ねてくる。
「明日さ、友喜は帰り早いの?」
「ん~、分からない…どうして?」
「うん。奈巣野さんからのメールに返信する内容をさ、雨見とさ、友喜にも相談したくて。」
すると友喜が有津世をラップトップコンピュータの置いてある机まで手招きしてメールボックスを開き、ああ、これの事?と一件のメールを開いて見せた。
「そう、それ。友喜も読んだ?」
「うん。エールの事でしょう?なんで明日なの?別に今でも良いんじゃ…。」
「うん、まあ…メールの返信内容の他にも…三人で話し合っておきたい事があるんだ。」
再びドアの方へと歩きながら有津世は友喜に言った。
ドアは開け放ったままで、有津世は緩くドアを背に寄りかかった。
有津世の顔を見上げていた友喜が有津世の肩越しに視線をやって、あ、と呟いた。
「ん?」
友喜の視線の先を見ると、いつの間にやら発生したのか、ぽわぽわが有津世の部屋の方から出てきてふわりふわりと浮きながらどうやらこちら側に近づいて来てきそうな動きをしていた。
「!」
有津世の反応は一瞬だった。
ぽわぽわを目にした途端、有無を言わさず友喜を抱き抱えて彼女の部屋の奥側へと移動させる。
友喜には何が起きているのか分からない。
ただただ有津世の挙動に目を見開いて呼び掛けた。
「え?お兄ちゃん?」
「ごめん、また話す。ドア、閉めるね。」
それだけ言って、有津世はまるで友喜を部屋に閉じ込めると言わんばかりにドアをバタンと閉めた。
朝。小雨が降っている。
傘を差した雨見が二棟の家の玄関近くで立って待っている所に、手前側の家の玄関ドアから有津世が出てきた。
「おはよ。」
「おはよう。」
雨見は有津世の顔をよくよく見て、微笑んだ。
それを見て有津世が、
「なあ、傘一緒に…、」
と言いかけたが、
「傘二つあるのでそれは結構でーす。」
と提案が出る前に断ってくる。
そんな雨見だけれど、明らかに後半照れていた。有津世は雨見の表情の変化は見逃さない。
「ちぇ~。」
と言いながらも、じゃあさ、こういうのはどう?と更なる提案を雨見に持ち寄る。
傘と傘が重なる。
傘が離れた時に、頬を赤く染めた雨見は有津世に微笑んでいた。
学校の校舎の一角。
窓の外の雨は降ったり止んだりだ。
友喜は廊下の窓から外を見ながら、なつと話していた。
「友喜、今日はどうする?」
「うん、お兄ちゃんが作戦会議したいって。」
「そうか、じゃあ、行ってあげなよ。」
「うん…。」
なつは友喜の反応に、どしたの?と言う。友喜はしばらく考えて、また別の日にでも話すね、とだけ言った。
窓の外の空からは、再び雨が降り出していた。
友喜が一人で学校からの帰り、林の道を歩いていた。
傘をくるくると回しながら、何と無く道路端を見る。
両脇とも木々で埋まっていて、毎度ながら、見事な林の風景だ。
微かに何かの音が辺りから聞こえてくるのを感じ取って、はたと止まった。
思わずしゃがみ込む。
耳を澄ますと、それはメロディを奏でていて。歌だ。歌を歌っている。
「今日のお茶は~、ミルクティー。お茶菓子は…何にしようかしら。う~ん、迷うわあ~!」
友喜は顔が青くなった。
聞き覚えのある声だったが、友喜はその声の持ち主に人一倍苦手意識を抱いている。
なんせそれが現れる様になってからは、ゲーム機を自分一人では起動しなくなる始末だ。
友喜は、気付かなかった振りをして、そぉっと、その場を後にした。
地面に積み重なった落ち葉の中から、むくむくときのこが生えてきて、次の瞬間きのこの正面にドアが出来た。
ドアから顔を覗かせたのは、やはり、ツピエルだ。
「ん?何?気のせいかしらねえ。」
きのこの敷地からは一歩も出ようとせず、頭だけ動かし周辺を見回したツピエルがきのこの家のドアを閉めた。
再びツピエルの歌う歌がきのこの家から聞こえてくる。
「ふー、ふんふーん、お茶菓子は、ロールケーキにしようかしら!」
無事家に帰り着くとホッと息をついた友喜は、着替えを済ませてきてリビングのソファーに座った。
「先に紅茶、飲んでようかな。」
リビングのソファーからダイニングに行って、紅茶を淹れながらふと昨夜の有津世の行動を思う。
ぽわぽわを見つけた直後の有津世の行動は反射的だった。
友喜は、理由を知りたいと思った。
淹れた紅茶を飲みながら友喜はソファーに座り直した。
何口か飲んだ後でソファー前の座卓に紅茶のマグカップを置くと、静かなリビングの空気も相まって気分がだれてくる。その内に友喜は寝てしまった。
「…ちゃん、友喜ちゃん…」
誰かが呼んでいる。
自身の視界が呼び声と共にぱっと晴れて、目に入ってきたのは則陽の姿だ。
「え、ここは?」
友喜は驚いて声を上げた。
「友喜ちゃん、クリスタルの中だよ。久し振りに入れたものだから、また友喜ちゃん達と会えるかなって思ったら、本当に会えて良かった!」
爽やかな笑顔で則陽が答えるも、え、そんなはずは…と友喜は思った。
クリスタルの起動画面はまだ今日は目にしていなかったし、いつの間に入ったのだろう。
今いる空間は以前則陽と会った黄緑色の明るい空間だったし、クリスタルの中としか言い様が無い風景である事は確かだ。
「…。」
「友喜ちゃん、もしかして、びっくりしてる?」
友喜の反応が今一つだったので、則陽が気遣い聞いてきた。
「クリスタルの中に入ったつもり無かったから…。」
「入ったつもり無いのに、飛んで来ちゃったんだ。そんな事があるんだね。」
則陽は興味深そうに言う。
メールでの彼と、反応が同じなのは同じ人物だから当たり前なんだけど、でも何だか感慨深い。
友喜は頬を緩めた。
「そうだ、友喜ちゃん、一番最近に有津世くんに送ったメール、友喜ちゃんも読んでくれた?」
やはり則陽は有津世達の体験に強く興味を持っているのだろう。
勿論、と友喜は首をぶんぶんと縦に振り肯定する。
「そのメールでのエールの事、まだ私達返信してなくて…。」
「ああ、そうだね。」
今ここで答え様にも、友喜は雨見と有津世から聞いたのだけだし、上手く答えられないかもと友喜は珍しく尻込みした。
「エールか…面白い発想だね。それについて、自分なりに分かったかも知れない事があってね…。」
「?」
「まだ友喜ちゃん達からの詳しい説明の回答、教えてもらう前だし的外れかも知れないけど、俺の考えを言ってみてもいい?」
友喜はどちらかというと、則陽が何を言おうとしているかは皆目見当が付かない。
勿論、とここでも友喜はぶんぶんと首を縦に振って、則陽に続きを促した。
「自分の体験した感じだと…胸がさ、温かくなると、入れるみたいなんだ。」
「胸が…?」
「うん、例えば…、これは最近の、俺の出来事なんだけどね…、自分の中のピースがひとつ、はまった様な出来事があったんだ。そしたらさ、この通り、久し振りに入れたんだよ。」
「自分の中の…ピース…。」
「そう、欠片って事ね。」
「友喜ちゃんも、何かそういう出来事は無かった?」
友喜は緩く首を振った。
「特には、何も…。」
「そうか…、そしたら、友喜ちゃんは何で入れたんだろう…。とにかく、この推測は違うかも知れないし、自分の側からももっと解明出来れば良いんだけど…。」
友喜がエールに関しての答えを持ち合わせていないのが友喜の素振りで何となく分かるのかそれとも答えを急いでいないからか、則陽は友喜に回答を求めなかった。
そして彼の表情はとても柔和だ。
「えっと、奈巣野さん…、」
「ん?」
「以前よりも、はきはき喋ってる…。」
友喜の発言に則陽は苦笑した。
「ああ、あの時は、何が何だか分からなくて、戸惑っていたからね。でもさ、その後随分とツピエルに鍛えられちゃって。ちょっとやそっとじゃ動じなくなっちゃったよ。」
ツピエルの名前を耳にした友喜はぎくっと途端に表情が硬くなったのに則陽は気付いた。
「あれ、友喜ちゃん苦手だったっけ?」
「はい、…ちょっと。」
「そうかあ、ツピエルは、俺にとってはキューピッドでもあるから…、ああ、これはまあ良いや。とにかく、またこうして会えた事は、少なくとも俺にとっては喜ばしい事だよ。」
ああ、後ね、と則陽が続ける。
「俺が推測するに、この空間は、多分時間の流れ方が違うよ。以前一回入って、友喜ちゃんと話をしたのにだいぶ時間を使ったと思ったけど、戻ったらクリスタルに入る直前の時間、夜の7時のままだったんだ。」
友喜は則陽の言う事にふんふんとまた頷き掛けたが、その動作が途中で止まった。
「え…私そんな遅い時間に、行っていないはず…。」
友喜の言葉を聞いて、則陽は、そうか、と興味深そうに返した。
「じゃあもしかしたら、この空間は、入り込む前の人の時間さえ、もしかしたらバラバラなのかも知れない。」
念の為聞くけど、今日は何月何日?何時頃だった?と則陽が聞く。
すると今日は今日で則陽と同じ日付だったけれど、則陽の時間は、今日も夜だそうだ。
「友喜の方は、まだ昼間…。」
今回は同じ日にちではあったけどね、今後違ってくる可能性も出てくる訳だ。と則陽は言う。
「まあ、もうちょっと、調べてみるよ。」
ああ、それと、と則陽は続け、
「友喜ちゃんが言ってた事は、部分的に正しかったよ。」
友喜は首を傾げた。
「クリスタルのプログラムを組んだのは、どうやら俺だったんだ。」
それだけ言うと、則陽は少し慌てた様に、また会えると良いね!と言って、白い光に包まれ始める。則陽の姿を呆気に取られた様に友喜はしばらく見つめていた。
我に返る。まだ昼間の3時過ぎだ。
友喜はソファーから寝そべっていた体を起き上がらせ、テレビの画面を見ると、クリスタルの起動画面が表示されている。
いつの間にか、やっぱり入っていってたのかなとも思い、直前の記憶の無いのを残念に思いながらも久し振りに会う事の出来た則陽を思い浮かべた。
そういえば、則陽は久し振りに会って大きくなった友喜を、確認もせずに、友喜、と始めから呼んだ。前に会ったのは自分が小学生の時だから、だいぶ変わったはずだけど。
それとも、確かに友喜だと則陽から見たら分かったのだろうか。
則陽は前に会った時も大人だったから特に外見は変わらないけれど、何だか前との印象が随分と違う様に友喜側からは感じたから。
座卓に置いた紅茶のマグカップを手に取って一口飲んだ所で、玄関から兄の有津世の第一声が聞こえてきた。
「ただいまー。」
「お帰りなさい、お兄ちゃん。」
「おー、友喜。帰ってたか!」
有津世は玄関から上がり、リビングへとやってきて友喜の顔を見ると、嬉しそうに友喜の頭をポンポン叩いた。
「お兄ちゃん、髪ぐちゃぐちゃになるから止めて!」
友喜が珍しく文句を言ったので、有津世は途端にたじろいだ。
兄の手をやんわりと払い、紅茶、淹れておくね、と友喜は言ってダイニングへと足を運ぶ。
友喜を目で追って呆けていた有津世が、ああ、お願い、と言って気を取り直すと2階に一旦引っ込んだ。
着替えを済ませた有津世が下の階へと戻ってきて、今日のお菓子はどれにしようか、と二人で相談する。そうこうしている内に、雨見が柚木家に上がって来た。
「お邪魔しまーす。あ、友喜ちゃん、良かった!」
雨見の言葉を受けて、友喜が兄をじっと見る。
「ああ、ごめんね、友喜ちゃん、違うの。その、ちょっと、…安心しちゃった。」
「良かった、私が居る事で、雨見ちゃんが安心出来て!」
友喜は有津世に向かって最後を強調して言う。
「何だよ、俺こないだも、何にもしなかったじゃん!」
途端に有津世からクレームが入る。
頬を上気させた雨見は、もうそこまで困った表情を見せなかったし、有津世とのやり取りも、何だか楽しそうだった。
雨見と有津世を目にして、友喜は笑顔で、
「じゃあ、始めよっか!」
と二人に言った。
友喜は自分の豪奢な装飾のノートに書き込みながらも、先程の則陽との再会について二人に教える。
ゲーム機のコントローラーを弄りもしなかったのにいつの間にかクリスタルの中に移動していた事や、則陽が成長した自分を初めて見るのにも関わらず友喜だと信じて疑わなかった事、そして先程、林の道の途中でツピエルを見かけた事も二人に告げた。
「え、ツピエル?居たの?」
嫌そうな顔で友喜がそうだと言い、なんだ、俺ツピエルと話したかったよ!と有津世は叫んだ。
有津世が言うには、色々と質問がツピエルに対してあるらしい。
則陽が最近事細かにツピエルの事を言ってくるのも、なんだか不公平に思えて。
何で家にはその後来ないんだよ、と、ほぼ文句だ。
「ねえ、その奈巣野さんが言ってた…空間に来る人達の時間とか日にちとか、バラバラの可能性があるって…。」
「ああ、それ俺も気になった。って事はさ、実は過去の人と話していたり、その逆は未来の人と話していたりする事だよね…。」
有津世の言葉を聞いて、友喜はそういう事か、と改めて理解する。
「じゃあクリスタルの空間の中では、どれも今って保証は無いのか…。」
「それって、私達の今見ている夢と同じ…。」
雨見が呟く。
なんせ今、キャルユがこちらに居て、あちらの世界には居ないと言うのが三人の今の所の見解だ。
クリスタルの空間と夢の空間は、共に今の時系列では無い可能性がある…。
「あ、ねえ、お兄ちゃんが言っていた、私達にしようとしてた話って?」
友喜が有津世に話題を振り、雨見は有津世に振り返る。
「有津世、何かあるの?」
「そう。二人に話があって。まず、友喜。」
有津世は先日雨見とした作戦会議の中で、自分がツァームの記憶を思い出すきっかけとなる白昼夢は、石を眺めている時に多いと気付いた事を友喜にも伝える。有津世は2階から石を持ってきて友喜に見せた。
雨見は一度聞いた話題だったけれど有津世の説明に静かに聞き入る。
友喜は有津世が以前持ち帰った石を見て、ああ、その石か、と驚き、目を丸くした。
「それと…、」
有津世は言い掛けて後の言葉を濁す。
雨見と友喜が話してと促すと、有津世は静かに息を吐いてから、意を決した様に話を始めた。
「ちょっと前にさ…、友喜のたっての願いで、夜ぽわぽわが出現する時間に、友喜に部屋に来てもらったんだよ。」
触りの部分だけ聞いて、雨見の挙動が止まった。
「誤解しないで聞いて欲しい。友喜に重なってキャルユが居るんだとしたら、ぽわぽわもキャルユなんだとしたら、引き合わせて見るという手も、なるほどあるんじゃないかな、ってその時は了承して…。」
雨見の表情はなんだか複雑そうだ。
そりゃそうだ。
兄妹とはいえ、友喜はついこの間まで有津世に恋心を抱き、苦しんでいる姿を雨見も見てきた。
普段がどうかは知らないけれど、その二人が夜に部屋で二人きりの時間を過ごすという事に、何も思わずにはいられないだろう。
有津世は雨見の気持ちの機微を推して量ると、今すぐ彼女の肩を抱き寄せたい衝動を感じた。
それでも何とか衝動を抑えつつ、話を続ける。
「で、ぽわぽわが出現してから、友喜はそれを覚えてないよね。」
「うん、…覚えてない。」
友喜は声のトーンも低く答える。
「ぽわぽわが出現した後さ、友喜がぽわぽわを手招きしている様に動いたんだ。」
有津世がその時の友喜の仕草を真似る。
「そしたら…。」
「そしたら?」
友喜と雨見が同時に聞き返す。
「ぽわぽわから、小学生の頃の姿の…友喜が出てきたんだよ…。」
え?何分からない、どういう事?と友喜が言って、雨見は啞然とする。
「成長した友喜はこっちに居るのにさ、ぽわぽわから見えるもう一人の友喜は、まだ小学生の姿のままで…でも少し…透き通ってて…友喜同士がなんか喋ってて…それが何かこっちには聞こえてこなくて…。」
有津世は握りしめた拳をわなわなと震わせて、ついには激情を放つ。
「何だか分からなくてさあ、俺怖かったよ~!」
涙目で訴えかける有津世に雨見と友喜はぽかんとなり、一拍遅れて友喜は自分の体をまさぐる。
「え…?え?私、友喜だよねえ?幽霊?」
「幽霊な訳無い!え、有津世、心境変わったって言ってた元ってそれ?備えって…。」
「…うん、そう…。」
有津世が打ちひしがれた様相になりながら続ける。
「俺さ、それ、何だか分からないけれど…今までも不思議な現象を見てきたけどさ…まさか、まさか友喜が分裂して現れるなんて…何なんだ、怖いじゃんか、すっごく!」
「…あー、有津世が言いたいのは分かった。ものすごいおかしな現象を見たって事だよね。ただ、友喜ちゃんは友喜ちゃんだから。その…言い方、気を付けないと。」
雨見が友喜の肩を包み込む様に支えながら言う。
友喜は頬が、ぷうっと膨れていた。
「怖がらせて、悪かったけど。…私も覚え、無いんだけど。」
ねえ、どういう事?どういう事なの?お兄ちゃん一人で夢見たんじゃないの?と友喜が有津世の肩をぐらぐらと掴みかかる勢いで迫る。とにかく、友喜の機嫌は今の有津世の話でだだ下がりになっていた。
「…お兄ちゃんそれで昨日私とぽわぽわを会わせない様に遮ったんだ!」
「だって、あれ、そうするだろ!おかしいって!ダメだろ、あんなん二回も!」
勢いを持って有津世が叫ぶ。
「…その現象さ、悪いものなのか、問題の無いものなのかどうかとか…まだ分かって無いよね。」
雨見が二人を交互に見ながら冷静に言った。
「まあ、…それはそうだろうけれど…。」
武者震いをしながら有津世が答える。
「でもさ、雨見も見たらさ、びっくりするよ!びっくりするから、あれ!」
真に迫って雨見に伝える有津世は興奮鳴り止まないって感じだ。
一方の友喜は有津世とは対照的な反応で、トーン低く有津世に言い放つ。
「お兄ちゃんは格好良いけれど、時々バカだ。」
その言葉を真に受けた有津世が友喜をキッと睨んで友喜は負けずに有津世を睨み返した。
何を~!と互いに文句を飛ばし掛けた所で、雨見にまあまあ二人共、と、なだめられる。
「友喜ちゃんが覚えていないのもしょうがないし、有津世がそれを目撃したのも、しょうがない。有津世が怖がるのもしょうがないし、友喜ちゃんが怒るのもしょうがないよ。何にしても、見極めない事には…。」
落ち着いて考えてみるしかないよ、と言い、一拍置いて続ける。
「ねえ、じゃあこういうのはどう?」
雨見が出した案は、お泊り会だ。
仲の良い三人だけれど、お泊り会は今までした事が無かった。
雨見は常々こちらの世界でもぽわぽわとも会ってみたいと願っていたし、寝る時は友喜ちゃんの部屋にお邪魔させて貰う形でどうかなあと言ってきた。
別に良いけどさあ~、と含みを持たせて友喜が答える。
「けど?」
「私、また覚えて無くて、その後、雨見ちゃんにまでお兄ちゃんみたいなリアクション取られたりしたら…正直へこんじゃうよ。」
ぶつぶつと愚痴を言う。
「う~ん、私幽霊とかあまり怖がらないし、もし目撃したとしても大丈夫だよ。」
雨見が言うと、聞き捨てならないっといった感じで友喜は雨見にずいと迫る。
「幽霊じゃないからね、私幽霊じゃあないから!」
雨見は言葉選びを間違えた様だ。
知ってる、友喜ちゃんは幽霊じゃないよ、と、雨見は申し訳無さそうに言葉を添えて訂正した。
どうかな?と有津世にも伺いを立てる。
「まあ、良いんじゃない?楽しそう…。」
有津世が顔を赤くしている。
「何を考えているのか想像つくけど、そんなんじゃないから!雨見ちゃんは私の部屋に泊まるんだから!」
友喜が今度は有津世に食って掛かった。
まあ、親に反対されたら、出来ないけどね、との雨見の声に我に返った二人が振り向いて。
雨見と有津世達両方の親は、意外過ぎるくらいに、あっさりオッケーを出した。
夜ご飯を食べて、お風呂に入ってから夜だけお邪魔して、朝になったら朝食前に帰る。
寝泊りさせてもらう以外は、何の負担も掛からないし、何しろもうずっと仲良くして貰っている間柄だ、どうぞ泊まりに来て貰って、と有津世と友喜の親は言ったし、雨見の親は、有津世くんと友喜ちゃんの所なら安心ね、と、有津世も自分が思っていない程の信頼を受けている事を知り、計画は実行へと移された。




