決意の欠片
林の中の二棟の家。
その一方のログハウス。
1階のリビングから伸びる階段を上がった先、直ぐの所に雨見の部屋はある。
雨見は長く伸びたワンレングスの髪を手で後ろにやりながらベッドの上で胡坐をかき、夢日記を読み返していた。
先日の作戦会議では結局の所、話の整理をしただけで進展したとはなかなか言い難かったけれど、だからこそ今までの日記を読み返す事で何か取っ掛かりを見つけ出せないかと考えていた。
雨見はいつでも真剣だ。
この夢が有津世と友喜の二人にも関わりがある可能性を知った時も、こっちの世界と直接繋がっているかも知れないと気付いた時も、夢で体験しているもうひとつの世界への想いは更に強くなった。
夢日記を読み返している雨見の姿は凛とした美しさを放っていた。
ああでも無い、こうでも無い。
分からなくても、一生懸命考える。
雨見にとっては、こちらの世界と同じくらいに大切なもうひとつの世界。
学校では恋愛の話とかを時々クラスメイトの口から耳にするけれど、興味はあってもまだまだ現実味の薄い話であったし、夢日記の内容を話す毎回の作戦会議の方がよっぽど現実味を帯びていた。
雨見を本当の意味で理解していたのは、有津世と友喜の二人だけだったかも知れない。
雨見が心を許していたのも、家族の他には有津世と友喜の二人だけだったし、特にそれを他へと広げようとも思わない。
雨見はそういう部分で無骨だったから。
有津世と友喜は、そんな雨見をこよなく愛していた。
繁華街の外れの一角。
平日、まだ随分と明るい時間に自室へと帰って来た梨乃は、手にしている食べかけの弁当のビニール袋をおもむろに見る。
弁当を出さずにビニール袋ごと座卓へと下ろした梨乃は、へたり込む様な形で座り込んだ。
「…。」
彼の優しさは相変わらずだったし、そんな彼との日々の一端を強烈に思い出させてくれた、先程の一刻。
梨乃は既に気力と体力を使い果たしており、座卓に突っ伏して寝てしまった。
「おう、則陽、遅かったじゃねえか。」
小ぶりなビルの4階入り口に飾ってある観葉植物ノーリの前に、パイプ椅子を引っ張り出して座っていた吉葉が、昼休憩の時間から少し遅れて戻って来た則陽に声を掛けた。
「あ、すみません。」
則陽がぺこりと頭を下げて詫びた。
「まっ、そんな日もあるよな。それよりさ、今日の帰り、一緒に飲まねえか?」
一杯くらいならと、則陽が首肯して応じて、退社後に吉葉と則陽は会社近くの、こじんまりとした居酒屋に向かった。
「んで?梅とはその後どうなったよ?」
吉葉はこれが聞きたかったんだと話を唐突に切り出す。
「え、特に何にも…。」
則陽が梅との件を濁すと、吉葉はビールのジョッキ片手に則陽の顔を覗き込んだ。
「んま、俺が関知すべき問題でもねえけどな、でもま、気になってたからな。」
則陽は顔を上げて吉葉に聞いた。
「知っていたんですか?」
「知っていたんですか?って、ありゃあ、気付かねえ方がどうかしてるぜ?まあ、そんなだから、そんな所が、梅にとっては良かったんだろうけどな、」
則陽へのフォローも入れながら、吉葉は言葉を続ける。
「俺は、梅の事、ちょっとは応援してたからな、だからまあ、お前の反応を見たら、上手く行かねかったんだ、とは思うよ。まあこれは俺の応援のレクイエムとでも思って、いっちょ付き合ってくれ。」
吉葉は則陽にジョッキを向けて乾杯さながらに掲げるとビールをごきゅきゅと飲んだ。
則陽はビールの代わりにウーロン茶を口にする。
注文初めにウーロン茶を注文しようと言う則陽に吉葉が苦笑すると則陽は止まった。
吉葉は則陽の肩をポンポンと叩いて弁解する。
「いや、悪かった。お前のポリシーなんだろ、良いよ。頼めよ。」
ウーロン茶の注文をそのまま進めさせて、今に至る。
則陽と吉葉は話を続けていた。
「何にしてもよ、まあ、そうだな、うん。明日、梅とも飲むとすっかな。あいつ、あんなだけど、落ち込んでいるだろうからな。」
則陽は吉葉を見て、感心して呆けた顔になった。
「ん?何だ?何か付いてっか?」
吉葉は自分の口の周辺を手のひらでまさぐる。
則陽は口には出さなかったが、吉葉の優しさというものを垣間見たと思った。
こんな事にも気が付かずに、自分は今まで生きてきたのか、と。
吉葉が最初の一杯を空にして、追加で頼もうとするのを、ああ、そうか、一杯だけだったか、と途中で止めようとするのを見た則陽が言葉を添える。
「吉葉先輩、もう少し、付き合いますよ。」
吉葉はビールを、則陽はウーロン茶を追加で頼んだ。
林の奥にある、たった二棟の家。
ログハウスの隣の、漆黒に近い夜の佇まいのその家は、ログハウスとはまた違った木造の建築美を感じさせる。
屋根にある二つの丸い天窓、そのひとつを上から覗くと、部屋のロフト部分で友喜がすやすやと寝入っていた。
夢を、見ていた。
ふわり、ふわり、漂っている。
その先に見えるのは兄の有津世の姿だ。
兄は部屋のロフト部分で、眠る前のまどろみを過ごしている。
くすぐったくなる様な、そんな光景。
それを深い愛で持って見守っている。
そんな目線で。
来る日も、来る日も、有津世の部屋を訪問する。
そんな夢を見ていた。
翌日、吉葉は今度は梅を飲みに誘っていた。
まあ、良いじゃねえか、たまには、と吉葉の声が聞こえてくるその端で、則陽は自身の作業をコンピュータに向かい、コツコツと進めていた。
6階建てのビルの4階部分にあるゲーム会社は、今日もそれなりの活気でまわっている。
聞こえてくる吉葉達の声も、まあ、趣旨は違えど、会社の空気を良くするのに一役買っていた。
則陽の視線が、自分の席のデスク脇に置いてあるスマートフォンへと泳ぐ。
吉葉の誘いは結局自分や梅への優しさだと知った。
表立って出さずに、吉葉はただ淡々と自身の意思だと示し接してくれている事に、改めて感謝の念を持った。
自分はどうだろう。
梅や吉葉の様に、自分から何かそういったものを引き出せるのだろうか。
則陽はスマートフォンを見つめていた。
結局何をするとも無しに、則陽はアパートの自分の部屋へと帰宅した。
全然思いつかなかった、自分から動く案は、頭の中で予行演習すればする程、自分にとって滑稽に映るのであった。
そんな自分に諦めて、則陽は今夜も試しにゲーム機を見ると、途端にクリスタルの画面が表示される。
何もせずとも意識しただけで起動し、テレビ画面にクリスタルの映像が映し出されるのは、有津世達の家のみならず則陽の家でも一緒だった。
クリスタルにカーソルを合わせ、Aボタンを押すも、今日も淡く光るのみだ。
ただ、少し違っていたのは、その様子をツピエルがたまに見に来ていた事だ。
「あら、ホント、今日もダメね。どうしたのかしら。」
「ツピエル…!」
ツピエルが画面の端に突っ立って、クリスタルが淡くしか光らないのを則陽と共に確認をして感想を口にする。
「ツピエル、これ、君の管轄じゃないの?」
「アタシの管轄?ふざけなさんな、アタシはこれを預かっただけで、その中身をどーこーしろ、とは言われてないわ。そーゆーアンタはどうなのよ?」
則陽が世界の修正プログラミングに関わっている事とメインでもプログラムに関わる仕事に従事している事をツピエルは知っていて、則陽の事を自分の同業者とでも思っているみたいだ。
そんな事もあってか、ツピエルは則陽の事を勝手に気に入り、時折、則陽のゲーム機に出現したり、デスクトップコンピュータに出現したりしているのだ。
「俺のは…何となく自分が行っているのが修正だって分かったけれど、何処を修正しているのか、未だに検討がつかなくて…。」
「まあ、アタシのより単純でしょうけど。」
「まあ、きっとそうだよね。」
「あら、分かるの?」
「うん、そうだろうな、って思うよ。」
ツピエルは、自分の仕事がブロックをただはめ込む人員から、何から何まで自分で作成しなくてはいけない内容に変わった時に、してやられた、と思った。
望んだのは自分だが、今までよりも随分と工夫も要るし、色んな場所への移動も必要だ。
やりがいはあっても、格段に複雑になったツピエルの仕事は、彼をいつもキリキリと追い立てる。
話を聞いて貰うのは、則陽が初めてだ。
則陽は予期しない形で、自分の望む、自分の出来る形での優しさを知らず知らずの内に体現していた。
「すごいよな、自分のお茶やお茶菓子までも全部自作だなんてな。」
「そーなのよー!もうっ、それだけが楽しみでっ!」
まるで井戸端会議に乗ってくれた奥さんを捕まえるノリで、則陽に次から次と話をする。
則陽が今知りたい事からは脱線した話題ばかりだったが、ツピエルとの他愛の無い会話で夜は更けていった。
林の木漏れ日が二棟の家を明るく照らす。
玄関ドアの近くで、綺麗に梳いた髪を風に僅かに揺られながら、雨見は有津世を待っていた。
「おはよ。」
「おはよう。」
今朝も有津世と待ち合わせをして一緒に登校する。
雨見は自分の夢日記を読み返した感想を有津世に言い、有津世はそれを聞きながら、ふむふむ考える。そこで雨見が出した、面白い意見がこうだ。
「ぽわぽわってさ、リアルタイムで、あちらの世界とこっちの世界を行き来していると思う?」
もしそうだとしたら、ぽわぽわは私達が夢で見たり思い出したりの出来事を、そっくりそのまま見ているんだ、と言い、ぽわぽわに何かを託せる可能性もあるんじゃないか、という話だった。
ただ、ぽわぽわ自体が異次元の存在だったので、どうやって、何を託す事が出来るのかは、やはり皆目見当つかなかったから、その案も所詮は絵に描いた餅だ。
うんうん唸っている雨見を見て、有津世が、雨見、一生懸命だね、と言うと、勿論!との声が返って来た。
実現するには調査不足もしくは非現実的な案ばかりだけれど、それでも雨見の一生懸命さは有津世に伝わっていたし、その熱量たるや、すごかった。
有津世は雨見のそんな所を、心から尊敬していた。
心地良い風の吹く、カフェのテラス席の一角。
放課後、いつものカフェに来たなつと友喜は、いちごシェイクと抹茶ラテを変わらず頼んでいた。
吹く風を顔に浴びて、友喜は朗らかな明るい表情を見せながら言う。
「なっちん、私、作戦会議に戻ろうと思う。」
「うん。」
なつは友喜に笑顔で返す。
「ようやく大丈夫って思えたんだね、行っておいで。きっと友喜のお兄ちゃん達も待ってるよ!」
「ありがとう、なっちん。」
良いよ、ほら、行っておいで!となつが促す。
友喜は明日からのつもりだったが、そんな友喜を奮い立たせる様に、なつが、ほらほら、と立ち上がらせる。
「抹茶ラテはあたしが飲んどいてあげる!それと、たまには、付き合ってよね!」
彼女の強引ながらも思いやりの垣間見える言葉に、ほんのりと瞳を潤ませながらも、友喜はカフェを後にした。
目の前の通りへと通じているテラス席からの階段を一段ずつ下って行く友喜の背に、ほんの少しだけ哀愁を感じたけれど。
それでも、前に進もうとする友喜の勇気を称えたかった。
友喜、おめでとう…。
なつは遠目になっていく友喜を見つめながら、心から思った。
林の道。
そこに着くまで走りに走った。早く二人に会いたかったから。
林の道に、有津世と雨見、歩いている二人の制服姿が見える。
友喜の足音を聞いて、二人が同時に振り返った。
「友喜!」
「友喜ちゃん!」
二人は一瞬、目を見開き、たちまち笑顔になって。
「良かった!今日は三人で作戦会議出来るね!」
雨見が満面の笑みを友喜に見せた。
友喜は心の中で、ごめんね、今まで…、と、二人に謝っていた。
有津世と友喜は家に帰ると私服に着替え、お茶の用意を始める。
友喜はふんふん鼻歌を歌いながら、お茶菓子を探して。
有津世は笑いをこぼしながら友喜を眺め、ティーバッグを添えた三人分のマグカップにお湯を注いだ。
そうこうしている内に、雨見が、お邪魔しまーす、と有津世達の家にやって来た。
リビングのソファに三人腰掛け、紅茶を飲んだり、お菓子を食べたりして、まずは近況を話し合う。
雨見は有津世と話したぽわぽわの案について友喜に知らせたし、友喜は友喜で久し振りに不思議な夢を見た事を二人に話した。
まるで、ぽわぽわの始まりを見た様な、とても不思議で、それと同時に誰かの想いを感じ取った夢。
雨見は友喜の話を受けて、すぐさま自分の夢日記を見開いた。
人物像が描かれたページだ。
雨見が指し示したのはキャルユの似顔絵で額部分には装飾が施されている。
隣にはアミュラとツァームの似顔絵も描かれていたが、額の装飾を見比べるとそれぞれの形が異なっていた。
ツァームのは何やらでこぼこして描かれていて、アミュラのは菱形に近く、キャルユのは雫の形だ。
「雫の…形。」
誰とも無く呟く。
「雨見ちゃん、これは飾り?」
不思議な力を持った石だと夢を見た友喜は思ったから。
雨見に聞いた所、彼等の額にあるのも石で、あちらの世界の自分達にとって特別な働きを持っているとの事だ。
一種、知恵の様なものだと雨見は友喜に伝えた。
「知恵…。夢の中ではね、まるで魔法そのものだったよ。」
友喜が二人に言う。
「確かにそういう部分はあるよね。」
雨見が有津世に同意を求めて、有津世は、うん、そうかもね、と請け合った。額の石について、二人も何もかもが分かっている訳では無かったから。
キャルユの額の石と同じ形の石の結晶から漏れ出た光はとても幻想的だったと友喜は続けた。
その後、様々な推測を三人で話し合った。
雨見と有津世の二人が驚いたのが、友喜の言う、友人なつから出された推測だ。
「え…キャルユがもう居ない?」
「…うん。どっちかと言うと…、うん。」
友喜は追加で自分の考えを付け加えて雨見達に話した。
「キャルユが、ぽわぽわ?」
有津世と雨見が目を合わせて首を傾げ、友喜に向き直ると、それまたどうして?と、友喜に迫った。
友喜は二人に訳を説明した。
ひとつには、自分がぽわぽわとして存在している夢を見た事。
「それと…もうひとつは…。」
ひと息置いて、友喜は思い切って口火を切った。
「キャルユがツァームの事を、異性として愛していた事。」
話の途中から、雨見はそれと無く流れに気付いたが、有津世にとっては青天の霹靂だ。
「へ、あ…。そうなの?」
雨見は、ちらりと横目で有津世を見る。
友喜は二人の反応を目にしながらも気が引けそうな所を踏ん張って、言葉を繋げた。
「私は、友喜だけど、きっとキャルユとね、一体化してたの。キャルユの気持ちに引きずられてきた。だから分かるの。キャルユがツァームの事を忘れられないんだって。ぽわぽわがこちらの世界でお兄ちゃんの所に来るのは、それに関係してるんじゃないかって…、ちょっと思ったの。」
「…友喜は友喜がぽわぽわである夢を見た…、でもキャルユはあちらの世界でぽわぽわとはお互い別の存在で一緒に居て…、それは、どういう事なんだろう…?」
「そこは分からないけれど、でも多分一緒だよ。」
有津世が矛盾を指摘するも、友喜は漠然と答える。
ある意味爆弾発言を打ち明けてしまった訳だけど殊の外、落ち着いて居られる自分が居る。
友喜は今一度静かに深呼吸をして、二人の更なる反応を待った。
有津世と友喜のやり取りに真剣な表情で耳を傾けていた雨見が、申し訳無さそうに口を開いた。
「ごめんね、友喜ちゃん。私、多分…分かってたんだと思う。その、友喜ちゃんの有津世への態度が、…キャルユと全くと言って良い程、同じだったのを見て、私きっと、気付いてた…。」
ただ見守るしか出来なかったのを雨見は友喜に伝え、友喜は雨見の言葉を興味深く受け取った。
「…じゃあ雨見ちゃん、やっぱり雨見ちゃんは…アミュラはその事知ってたんだ。やっぱり、あちらの世界でのキャルユって…?」
雨見は頷きながら答える。
「そう。キャルユは、キャルユはツァームの事が、ものすごい好き。」
「やっぱり…、やっぱり、そうなんだ…。」
今までの自分の気持ちが腑に落ちて。
改めて、抱えていた気持ちが同化していた彼女のものだと感じた友喜は、自分の中でひとつ気持ちの整理が出来たと嬉しく思った。
有津世は依然驚いていて、情けない事に少々固まったままだ。
雨見は有津世をじろりと睨むと冗談か本気か分からない文句を言う。
「はっ?もしや乙女の敵!?」
きっとこの場を和ませる為の雨見なりの配慮で出た言葉で。
有津世は雨見の言葉を聞いた途端、自身の耳を疑って、はい?と返してきたが、友喜は笑ってくれた。
ほうっと息をついて、雨見は友喜に笑顔を向ける。
「じゃあさ、友喜ちゃんは、寝ている有津世の所に来るぽわぽわの夢も、これからまた見るかも知れないよね。」
雨見の予想に、友喜は、ああ、そっかあ、そうかも、と言い頷き、え~、それってプライバシーの侵害だよ~、やめろよ~!とソファの右端で有津世が騒ぎ、雨見と友喜が、しょうがないじゃんねえ?、うん!と呼応し掛け合った事で賑やか度が一気に増した。
一同ひとしきりに騒いでから落ち着いてひと息ついた、その時だった。
ブイーンとゲーム機が起動して、クリスタルが表示されているゲームのスタート画面がテレビに映る。
気付いた三人はテレビに注目した。
「なんでさ、今までさ、この中に入れなかったんだと思う?」
画面を見つめて、改めて有津世が二人に問いかける。
「奈巣野さんも入れてないって。」
「そうみたいだね。」
「奈巣野さんって、…ああ、ゲーム会社の人か。」
有津世達から則陽の事を教えて貰ったのを雨見が思い出した。
押してみる?せーの、の応援も込めた雨見と友喜の掛け声に合わせて、有津世がクリスタルにカーソルを合わせAボタンを押してみるも、クリスタルは今日も淡く光るだけで。
~エールが足りないのかな?
「エール?これにも、必要なの?」
「え?」
友喜の唐突な問いかけを耳にした有津世と雨見が驚いて友喜を振り返り見た。
「友喜ちゃん、エールって、今言ったよね?」
「え?私?」
「うん、友喜ちゃん、言ってたよ。」
友喜は雨見の指摘が全く腑に落ちないみたいだ。
それだけでは無く、何を言っているのか分からないとさえ見て取れる。
訝しんだ有津世は、友喜の様子をまじまじと眺める。
「友喜?」
「え?私何か言ってた?」
友喜は自身の発言さえ覚えていない様だ。
これには雨見も眉をひそめて、それでも丁寧に友喜に答えた。
「うん、友喜ちゃん、エールって、今言ったよ。}
「エール…って何?え、私、言って無いと思う、けど…。」
友喜はぽかんとして首を捻った。
飲み屋街の一角。
古びた狭い階段を地下二階くらいまで下りた所に存在するオフィスに、則陽は着いていた。
受付のロッカーでスマホやら財布やらをしまい入れると、ノートとペンとマニュアル本を手にしてコンピュータデスクの席に座る。
この所の則陽はエラーを吐く原因について興味を湧かせていた。
もし知れたのならばエラーを吐く前に阻止出来るので実害もより少なくなるのではと考えられるからだ。
則陽はノートを開いてペンを握ると、確かな目標を胸に、その日も作業を開始した。
私はぐんぐん飛んで行った。
美しい光の筋を目掛けて飛び込んでから、吸い込まれる感覚に身を浸しながら。
急に辺りがしんとしたのを感じる。
私はいつの間にか何処かに辿り着いていた。
辺りを見回したら、箱の様な空間だった。
小さな何かが飛んでいる。
目を凝らして見ると、飛んでいるのはほんの小さな鳥で。
黄色と朱色が神々しい程までに輝いている、だけれどものすごい小さなその鳥は、私から一片の欠片を預かると何処かへ飛んで行って消えてしまった。
私はひと周り、小さくなった。
今度は、花火の音がした。
周りの景色もいつの間にか変わっている。
見ると空からは黒いもやもやが次から次へと飛んできていて、それに応戦するかの様に下から誰かが花火みたいな光を何遍も何遍も、もやもやを目掛けて打ち上げていた。
成功もしていたし失敗もしていた風に見受けられる。
黒いもやもやの数があまりに多いから対応するにも対応し切れていない様子だ。
私は花火みたいな光を打ち上げる勢力に、私の一片の欠片を残した。
ここでもまたひと周り、私は小さくなった。
次に現れたのは薄水色の空間だ。
見慣れない男の人がそこには居て、私は相談に乗った。
話を聞く事くらいしか出来なかったけれど、話を聞いた印を私は空間にそっと浮かべた。
私はひと周り、また小さくなった。
場所が変わるのを繰り返す毎に、私は何かしらの印を残し、それに伴い私はどんどんと小さくなっていき、やがて、見えなくなった。
私は何処だか、自分が見えなくなった。
洞窟の中に、少女の姿があった。
ノリコだ。
ノリコは洞窟の奥で出会った少年の手を引いて帰路を急いでいたが、途中から少年を背中に背負ってさらに歩調を速めた。
少年の歩調に合わせていたら、おそらく逃げおおせられないからだ。
ノリコはとうとう走り始めた。
野生の獣が、命が懸かっている事を理解してそうする様に。
次の瞬間、誰かから銃口を向けられた事を後ろを振り返りもせずに野生の勘で捕らえる。
一発目、避けた。
二発目、これも辛うじて避けた。
三発目…、
危うく自分の背負った男の子に当てられる所を、何かが風の様に舞い、ノリコの体に乗り移る。
その瞬間、ノリコは目を閉じ、代わりに乗り移った存在が目を見開いた。
向かって来た銃弾を自身の魔法を込めた手のひらで握り潰して、すかさず男の子を背負い直し、ノリコの出していた速度よりもさらなる速さで走り抜ける。
その存在がノリコに乗り移った時から、男の子の臭い匂いよりも乗り移った存在の花の香りが勝り、臭い匂いを完全に打ち消していた。
無事に洞窟の入り口まで戻る事が出来ると、足の赴くままに移動をしてノリコの暮らす神社に辿り着いた。
神社の敷地の境目ではノリコの祖父が立ち尽くしており、遠くにノリコの姿を確認出来ると喜びと安堵の表情で彼女達を迎え入れた。
「おお、ノリコ、無事だったんですか…。」
ノリコの祖父は静かながらも嬉々として声を掛け、背に負ぶわれている男の子を受け取り抱き上げる。
「よくぞご無事で…。」
ノリコの祖父は、男の子にもいたわりと励ましの言葉をかけた。
ノリコの反応がいつもと違う事に祖父は気付いた。
「あなたは…あなたはノリコではないのですか…。」
ノリコに乗り移った存在は、無言で頷いた。
「ノリコは…無事なのですか?」
祖父の問いに、再度頷いた彼女は、ノリコを寝かしてくれと言ってきた。
この現象に因るもので、ノリコはその後しばらく眠るだろうけれど無事だから安心してくれと、続けて祖父に言った。
ノリコの祖父は言われた通りにノリコの部屋に布団を用意すると、その存在はノリコの祖父に、別れを告げた。起きてきた時にはもうノリコが戻っているから、自分はもう居ないとの説明を添えて。
その存在が横になって目を閉じると、ノリコの体から一瞬だけ風が舞い出て、濃厚な花の香りが部屋いっぱいに広がった。




