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翌日。美術室には彼女の姿があった。

「やあ。昨日はごめんな」

「いえ…。私こそすみません。先生に当たってしまって。先生には関係ないのに…」

〈関係ない〉という言葉は私の胸にちくりと刺さった。

「落ち着いたならよかった」

もちろん本意ではなかった。昨日のあの様子が私の脳内を駆け巡っていた。今日の彼女からは彼女には微かに黒が感じられたのだった。落ち着いてはいないのだろう。それから少し考えて昨日の言葉を繰り返した。

「悩みがあったら相談するんだぞ」

「はい。でも私の問題なので。お気遣いありがとうございます」

そういって彼女はカンバスに向き合った。


彼女はそれからしばらく筆を動かさず、ただカンバスの前に座っていた。カンバスはまだ真っ白だった。対照的に彼女からは黒の残り香が感じられるのだった。私は彼女に気をかけながらも、作品展に出す模範作品の制作に取り掛かった。芸術に手抜きはできない。芸術こそが私の拠り所であり、居場所だった。模範作品のイメージはすでに浮かんでいた。私は花を書くことにしていた。あの雨の日に一人力強く佇んでいたあの花を。一目見て感じた白く可憐なあの花のたくましさをカンバスの上に表現したかった。カンバスに筆を走らせる。

「カンバスに筆を入れる、その瞬間がたまらなく好きなんです」

彼女の言葉が蘇る。そして胸の中で静かに相槌を打ち、輪郭を描いていく。


一時間半ほど経っただろうか。時計を見るともう二時間経過していた。教室を見回す。どの生徒も熱心に作品制作に励んでいた。右端にいる太田の絵に目が留まった。正面からではないため正確にはわからないが、あれは自画像だろうか。カンバスの上にスマホを取り付け自分を写しながら描いている。もっと効率の良い方法があるだろう、と一笑に付した。ただか彼女の目は、テストの点数を公開したときのおちゃらけた雰囲気とは違う真剣そのものだった。絵描きはカンバスに向き合うと雰囲気を変える。そんな雰囲気を彼女は持ち合わせているように見えた。その隣の、蛭田空は風景画を描いているのだろうか。田んぼのようなものが描かれているように見えた。確か彼女は隣町の比較的田舎の地域に住んでいるんだっけ、などと作品の背景に思案を巡らせる。続いて目線を移すとその奥には未だ、真っ白いカンバスの前に座る彼女の姿があった。彼女の目はその真白いカンバスの中心を見つめ、微動だにしなかった。居た堪れなくなった私は、再び自分の絵に目線を戻した。作品はまだ完成には程多い状態であったが、イメージ通りのものができるそんな気がしていた。


そしてその日彼女は結局、カンバスに一筆入れることさえしなかった。


それから彼女は美術室に姿を表すものの、カンバスの前に座り一筆も入れない日々が続いた。日々私は、居た堪れなさを感じながらも作品作りに没頭するよう努めた。ただ、やはり彼女の中の蟠りが、筆の動きをも奪っているように思え、心配であった。


彼女がカンバスに筆を入れたのは一週間後のことだった。三週間後に迫る文化祭の準備も始まり、部活に顔を出さなくなる部員がちらほらと出始めたその日、彼女はいつものように教室の右奥の席に座り、カンバスと向きあった。ただその日の彼女は昨日までの彼女とは少し違っていた。荷術室に現れる彼女の表情は何かを決めた人間の表情であり、また彼女から感じられた黒の残り香も消えていた。初めて出会った日と同じ純白な雰囲気が彼女を包んでいた。彼女は席につくと、間髪入れずにカンバスに筆を走らせた。滑らかな筆の動きだった。するとたちまち彼女からは高揚感が感じられ、同時に彼女を包むベールが様々な色彩へと変わっていくように思えた。そしてやはり私にはあの日の言葉が思い出される。


「カンバスに筆を入れる、その瞬間がたまらなく好きなんです」


彼女の色彩は時間ともに褪せていき、しばらくすると元の白に戻って行った。彼女の白はカンバスに入れられた様々な色とコントラストを成し、その光景は有名画家の書いた風景画にも負けない美しさであった。

「この瞬間を絵に残したい」

頭に浮かんだこの熱量を私はカンバスにぶつけることにした。前日まで日々苦難しながら途中まで描いた花の絵を手に、私は美術準備室へと向かった。そして真新しいカンバスを手に席につくと、脳裏に焼き付いた光景を白いカンバスへと描写して行った。


彼女の筆はその日を境に勢いをつけいき、それに感化されるように私の筆も勢いを増していった。彼女がどのような作品を描いているか気がかりではあったが、今の彼女に干渉してはいけないような気がした。先日の〈関係ない〉という一言がどこかに引っかかり、ギアを入れることができなかった。ただ、いまはそれでもよかった。彼女がカンバスに向かい、筆を走らせている光景が私を安堵させ、私の筆も勢いを増していくのだった。


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