憧れの存在
こちらの作品では、乖離性人格障害を扱っていますが、差別的意図や揶揄するために執筆しているのではないことを初めに伝えておきます。
もしも、問題があるようでしたら、遠慮なくお伝えください。
個人的な事情でエターナルする可能性が出てきました。申し訳ございませんがご了承ください。
体育館で、バスケットボールをドリブルしながら敵陣に突っ込んでくる女性がいた。相手チームのディフェンスを巧みにかわしながら、ダンクシュートを決める。彼女の名前は、室谷唯歌。仕事が終わった後に、近くの体育館で球技をして汗を流している。それが彼女の日課だった。ただし一日おきのスケジュールになる。彼女は多層系と呼ばれる、日本では選ばれた人間でもある。
次の日、地下アイドルのライブにあしげく通う男性がいた。室谷霧透と名乗る男性は、顔つきは唯歌に、瓜二つだった。双子ではなく一人である。今日は男性として、自分より少し若い女性アイドルに声援を上げ、グッズを買い漁っている。片手にタンバリンを持ち、リズムをとっている。オタクっぽさが垣間見える趣味から、体育館でバスケに熱中している女性の姿を想像することは難しい。
20××年、相変わらず世界では、限られた余暇時間を多数の娯楽商品がパイの食い合いをしていて、相互に収益は減少していた。疲弊する娯楽情報産業のテコ入れになったのが、乖離性人格障害の、政府による推奨だった。「人格は統合すべきではなく、個々の違いを尊重すべき」との論調が政府主導で行き渡り、今まで治療すべき対象は、新たな消費の担い手として市民権を得た。彼らには、多少の手当てがつき、二重雇用までもが認められている。
唯歌も、多層系の一人だった。ランダムに人格が入れ替わり、それぞれの雇用主の元で、複数の異なった仕事をこなす。そして全く違う余暇を選ぶのだった。彼ら多層系の増加により、固定されるであろう趣味や
食事、ファッション、ライフスタイルの流動化が始まり、全く違う系統の業種にお金が支払われることになった。
人格を分かつ薬は盛んに開発されて、希望者に代金と引き換えに投与された。人工的な多層系が増え、国内の産業に一時的なカンフル剤的効果を持たすことになった。元からいた多層系の人たちは、一定期間、精神科に通って、人格の微調整を医師の指導下でとり行うことになっている。
唯歌は、小売業で日用雑貨を担当している。女性にしては、筋肉がついている体は、重量物の上げ下ろしに適している。今日はペットフードの売り場作りだ。犬の餌の缶詰が箱に詰まっていてずしりと重い。
「室谷さん、少し休みませんか」休憩室のコーヒーをおごるという条件で、アルバイトの小栗由美は休憩をねだった。
「しかたないな。ちょっとだけだよ」室谷は残りの商品を、売り場の棚側に寄せて通路を開けた。
唯歌はブラックのコーヒーをゆっくりと味合う。彼女はコーヒーはブラックと決めている。余計な糖分や脂肪を取りたくないのだ。対照的に由美は、甘いオレンジジュースを飲んでいた。氷をガジガジとかみ砕く音が頬越しに聞こえる。
「スーパーの仕事って疲れますね」由美が同意を求めるように話しかける。
「別に」唯歌はそっけなく答えた。彼女にとって、売り場づくりは軽い筋トレみたいなものだった。
「多層系って楽しいですか」由美は思い切って質問してみた。彼女自身、多層系のライフスタイルにあこがれがあったからだ。
「あなたが思っているより、いろいろと面倒だよ」いかにもやる気なさそうに彼女は答えた。
「例えばどんな風に」由美は興味津々の様だった。唯歌は時計に目をやり、休憩の終わりを告げた。
段ボールをカッターで切り、中の商品を傷つけないように開ける。空になった段ボール箱はひっくり返して、あんことして使う。多量の商品が詰まった箱を、軽々と積み上げて作業を終わらせた。後は発注作業が待っている。仕事が一段落すると、タイムカードを押して、近所の体育館に出かける。今日は、筋トレに集中してやろうと決め、トレーニングルームでダンベルを使用する。
ひとしきり汗を流すと、自宅に戻ってシャワーを浴びる。唯歌としての一日は終わったが、明日は誰の一日になるのだろうか。今までの経験から判断して、霧透の出番が来るのだろう。彼女は男物のスラックスとシャツを前面に出して、床に就いた。
ベッドの中で、今日のことを振り返る。唯歌の発症は、幼少時の不適応が原因だった。政府の功名な宣伝で多層系の発症は隠密にされて、今では触れることがタブーになっている。彼女が自分のルーツを探られて不機嫌になるのは、それが原因だった。ひどい目に遭っているのは自分ではない。彼女は自分を守るためにもう一人の人格を作った。そのことが今ではポジティブにとらえられ、盛んに喧伝されている。好きで選んだのではない精神状態。なかなか寝付けず、言いようのない不満が心をとらえて離さない。