プロローグ
――世界には、二つの人種が居る。
所謂、勝ち組と負け組というやつだ。
勝ち組は学生の頃、早い人は産まれたその瞬間から、その実力を発揮する。家が会社を経営している一流であれば跡取りとして育てられ、そうでなくとも、親が公務員であれば言わずもがな生活には苦労しないだろう。
私の家とは全く違う。
いや、平凡というのも一種の勝ち組なのかもしれない。
両親に借金があるわけでもなく、健康的に会社に勤めている父。家族の為に家事という業務を長年続けている母。そして、両親の期待を一身に背負って勉強を続ける息子。
……私以外は何の問題もない家庭だろう。
家族仲も悪くなく、月に一度は旅行に行き、外食もファミリーレストランではなくちょっとランクの高いレストラン。傍から見れば、何不自由の無い、平凡ではあるが幸せに満ちているであろう家族のあり方だ。
私はこんな生活に飽き飽きしていた。これが、私以外は何も問題がないと言っている所以である。
こうやって事情を羅列してみれば、私自身に原因があると思ってしまうだろう。だが、私の主張は傍から見れば、の話だ。中をよく見てみると全く意味が異なる。
例えば、母を例にあげてみよう。
早朝に起床し、旦那と子供達が起きてくる前に朝食の用意。それと同時にそれぞれの昼食である弁当三人分の準備を始める。
旦那と子供達が起床後は朝食を食べさせ、お弁当を持たせて会社もしくは学校へと送り出す。
その後、近所の奥様方と井戸端会議。一区切り付けば、家に戻り、洗濯、掃除その他諸々の家事を決められた自分ルールに沿って始め、時間が正午を回れば自分の昼食を簡単なもので済ます。
そして、午後の時間が始まる。
普通の専業主婦ならば、この後も家事に没頭し、気が付けば夕方になって子供達が帰ってくる頃になり、夕飯の準備に取り掛かる。そして旦那が帰宅し、夕飯の時間が始まり――となるのだが。私の母は違うのだ。
正直に言ってしまおう。私の母は、浮気をしている。重ねて、父も浮気をしている。――というところで、私はキーボード上を動き回る指を止めた。
「……無理だ」
これが自分の、今日初めて発した独り言だった。
昼下がりの平日の喫茶店。家にいても何も思い浮かばないと外に出てみたものの、やっぱり何も浮かばない。
休憩中なのかサボりなのか分からないが、スーツ姿のサラリーマンが煙草を吸おうとライターで火を点ける音。暇を持て余した主婦達の笑い声。学生なのかフリーターなのか、若い女性同士の愚痴り合いの声。新人なのか、カウンター内で何か失敗をして何度も謝る男性の声。
聞く人が聞けばネタの宝庫なのだろうが、私にとっては何も感じないものだった。
このままではいけない、と家から持ってきたノートパソコンに向き直る。が、キーボードを叩く指は止まっているままだ。
これが所謂スランプというものだとは理解をしている。しかし、世間に望まれているものに対して私自身が書きたいのはそんなものではないのだ。
だから書けない。何も思いつかない。
果たして、私がやりたかった事は現在の仕事なのか。そう思い詰めればどんどん負のループにハマっていき、気が付けば何も書けなくなっていく。
そういう時に限って、スマホの電源を切っておけば良かったと後悔するのだ。
一時期流行していた、テレビアニメのエンディングで使用されていた音楽が大きく店内に流れてしまった。
周りの客が話すのを止めて私の方を見てくる。とてつもなく恥ずかしい。このまま流し続けるのも、通話を拒否してスマホの電源を切ってしまうのも、どちらにしても後々面倒な事になるのは目に見えているので、周りに申し訳ない顔をしながら、私は観念して画面に表示されている通話の文字を押した。
「……もしも、」
「もしもしー? 理亜先生? どうですか、原稿の方」
「あー。はい、今、行き詰まってまして」
「勘弁して下さいよ。仮締切もうすぐですよ? 先生は集中すればチャッと書けるの知ってますけど、プロットくらい提出してくれないと困りますよー」
大げさに溜息をされ、電話越しなのにも関わらず相手を殴りたくなった。だったらお前が書いてみろよ、と。
電話越しの相手――松田大地は私の担当編集者で、出版業界勤続二年目の業界未経験新人だ。
その辺りは私と変わりないだろうが、新人が担当した新人作家の作品が当たると、やはりというかなんというか、とても天狗になって私に新作を書け書けと催促が激しくなってくる。
長年担当されていたりすれば関係性も築けているのでまぁ理解出来るのだが、私はお前の社内成績の為に書いているわけではない。
もう一度言うが、だったらお前が書け。
「今どんな感じです?」
「いや、えっと、触りもそんなに書けてないというか……何も思い付かないんです」
ええー! と、また大げさに反応される。
「先生の作品を楽しみにしてくれている方がたくさんいるんですよー? ほら、前作の続編とかどうですか? 十年後とかの設定で!」
「あの話はもう完結しているので……もう書く気は無いと言ったじゃないですか」
「でもでも! 好評だったわけですし!」
「いや、だから書く気は無いんです!!」
思わず、声を荒らげてしまった。周りの目が刺さる。
とりあえず、一息置いて、もう一度ちゃんと説明をする。でもでもだってと返答をされるのは分かっているが、どうしても書く気になれないのだから仕方がないのだ。本当に、書けないのだから。
「先生の言い分も分かりましたけどぉ。書いてくれないと僕も編集長から色々言われるんですからねぇ?」
「……はい、すみません」
それが本音だろう、という言葉は飲み込んだ。確かに、松田さんが締切を延ばしてくれていたりするのは事実だし、私もそれに甘えているのも事実だから。我慢だ、我慢。
「ネタとか其の辺に転がっていませんかねー?」
「無いですね」
「理亜先生の書く世界観は日常が主ですし、出掛けてみるのも良いんじゃないですか? スーパーとか、喫茶店とか!」
今正しくそうだ、とも言わず、そうですね、と聞き流す事にした。
「ともかく、桜井理亜の最新作、楽しみにしていますねっ。プロットとか触りだけでも出来たら連絡下さいねー」
「はい。お疲れ様です」
やっと通話が終わった。店内の喧騒は相変わらずで、客の各々が会話を楽しんでいる中、私は大きな息を吐いた。松田さんの間延びした、聞く人が聞いたら神経を逆撫でしてしまうだろう喋り方は、今の私には物凄く堪える。
桜井理亜――それが、私の名前。名前というのもまた少し違うが、世間ではそっちの名前の方が有名だ。
ネットで桜井理亜と調べると、日本の純文学作家と出てくるだろう。ヒット作は『天と地の狭間』とも。
それはそれでいい。その表記は間違っていない。でも、私は、純文学作家を目指していたわけではないのだ。その事を誰にも言えないでいる私が悪いのだから。
「……帰ろう」
誰にも聞かれない独り言。誰に言ったわけでもない独り言。この職業を選んで目指した時点で、私は一人になる事を決めた。
颯爽と帰る支度をして会計を済まし、喫茶店を出る。秋風が体を通って行き、薄着で来た事を後悔させてくれた。
今日は鍋にしようか。一人鍋とか最高じゃないか。一人である事に寂しさが無いと言えば嘘になってしまうが、実家に居る時よりも楽に感じる。
大学を卒業してからの八年間を一人で生きてきたからこそ、そう感じてしまうかもしれないが、やっぱり、うん。きゃっきゃと腕を組みながら歩くカップルを見ると一人でいいなぁと思えてしまうのは、私が枯れ女子と言われるからだろう。
枯れていてもいいのだ。きっと、いつか白馬の王子様が迎えに来てくれるのだ。……と、夢女子みたいな事を考えている間にスーパーを通り過ぎてしまった。
「もういいや」
鍋は今度にしよう。今度がいつになるかわからないけれど、予定は未定という素晴らしい言葉が日本にはあるじゃないか。予定を立てていなくても迷惑がかかるわけでもないのだし、一人者らしく自由に生きよう。うん、そうしよう。
三十路真っ盛りの彼氏ナシ、男性経験ほぼナシの作家。そんな私が純愛小説を書くなんて、この世も末だな。
「……あ、ちょっと、待てよ」
いいフレーズが浮かんだ気がする。パソコンは鞄の中なので、カーディガンのポケットに入れていたスマホを取り出し、アイデアを書き込む。
結局は、担当の言う通りだ。思いついてしまったら書きたいという衝動が、楽しさが、抑えられなくなってきてしまう。
今日の夕飯はもう要らない。家に帰ってすぐに作品を書こう。この、物語を創造している瞬間、私は創造神になったつもりで書き続けられる。――だからこそ、人生は面白い。私はカミサマなのだ。
「え――?」
そして、その神である私は、有頂天になってしまったが為に、光の中へと包まれてしまったのだった。
幾つもの甲高い音が耳を占領してきた。
先程まで私の靴底を受け止めてくれていたアスファルトは、私を抱き留めるわけでもなく、何度も冷たさと激痛を味わいながら跳ねて、転がって。優しさではなく苦痛を与えてきたのだ。
音が聞こえる。悲鳴、話し声、怒声、それらを感じながら、目を閉じた。
『あーあ。間違えちった』
妙に甲高い声だけが、耳に残った。
初めまして。処女作です。
何かとお見苦しい点もあるかと思いますが、勉強と努力しつつ頑張ります。
宜しくお願い致します。