第十一章『聖パトリック大隊』
1846年八月…
アメリカ陸軍のメキシコ派遣軍(第一軍)司令官はテイラー准将である。
史実では1848年、現職ポークの次の合衆国第十一代大統領になる人物だ。
国境を突破した彼の第一軍は順調な進撃をつづけ、北部メキシコの
要衝モンテレイ(前出のカリフォルニアのモンテレーとは違う都市)に
迫っていた。
モンテレイを占領すれば首都のメキシコシティまで大きな障害はない。
問題は補給だ…メキシコシティまでは国境からだと一千キロ近くある。
アメリカはイギリスについで鉄道の普及に熱心であり、1830年代から
路線を延ばしつづけている。いずれは東部と西部を結ぶ大陸横断鉄道も
敷かれることだろう。
だが、現状では万を越える遠征軍に物資を送るのは主としてメキシコ湾を
使う船舶であり、内陸に向けては馬匹である。
荒涼たるメキシコの大地を進むには常に物資の集積をにらみながらに
ならざるをえない。
メキシコシティに近い海岸都市ベラクルスの占領も計画されているが
戦争の長期化は指揮官として避けたいところである。
どこかでメキシコの野戦軍を捕捉して撃滅することで、いっきに降伏に
追い込みたいというのがテイラーのもくろみであった。
自軍の勝利を疑わないテイラーであったが、現在彼をいらだたせていることが
二つあった。
その一つは当面の担当地域ではないのだが、カリフォルニアの戦況が
伝わってこないこと…北米大陸西岸の完全占領はこの戦争の
重要な目的である。
『海軍は報告といった軍組織の基本的な要件もマスターしとらんのか!
まあ、現在編成中の第二軍が進攻すれば解決することだが』
兵力、約四千の第二軍はウール准将を司令官、カーニー大佐を
実戦指揮官としてニューメキシコからカリフォルニアに向かう
予定になっている。
『それはともかく、アイリッシュの脱走兵どもをなんとかしなくてはな…』
「アメリカからメキシコに寝返った兵士たちがいるのですか?」
独立愚連隊の指揮官たちは一様に驚いた顔を桑畑に向けた。
「皆さんにはちょっと信じられない話かも知れませんね」
「まさに…数百の単位で祖国を裏切る兵が出るとは信じたくも
ありませんよ」
「それは日本という国家が、ある意味幸せなぬるま湯の中に…
とくに宗教的な意味において…つかっているということなんです」
母親の腹の中にいるときに安産祈願で水天宮にいき、成長を祝い
あるいは新年の幸福を祈って神社に詣でる。
こう聞くとバリバリの神道の氏子で、この国に古来から土着の
八百万の神々を信仰してるわけだから何も不思議はない。
だが、春分と秋分には『お彼岸』と称して仏教の僧を招いて先祖の供養をしたり
寺院や墓地に詣でる…夏の盂蘭盆会も同様である。
死んだ日本人は大多数が仏式の葬儀で送られる。
そして二十世紀も終盤になると、かなりの数のカップルが信じてもいない
キリスト教の教会で神に『永遠の愛』を誓うのである。
「すると…その、反乱には宗教問題がからんでいるわけですか?」
「待遇などの問題も絡んでいるでしょうが、聖パトリック大隊…と称されることに
なる脱走兵たちにはドイツ系やスイス系も含まれていますが、大部分は
アイルランドの出身者です」
「アイル…ええと、イギリスの属国でしたか?」
「まあそんなものです。で、彼らはキリスト教でもカトリックを
信仰しています」
「旧教…ですな。世界史の『宗教改革』で習いましたが、イギリスは新教…
プロテスタントでしたか…を信仰してるんですよね」
「厳密には分派の『イギリス国教会』ですね。聖職者の最高位は
法王とかでなく国王が兼ねています」
国教会の中でも対立があり、迫害された方が1620年にメイフラワーという
船に乗ってアメリカ大陸に渡り植民地を開く。
「現在のアメリカ合衆国のもと…ということになります。アメリカの
支配者層はプロテスタントが主流なわけです」
「…カトリックの…アイルランド出身の兵たちは宗教的な反発で
脱走したということか。まあ、新旧のキリスト教の対立は一応の
歴史的知識は持っておるが、そこまで根深く強いものなのかね」
「異教徒…彼らにとってはイスラム教や仏教も憎むべき敵ですが、
内部の『異端』に対する憎悪も同様か、あるいはより大きなものが
あります。南フランスの『カタリ派』に対しておこなわれた
西方十字軍は酸鼻を極めたものでしたし、ドイツを舞台にした
『三十年戦争』はフランスやスウェーデンなども介入して
人口を三分の一にするほどの荒廃をもたらしました。
まあ、後者は発端はともかく後半になると宗教より政治的な
対立が主になりますが」
「で…そのパトリック大隊はどうなるのかね?」
「戦死したもの以外で捕えられたものは捕虜ではなく脱走兵として
処刑されます…負傷者もふくめてね。メキシコでは英雄として
語り伝えられることになりますが」
「ふうむ…われらとの関係はどうなるのかな」
「いまのところ直接にはありません。こちらの戦局がどこまで影響するか…
皆さんに知っておいて頂きたかったのは、アメリカもけっして一枚岩では
ないということ…特にこの時代では…です。わずかなひび割れであっても
将来のことを考えると少しでも大きくしておきたいとは思いますがね」
「アメリカの中の異分子を助ける…か」
「アメリカは新しい国、ヨーロッパ各国からの植民者がつくった…
いわば人口国家です。それだけに支配者層は国家への忠誠をより強く
求めますが、心の底ではそれに反発する国民の数も少なくはないでしょう」
「南北の対立もありますよね…『南北戦争』はたしか186…1年に
始まったと記憶していますが、いま…から十五年ほど先ですね」
「これからの歴史がどう変わっていくか予断を許しませんが、
アメリカ国内にも不安定な要素があるということはたしかです」
「アメリカがそれを乗り越えて真の強大国になってしまっては
もう手がつけられん…揺さぶるのなら今…か」
「失礼します! トント隊から報告が来ております」
偵察およびネイティブとの勧誘交渉のためにカリフォルニアの東隣、
アリゾナに派遣された分遣隊…騎兵一個中隊規模…はガイド兼通訳の
名を採って『トント隊』と呼ばれていた。
「おお、ごくろう秋山中尉。さっそく報告を聞こう」
「はっ、約四千のアメリカ軍がサンタフェに入城しております。
その一部、騎兵三百がカリフォルニアに向け進撃を開始しました」
「…桑畑くん、この敵に対する手当は?」
「秋山さん、敵の針路途上のネイティブの感触はどうでしたか」
「少なくともわれらに対する悪感情は感じられませんでしたが、
アメリカ軍に対してどう動くかは未知数です」
「…次の報告を待ちますか。三百の騎兵なら引きつけてから対処しても
大過ないでしょう。ああ、敵騎兵の指揮官はわかりませんか?」
「残念ながら…」
『カーニー大佐なら想定内だが…』
桑畑も緒戦以外は『歴史』の情報を必要以上に出すことはひかえている。
それはすでに変わり始めているのだから…
つづく