仲居さんはお風呂に入る
「ラームスちゃん、今日はお客様居ないから――ネクタルズは全員休暇だってさ」
ある日の事。
親友であり相棒である、この旅館のシェフの代名詞、イーリスが私に笑顔で、嬉しそうに言った。
そして私こと、ラームス・フォリウムは、準備を始めようとエプロンをかけていた手を止めて、硬直した状態のまま口だけ動かして呟いたのである。
「……マジで?」
「いやっほいやったぜ、VIP専用部署に就いてて良かったわ!」
「あの、ラームスさんうるさいです」
「あ、ごめんカンナちゃん」
私が自室でゴロゴロしながら喜びを叫んでいると、隣の部屋のカンナちゃんが障子越しに囁いてきた。いや、彼女は普通に喋ったのだろうが、声が小さいため私にとっては囁いたように聞こえたのである。
「久々の休暇で嬉しいのは分かりますけど……。
と言うかラームスさん、お風呂行かれないんですか?」
「……え、お風呂?」
お風呂。カンナちゃんは今確かにそう言った。
え、お風呂? お風呂、お風呂、お風呂――。
「……嫌だっ」
「何でですか変な臭いするかもしれないですよ。お料理に移ったら大変なんで、早々に洗った方がいいんじゃないですかね」
「えっっマジで私変な臭いする!?」
急いで自分の腕に顔を近づける。……うーん、ちょっとは、変な臭いが……いや無いわ。
「するかもしれない、です。と言うか何故頑なに拒むんですか?」
また障子の向こうから呆れたようなカンナちゃんの声が聞こえる。
その問いに対して私は、心底脅えるような声を出した。
「だ、だって、お風呂と言えば、アイツじゃん」
ああ、思い出すだけで腸が煮え繰り返るような感じがする。お風呂と言って脳裏に映るのは、銀髪と小生意気なつり目。
「……あー……ベトゥ――」
「その名を言うなぁ! せめて苗字!! ラストネームで!!」
「あ、すいません。えーと、アルバさんですか、まあ確かにあの人嫌な感じですからね」
「そうだよ!!ベ、……アイツ、所構わず私に悪戯してくるんだからさぁ……新人の頃はマジでアイツ酷かった」
思わずいつものノリでアイツの名前を言おうとしてしまう己の口を呪いたい。
名前も聞きたくないほど、私はアイツ――風呂係のアルバが嫌いだ。私がここに勤めて間もない頃も今も、変わらず私に意地の悪い事をしてくるクソガキ。
私が風呂に入りたくないのは、あのガキがこの旅館の温泉の管理を任されているからである。
「……でも、お風呂に入らないのは不潔だと思います。ただでさえ毎日お風呂でゆっくりする時間が無いんですよ、偶にはゆっくり疲れをとりましょう――といっても、ラームスさんにとってはお風呂はゆっくり出来ない場所なんですよね。アルバさんがいるから」
「そう。だから私は風呂に行きたくないっ」
「じゃ、一緒に行きましょうかお風呂。アルバさんは多分、ラームスさんが一人の時は普通に女湯を覗いてラームスさんに意地悪をしますけど、別の人がいたら覗くに覗けないんで意地悪もしないでしょう」
「文面じゃアイツ変態みたいだな」
私がカンナちゃんの提案に頷きながらツッコミを入れると、カンナちゃんは私の手を引いてお風呂へと連れ出そうとしていた。
「えっ、アルバさんって変態じゃなかったんですか? ……まあどうでもいいですね、早く行きましょうか」
「カンナちゃんも実はアイツの事嫌いだったりする……? いやまあ、カンナちゃんが一緒ならいいか、お風呂お風呂~」
そんな感じでカンナちゃんとガールズトークをしながらお風呂場へ足を運んだ。
周囲を見渡してみる――が、幸い、あの銀髪は見当たらなかった。
「おお……アルバのやつが上から水をかけてこない。カンナちゃん凄いや、本当にあれ対策出来てる」
「ここ脱衣所なんですけど。あの人ガチでストーカーみたいなもんじゃないですか」
「カンナさん!!」
ちなみに今のは私ではない。聞き覚えのある声だ。いやまあ旅館の従業員は大体知り合いだけど。
「リコちゃんじゃない、どうしたの? もしかしてお風呂今掃除中?」
「あ、ラームス姐さん。ちわっす! いやお風呂はもう準備万端っすよ、今から入るところでしたか?」
「はい、ラームスさんひとりだと、ベ……アルバさんにイタズラされるので、対策にとわたしと共に。リコリスさんは、どんなご用件で? 先ほど私の名前を叫んでいたような気がしなくもないのですが」
走ってきた様子で、ぜーはーと肩で息をしているリコちゃんことリコリス・ラジアータちゃん。女湯の管理係で、アホ。この子の目を掻い潜ってあのバカはいたずらを仕掛けてくるのだ。
「い、いやあ……それならちょっと申し訳ないっす。カンナさんに呼び出しがかかっていまして……」
「えっ? 上からですか?」
「いや、同じネクタルズの男の子っす。赤毛の……ええっと、名前なんでしたっけ」
「クエルクス?」
「そう、それっす! そのクエくんがカンナさんを呼んでるんすよ!」
「……告白かなんかじゃね」
「まさか。あのガキに限ってそんなことするはず無いじゃないですか。やるなら大衆の面前でどどんとやりますよアイツは」