現代において小説を書く際の思想的問題点
小説というのはとにかく難しいと感じている。ハワード・ホークスさんのブログをずっと読んでいるが、あまりにも色々の事を考えさせられた。
小説というのは当たり前だが、言語表現だ。言語しか使わない。これは当たり前の事だが、人は小説について語る時、物語や登場人物について語る。しかしそれは、映像表現でも達成できる事ではないか。いや、映像表現の方がより如実に表せるのではないか。言語表現に特化した文学というスタイル…それを時代に遅れたものとみなすのは簡単だ。これはあまりにも平板な考え方をする人間がいつもやってきた事だ。しかし、映像表現が、表現というジャンルで王様のポジションにいるからこそ、小説というものは何ができるか考えなくてはならないのではないか。
映像と小説を比べた時にすぐに目につくのは「描写」である。簡単に考えると描写は映像の方が圧倒的に強い。例えば、花瓶の赤が鮮やかな色をしているという事実を描く時、このように言葉で伝えても、どんな赤かはついに見えてこない。見えてくるのは言葉のイメージとしての「赤」であって視覚的な「赤」ではない。一方、映像は一発で「赤」を鮮明に描き出してしまう。
こんな分析をしていてもきりがないので、大雑把に考える。例えば、詩より小説の方がポピュラーなのは、それが僕らの日常感覚に近いからだ。普通の会話は、詩のような言語表現をしない。しかし、小説よりも映像の方がより日常感覚に近い。僕達は音を聴き、物を見て、会話をして過ごしている。映像には全て入っている。
映像表現とはそのように、僕らの感覚に近い。だからこそ、小説よりもより一般の人に好まれる。言葉の世界に入っていくには、一度、脳の中で迂回路を辿らなくてはならない。その迂回路が面倒だからこそ、映像の方がより好まれる。では、現在、言葉による芸術表現はどうすればよいのだろうか。
ハワード・ホークスさんのブログから、ヒュームの知覚の束説から、プルーストに至る回路というのを教えてもらった。これはおそらく、ドストエフスキーなんかも絡んでくる。自分はドストエフスキーくらいしか知らないので、ドストエフスキーについて考えよう。ちなみに、ドストエフスキーの小説を映画化しても、小説に匹敵する作品になる可能性はほとんど考えられない。では、どうして「考えられない」のだろう?
「罪と罰」で、ラスコーリニコフがレストランかどこかに入って食事するシーンがあったと思う。しかし、ドストエフスキーは現代的にこれを描き出す。普通であれば、ラスコーリニコフがいるレストランの描写、彼の身なり、彼の思考などが一つの世界観として言語的に映しだされるだろう。ここではいわゆる自然主義的な小説観をイメージしている。一方、ドストエフスキーはこれとは違い、ラスコーリニコフの内面、特にイデーを描き出す。すると、このイデーの部分の描写がどんどんと膨らみ、外界のレストランなどは消えてしまう。ラスコーリニコフの内面が世界そのものを歪ませている事が、冷静なはずの三人称の視点からも明らかにされてしまう。
自分はまどか☆マギカの分析でもこれに近い事を言った。まどか達が活躍するのは「裏」の世界であり、表の穏やかな日常世界ではない。そしてこの裏と表の世界は一つの世界として重ねあわせている。
まどか☆マギカやペルソナ4という作品は優れた作品だが、しかしそれがどこかしら通俗的な作品になってしまうのは一つにはこういうフィクション性があるためではないか?ーーとも自分は考えている。しかし、それはドストエフスキーと比べた場合の話ではある。何が言いたいかと言うと、まどか☆マギカにおいてはわかりやすい具現化された二つの世界であったものが、ドストエフスキーにおいては、リアリズムの線をたどった、想像性を飛躍させる事なく、それを具体的、現実のものとして現している。ドストエフスキーの小説は一見空想的であるが、むしろ自然主義よりもはるかに現実的だ。この矛盾が成り立つのはドストエフスキーの現実への洞察方法が強すぎる為に、通常の我々の感じ方、見方をはるかに飛び越えてこの世界を二重化してしまっているためだ。そしてこの二重化から「現代」は始まったーーー。僕はとりあえずそんな風に考えている。
では、こうした問題をどうして現在に引っ張ってくればいいのか。まず、自分として考えている事は、『人間とは内面に流れる言語そのもの』だという認識ーーそれが先立つという事だ。人間は現在においては一つのイデーとなった。自らの幻想に取り込まれたドンキホーテとなった。人間のうちにながれる言語というのは小説作品では、内面的独白、イデーの描写となってくる。おそらく我々は過去の、部屋や自然を描写する変わりに、人間の内面的言語を描写する事が求められている。これは、人間にとって、精神そのものが物質となった事を意味している。物質となった精神を描写する事、かつてのように、生活している実態としての人間とその人間の内面とがずれている事を認識し、そのズレから逃げ出さない事ーーこの事がまず第一に大切だ、と考えたい。
しかしそれでは話は収まらない。特に、今のネット社会に顕著な事だが、現代では世界と個人は完全に直結している。自分一個の身に起こった事を、ネットを通じて世界に発信できるという事は、逆もまた然りという事を意味する。つまり、個人は常に世界に見られ、監視されている。個人は世界と直結し、大衆幻想と一致し、世界を構成するが、同時に卑小な個人は世界に押し潰される存在である。私は極小の点であると共に極大の世界そのものだ。この矛盾を現実に受け入れなければならないのが現在の個人だ。
その個人においては、かつての友情とか恋愛とかはまるで二義的なものに感じられる。これは現代の作家がほとんど見ないふりをしていると思う。現代の作家はこの事に見ないふりをするから、そういう描写ができていると思う。どういう事かと言えば、友情や恋愛というのも、それは世界の幻想に吸収されるか、個人の愉悦や嫉妬に吸収されるかになってしまったからだ。例えば、僕に彼女がいるとして、それは「僕には彼女がいますよ」という世界に対する明言、発信の言葉の中に吸い込まれてしまう。ここではまるで、相手の人と付き合っているのではなく、「彼女」という抽象体と付き合っているかのようだ。この問題を小説的に解いた人間はいないのではないかと思う。(村上春樹の主人公と恋人の描写の仕方に、若干そういう問題で出ているかもしれない。「相手」が問題ではなく、優しく触れ合える「異性」が問題であるーーーしかし、それは「その人」でなくても良い。「その人」と「恋人」というポジションのズレを村上春樹は微妙な形で描けている)
今、「コンビニ人間」という芥川賞小説が「面白い」という評判らしい。本屋でパラパラ見たが、(ああ、こういう感じか)と思って、それ以上興味は湧かなかった。問題はおそらく、そもそもの描写の方法にあると自分は考えている。「コンビニ人間」はちゃんと読んでいないので文学一般の話にすると、例えばああした小説、また、朝井リョウの「何者」とかは、そもそも僕達がコンビニをしっているとか、就職活動をよく知ってるとか、した事があるとかいう事実にもとづいている。例えば、これをずらして、夫婦間の葛藤を描いた小説、にしても同じ事だ。世界にはそういう事実があり、そういうものを描く価値がある。しかし僕は既に人間は変質していると考えている。一番厄介な事はここだーーーつまり、僕は一人の人間をミクロコスモスだと考えている。だから、「コンビニでバイトする最近の人」を描写するにしても、そこに宇宙全体が反映されていなければならない。何故なら、もはや世界と個人はダイレクトに直結するものとなったから。
しかし、こんな事を言うと、それを「テーマ」として「描写」として扱えばいいと考える人間が出てくるが僕はそんな事は全く問題としていない。そんな風に物を見ている観点それ自体が現在を映し出せない構造的な欠陥があって、その欠陥は、テーマ、主題、登場人物、物語をいじくる事では解決できない。問題は語られた内容ではなく、そもそもそれを語る起点にある。
さて、ではこういう問題をお前はいかにして解くのか? …その問題に対する解決法を自分は持っていない。今小説を書いているのだが、これらの問題が処理されなければならない、とは考えている。ただそれが解決されるかはわからない。今の所は問題を提出するだけでこの論は閉じたい。