憐れな男
気がつくと、見渡す限りの草原と、空に浮かぶ星や月が彼を迎えてくれていた。
彼は草原に横たわって空をぼうっと眺めている。
寝ぼけているのだろう。
たいして驚きもせず、寝ぼけ眼で周囲を見渡す。
ここはどこだろうか。
視界には赤みがかった三日月と青みがかった満月がそれぞれ浮いている。
何故だか二つの月があるのだ。
こんな不思議な夜空があるだろうか。
ここは日本じゃないどころではないだろう。
少なくとも月が二つも見えることなんて俺の知っている限り無いはずだ。
月食とか日食とか、消えることはあっても増えることは無かったはずだ。多分。
俺はプラネタリウムにでも来たのだったろうか。
月達を見上げてしばらく、自分がなにをしていたのか思い出す。
眉間にしわを寄せ、無い頭を振り絞って現状の把握に努める。
ああ、そうだ。
記憶の最後は電車に乗り込む瞬間だったはずだ。
スマホゲーに夢中で邪魔になっていたところをおっさんに押されて、電車から飛び出した。
そのまま電車に戻ろうとして...。
そこで記憶は途切れている。
どういうことだろうか。
あのサラリーマン風のおっさんの顔だってしっかり覚えているし、潜っていたクエストだって覚えている。
だけど、その後のことはいくら思い出そうとしても思い出せない。
俺はあそこから急に月が二つもある、無駄に開放感のあるプラネタリウムに行こうと思うだろうか。
そもそもそんなプラネタリウムあるのだろうか。
手に感じる草と土の感覚は本物だ。
こんな開放的なプラネタリウムを私は知らない。
彼は一人称が私になっているのに気づかないくらいには混乱していた。
しかし、どれだけ考えたところで状況は変わってくれない。
こんな無茶苦茶な展開、夢じゃないとすればまず起こりえないだろう。
そしてこれは夢ではない。
次第に彼は状況を受け入れ始め、瞳に光を宿し始める。
これはあれではないだろうか。いや、きっとそうだろう。
こんな壮大なドッキリを仕掛けてくれる友達など彼にはいなかった。
彼の心臓は少しずつ鼓動を速め、体温が上昇する。
彼には夢があった。
いや、夢と言っていいのかどうかも怪しい願望だったが。
退屈で、脇役を押し付けられたみたいな、大嫌いな世界から抜け出して、剣と魔法のファンタジックな世界に行って、自分のやりたいように生きたい。
彼はそんな妄想では何故か絶対的に強かったり、元の世界の知識を披露して億万長者になっていたりした。
あぁ、やっとか、やっと俺が主役の物語が始まる。
そうと決まったらやることはたくさんある。
まず彼は、自分の格好を確認する。
確かに記憶にある姿だった。服も鞄もスマホもそのままに体に異常も見られない。
何の変化もなかった。
彼は少しだけ落胆する。
イケメンにはなれなかったか。
まあいいだろう。
何が変わったのだろうか確かにするべく、彼はヘンテコな行動を開始する。
ジャンプしたり手を翳したり、地面を殴ったり手を合わせたりと、考え付く限りの動きを実践する様はとても不憫である。
次第に綺麗だった草原は、彼の周りだけ土が掘り返されたり、草が折れ曲がったりと、変貌を遂げていった。
「ステータスオープン!!!」
彼の声は、広い草原と空に虚しく響きわたる。
もはや涙目である。
ここまでくると彼はことの重大さに気づき始める。
あれ、おかしいぞ。
そんなことを呟きながら、さっきまでの勝ち誇ったような、希望に満ち溢れた表情とは打って変わって、冷たく固まっていく。
ギギギ、と音がするのではないかという具合に表情も体も硬直させて頭を抱える。
妄想の中の彼は無類の強さを誇っていたのだ。それだから彼はウキウキで謎の儀式を行っていたのだがその代償は重すぎたようである。
彼の顔から血の気が引いていく。
「あぁ、死にたい」
彼の口癖は異世界に来たからといって治るわけではなかったらしい。
耳から外したイヤホンからは、シャカシャカと音漏れが存在を主張していた。