おわりに
今、僕は語ろうと思う。
もちろん問題は何ひとつ解決してはいないし、語り終えた時点でもあるいは事態は全く同じということになるかもしれない。結局のところ、文章を書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みにすぎないからだ。
ぶっちゃけ、もう書くことなんてなかったりする。
これは徹頭徹尾、俺が物語を作りあげるために戦った記録であるし、その記録を趣味でこのサイトに載せたに過ぎない。
大塚英志さんは、『ストーリーメーカー』を読むのではなく、使う本だと言っている。
けど、意外とレビューサイトを巡ってみたが、実際に『ストーリーメーカー』をやってみた、
というサイトを俺には発見することができなかった。
なので、今回『ストーリーメーカー』は本当に、物語を作り出せる本なのか、
衆愚に惑わされず、空気に飲まれず、システムに縛られず、己を確立できる試みの実践となる本なのか試してやろう、という非常に上から目線で始めたのが今回の経緯だったりする。
使ってみた感想としては、正直、想像してたよりもずっとよかった。
流石、大学の講師なども経験ある大塚英志先生、
欲しい問いが順序良く来て、自然と物語が構築されていくのを見て、すげー感動した。
時々、余計な質問があったり、最後のQ28とQ29だけやたら回答量が多いことを除けば、
非常に優れた物語作成指南書だと思う。
ただ、注意するとしたら、
この『ストーリーメーカー』。最初から最後まで通しでやるのが肝要で、一部分だけを抜粋して行うのは(慣れれば良いだろうが)あまり推奨されないと思う。
最初に決めた、自分の頭のなかにある漠然とした物語が、最後に明確な構造を持って、自分の前に現れるってのは、なかなかの快感だ。
物語を生み出すことが、自分を見つけることに通じるという意味が、ようやく分かってきた気がする。
さて、そろそろオシマイにしよう。
今回考えたお話は、何かを形で肉付けを行い、書くかもしれないし、書かないかもしれない。
それはまあ置いておいて、最近新しい小説について考えている。
まったく新しい形の小説。
もちろん、このあらゆる事象が相対化できてしてしまうご時世に、「全く新しい」とか「絶対に」なんて言葉は意味を成さなくなってきているかもしれない。
「横から失礼します。新しいといいましたが、1980年代のロシア文学に○○という作品がありましてね」
「こういう例もありますから、絶対とは言い切れないんじゃないでしょうか?」
それぞれが自分のフィルター越しの知識を披露して攻撃を行う。
それはまあ、仕方のない事だ。誰だって自慢はしたいし、優越感は持ちたい。俺だって似たような事をやることはよくある。
ただ、意識すべきは、何かを成す時、周りの意見は(時と場合によっては)聞いちゃいけないという真理を忘れちゃいけないことだ。
集団で何かをやる時、大事なのは全員の意見を反映させることではなく、
自分が大事だと思ったアイディアだけを接収し、周囲に折り合いをつけて、自分勝手にやることである。
これは、集団作業を進める上でのコツだと多分、俺以外の人間も、そうした集団作業に従事したことあるのであれば理解できることじゃないだろうか。
今、世界は集団で生きている。
あらゆる作品は、いや、あらゆる人間は、無数の人間に囲まれながら生きている。
君がもし、囲まれず孤独に生きていたとしても、同類はたくさんいる。
寂しく冷たい場所は十年前より、二十年前より減っている。
それは幸福であるが、同時に自分という「個」を失わせる結果にもなる。
俺たちはまるで昔のSF小説のような全体社会を無意識的に形成しようとしている。
だからこそ、俺は、皆と一緒でいたいけど、同時にちゃんとした一人の人間でありたい。
そう思ってる。
そして、新しい小説を書きたいと思っている。
何とも違う。これまでとは違う。孤独ではないけど、孤独さを残した、そんな変で、でも全力で面白い小説たちができつつある予感がする。
まだうまく纏められていない。
でも、どうにかできそうな気がするんだ。
さて、そろそろこの小説も終わりにしよう。
ここまで読んでくれた君。ありがとう。
ぜひとも俺が新しい小説を書けたのなら、読んでくれたらとても嬉しいと思う。
その時、俺の書いた小説は世界に解き放たれ、俺は一人の人間としてこの世を生きるだろう。
それでも僕はこんなふうにも考えてる。うまくいけばずっと先に、何年か何十年か先に、救済された自分を発見することができるかもしれない、と。そしてその時、象は平原に還り僕はより美しい言葉で世界を語り始めるだろう。
村上春樹『風の歌を聴け』より抜粋