忘れたくない過去
「げっふ……!」
目を覚ますと、ぼくの唇から精気を吸っていたエネマラが、げっぷをしてぼくから離れた。
「もう、だめ……! 腹一杯で、これ以上、しんたんから精気を吸えないわぁ……!」
ふらふらとした足取りでぼくから離れて、エネマラが倒れ込んだ。
「ど、どんだけ精気を蓄えてるのよぉ……!? こんなの、吸いきれないわよぉ……!!」
エネマラの身体は、ぱんぱんになるまで空気を送った風船のようになっていた。カザリンガの男たちを魅了したサキュバスのナイスバディは見る影もない。
「オーノー……」
「おにいちゃん……」
離れたところから、ミリヤと、目を覚ましたカトルが言った。
「貴様、こんな過去があったのか?」
「み、見えたのか?」
「サキュバスに吸われていたおにいちゃんの精気が漏れて、ぼくの魔法の鏡に映ったんだよ。ここへ他人を入れたのは初めてだから、こうなるなんてぼくも知らなかった」
ぼくは、今も無数の鏡に映ったままの、過去の自分を見ながら言った。
「……カザリンガに召喚されてから、ずっと忘れたいと思ってた」
ぼくは無数の鏡に映る自分自身に言った。
「でも、忘れることなんてできない」
すると、無数の鏡の中から、無数のぼくが出てきた。
長いひきこもり生活で、伸びっぱなしになったぼさぼさの髪に、粉を吹いたような汚い肌、薄汚れた寝間着のスエットの上下を着ていて、目はゾンビみたいに死んでいる。
「辛かったな、おまえら」
ぼくは心から慰めるように、ぼく自身に言った。
「でも、明里はもっと辛かった。ぼくが明里を守りたいって気持ちに押しつぶされて自己嫌悪している間じゅう、明里はもっと辛かったんだ」
ぼくの言葉を聞いたぼく自身が、はっと目覚めたような目をあげた。死んだ目に強い精気が宿って、ぼく自身を見つめ返す。
「だめでいいんだ。ひきこもって、よかったんだよ。あんなに苦しかったのは、ここから出たいって気持ちの裏返しなんだから。それに気付くために、ひきこもるんだ」
ぼくはぼく自身を抱き締めるように、両手を広げた。
「こっちへおいで。ぼくはおまえらを受け入れて、もう一度やり直したい」
そう言うと、無数の鏡から出てきたぼく達が、光の粒に変わって両腕を広げるぼくに飛び込んできた。
ぼくの胸の中に、ひきこもりのぼくが吸い込まれていく。
それきり、カトルの魔法でできた鏡には、何も映らなかった。
「ミリヤ、カトル」
ぼくが呼びかけると、ミリヤとカトルが無言でやってきた。
横一列に並んだミリヤとカトルを挟み込むように、二人の肩を抱いてやる。
すると、ぼくらを囲む無数の鏡に、ミリヤとカトルの姿が映りこんだ。
そこに映ったのは、みっともないくらいすすけた、ひきこもりと化した二人の姿だった。
ミリヤは、以前お屋敷で見たぼさぼさの長い髪に、そばかすだらけの肌、うらみがましいキツネ目をつり上げた、立派な干物女子。
カトルは、姿見のクリスタルに封印されていた美形の天才騎士とはぜんぜんちがう、背丈も体格もちんちくりんで、ひどく青白い顔色に、目元の隠れた長い前髪を垂らした、気弱そうな男の子だった。
「これが、ミリヤとカトルがずっと隠していた姿なんだな」
ぼくが言うと、二人は見たくないものを見るように顔を背けた。
「見ろよ」
ぼくは二人の肩に手を置いて言った。
「こいつらは、ずっとミリヤとカトルに見てほしかったんだ。わかってたはずだ。だから、変身の魔法や鏡の魔法で違う自分でいる間、ずっと心のどこかが苦しかったんだ。おまえらは、こいつらのことを消したいだなんて考えてない。嫌ったり憎んでいたかもしれないけど、それは自分自身を好きになりたい気持ちの裏返しなんだから」
ミリヤとカトルが、はっとはっと目覚めたような目をあげた。
弱気そうだった目に強い精気を宿して、鏡から出てきた自分自身を見つめ返す。
「両手を広げて」
ぼくが言うと、ミリヤとカトルが両手を広げた。
鏡の魔法で出てきたカトルとミリヤが、光の粒に分解して、二人の胸に飛び込んだ。
数え切れない光の粒が渦になり、竜巻のような風が、カトルの鏡の魔法でできた空間に捲きおこった。
目が眩みそうな白い光が、ぼく、ミリヤ、カトル、そして倒れていたエネマラを塗りつぶした。
ぼくは、ミリヤとカトルを胸の中に抱きすくめて、目をつぶった。
どれくらい目をつぶっていたんだろう。
きつく閉じたまぶたの上から照らす光がようやくおさまったころだった。
「しんたろ様ぁ!」
「しンたろ様!」
カリナと、ココの声が聞こえて、ぼくは目を開いた。
そこはカトルの部屋で、ミリヤとカトルを抱きすくめたぼくの前に、カリナとココがいた。ガラス瓶に入ったカリナを、ココが手に持っていてくれた。
「やりましたねぇ、しんたろ様ぁ!」
「こっち側から全部見ていたッス!」
激励するように、カリナとココが目に涙を浮かべながら言ったその後ろに、カトルの鏡の魔法の空間の出入り口である、姿見の鏡があった。
見ると、その鏡に映っているのは、まぎれもないぼくたちの姿だった。
ひきこもりの世界にいたのと同じ、みっともないくらいすすけた顔をした、ぼく、ミリヤ、カトルが映っている。
でも、その姿はどこか愛らしくて、よく見るといい顔に見えた。
「カトル、その姿、私は好きだ」
「ぼくも、ミリヤちゃんのその姿、かわいいと思う」
鏡に映ったお互いの顔を指差しながら、ミリヤとカトルが照れたように笑った。