忘れたい過去 1
「しんくん待って! しんくん待って!」
高校の廊下を歩いてたら、泣きそうな明里の声と、パテパテと情けない足音が背後からやってくる。
「なにやってんだ明里。早く来ないと置いてくぞ」
仕方なく立ち止まって振り返ったぼくのところに、ひぃひぃと息切れをする明里がやっと追いついてきた。同じ教室からやってきたというのになんでこんなに息切れをしているんだか。
「うぅ、だって仕方ないじゃん。しんくん、明里より十五センチも背が高いんだよぉ?」
「十八センチだ。おまえの身長は小六のときから変わってないだろ」
「か、変わってるもん! 一年ごとに一ミリずつ伸びてるんだから! そのうち本当に十五センチ差になって、そしたらしんくんを追い越すからね!!」
「はいはい。これから見にいくテストの順位も、そうだったらいいな」
「うぅ~! しんくんのいじわる!! ……あ」
「よしよし」
「あ、頭撫でて誤魔化さないでよぅ」
こんな感じで、明里をいじって頭を撫でるやりとりが、家が隣同士で、幼稚園から同じクラスだった、ぼくと明里の日常だった。
明里の頭を撫でながら職員室前にやってきた。
貼り出されたテスト順位の前には、人だかりができている。
離れたところから見てみると、ぼくは学年一位で、明里は百八十位だった。
「テスト順位は身長の十倍の開きができたな」
「うるさい!!」
そんなやりとりをしていると、周りに集まった生徒たちが、いやみったらしい目でこっちを見ながら囁き合っている。
「小野真太朗だ」
「ふん。一年生で生徒会の書記になったのは伊達じゃねーってか」
「あいつ、スポーツテストでも三年生押しのけて上位なんだぜ」
「うわ。絵に描いたような優等生」
そんな声のあとに、必ずセットでくるもうひとつの声。
「それに比べて穂波明里は……」
「幼なじみだっていうのに、どうしてこうも違うかな」
「あの子、スポーツテストでは全部の成績が0点だったんだよ」
「逆にすごくね? 何もかも真逆なだけに」
「なんで小野は、あんな劣等生と仲良くするんだか」
こんな無神経な囁きをするやつらと同じ空気を吸いたくなくて、ぼくは明里の手を引いて職員室を離れた。
人気のない廊下に出たところで、明里に言う。
「もう一緒にテスト順位を見にいくのやめようぜ?」
「どうして? すごいじゃない! だってしんくん、一位だよ?」
「おまえは毎回最下位じゃないかよ! ……周りのやつらにあんなこと言われるの辛くないか?」
「辛くないよ。だってしんくんが成績いいと、明里もうれしいもん」
「……なんでそんなにお人好しなんだよ」
「でしょでしょ? おかげで、しんくんに勉強教えてもらえるんだもん。明里はお人好しならしんくんを抜いてぶっちぎりの一位だよ?」
「褒められたことじゃないっつーの!!」
真面目に怒ったつもりだったのだけど、明里は「へへ……」と嬉しそうに笑うので、ぼくはその笑顔に負けてまた明里の頭を撫でてしまう。幼稚園の頃からの、ぼくらの習慣。明里の額が広めなのは、絶対、頭を撫ですぎたせいだと思う。いつも周囲の引き合いにさせてしまっているばかりか、女の子をハゲさせてしまったかと思うと、何があってもこいつを見捨てられない。
「なあ、明里。おれにくっついて、こんな進学校に入学して大変だと思うけど、おれは絶対おまえを卒業させてやるからな」
「うん。わかってる。明里もそのつもりで勉強してないし」
「勉強しろよ! せめて最下位は脱出できるくらいに!!」
「えぇ~~」
そんなやりとりをしていると、制服のポケットに入れてあった携帯が振動した。取り出すと、液晶には「生徒会長」の表示。
さっきまで和んでいた心臓が一瞬でフリージングして、慌てて電話に出た。
「お疲れ様です会長」
『お疲れ様じゃない。いま何時だと思ってる。今日の地区学年総会を忘れたのか』
「総会が始まるまで、あと一時間ありますけど」
『おまえはいつからそんなに仕事ができるようになった。今日の総会には、進行を努めるうちの生徒会の威信がかかってるんだぞ。おまえ、うちらの仕事にぜんぜんついていけてないだろう』
「いや、それは……」
『今すぐ資料の確認と、議事の進行の仕方を復習しろ。それと、二度と先輩に口答えするな。これはうちの生徒会の鉄則だ』
「……」
『いまの「……」はムカついたって「……」だよな。おまえ、やっぱり生徒会辞めるか? 別にいつ辞めてもいいぞ。書記なんて代わりはいくらでもいる』
「……いえ、失礼しました。すぐ行きますから、許してください」
『早くこいマヌケ』と吐き捨てて着信を切られたぼくの顔を見た明里が、心配そうな顔で言った。
「ねぇ、しんくん……。どうして生徒会なんかに入ったの?」
「なんだよ。ぼくが生徒会に入っちゃ悪いか」
「なんか、しんくん、無理してる気がする」
図星をつかれてドキッとした。
明里の言うとおりだ。ぼくは無理して生徒会の仕事をしている。
それというのも、明里の立場を守るためだった。県内屈指の進学校であるこの高校では、生徒たちは内申書の成績を奪い合ってしのぎを削り合っている。
この学校では同じレベルの成績同士じゃないと友達ができない。
バカはぼっち一択で、毎年何人もの劣等生が中退している。
そんな学校だから、ぼくが優等生になって、明里をバカにするやつらから守らなくちゃいけない。
「無理なんてしてねーよ!!」
「それって無理してる人のセリフ」
「してないから、してないって言ってんだ!! わかったような口をきくな!!」
「わかってないのは、しんくんのほうじゃない! 明里のほうが、しんくんのことちゃんとわかってるもん!! 明里はお人好しならしんくんを抜いてぶっちぎりの一位なんだよ!?」
「……もういい」
話してもムダなので、ぼくは明里に背を向けて生徒会室に向かって歩き出した。
「しんくん!!」
背後から明里の声。
まさかこれが、明里との最後の会話だなんて夢にも思わなかった。