エネマラあらわる! 2
「おっはよー、しんたん?」
エネマラが、むきだしの大きな胸を隠したふわふわの砂色の巻き毛を片手でかきあげ、ミツバチみたいに細いウエストにもう片方の手を添えるセクシーポーズをとった。
髪から突き出たクロワッサンそっくりの形をした羊のツノ、背中に生えたコウモリの黒い羽、ぷりんと半分はみ出したお尻の割れ目から伸びた黒い尻尾がうねうね動いてる。
「このスクワームのお刺身おいしいん♪ もっと食べたいなん?」
エネマラが、口を半開きにして、赤く湿った舌でコロコロとスクワームの刺身を転がす。金色の瞳がはまった眠そうな垂れ目と、あつぼったい唇のはじについたほくろが、悩ましげだった。
さすが、男を堕落させるエロ悪魔!!
「また来たのかこの淫魔め!!」
カウンターをひらりと飛び越えてきたバスコがエネマラの脇に立ち、エプロンの腰に差してあった長剣を抜いた。
「うん?」と不思議そうな顔をしたエネマラの喉元に、ずっぷりと長剣が突き刺さる。
「うわあっ!」
そこで悲鳴をあげたのはぼくだけだった。
胸ポケットの中のカリナも、剣の柄まで刃を刺し貫いたバスコも、そして喉から剣を生やしたエネマラも、全員涼しい顔をしている。
「ムダだってバスコたん。ウチは普通の剣じゃコロせないよん?」
「言われなくてもわかってる。だが淫魔が堂々と私の店に来て『いらっしゃいませ』と迎えられるか」
「うー、なんて迷惑なんでしょぅ。さすが悪魔ですねぇ」
バスコとカリナは、この気さくな悪魔の来店を慣れた態度であしらっていた。
このカザリンガでは、街中で悪魔を見かけることは野良猫を見かけるのと同じくらいの日常茶飯事だった。
カザリンガでは、「色欲」、「強欲」、「嫉妬」といった、人間の様々な悪の感情が悪魔の姿で街中を徘徊している。
それと同じように、「慈愛」、「友愛」といった善の感情を姿に変えた天使もいるそうだけど、あいにくぼくは見たことがない。
ぼくが見かけるのは、エネマラのようなエロい悪魔だけだ。
「何しに来たんだよ、エネマラ」
パンツ一丁のエネマラから目を逸らしながら言うと、喉元に刺さった剣を抜いたエネマラが「きゃはっ♪」と口元からキバを覗かせる笑顔を見せた。
「近くで恋人ができたばっかりの若い男子がいたから、さっそく夜の寝室に忍び込んで朝まで仕事してきたのよん♪ あー、腰と顎の関節がダルいわぁん。一滴残らず絞ってやったわよん♪」
顎と腰の関節を揉みながら、生々しいことを言う。ぼくは自分の顔が赤くなるのがわかって、さらに目を逸らした。
「で、ついでだから、しんたんの顔を見ながら一杯飲んでいこうかと思って♪」
突然、エネマラがぼくを抱き寄せ、豊満な胸にぼくの顔を押しつけた。
「うー! うぷー!」
エネマラの胸の谷間は酸素が少なく、必死に呼吸しようとすると、エネマラの胸の谷間から「ふすー、ふすー」と息を吸う音がした。
この世のものとは思えない柔らかさと、いいにおいがした……。
「や、や、やーめーろー!!」
「本気でやめてほしいのん?」
こういうところが淫魔らしい。
しばらく無言でじたばたもがいていると、エネマラが言った。
「やめてほしかったら、バスコたんにおいしいお酒を一杯ごちそうするよう頼んで♪ この店で一番高いやつよん♪」
「バ、バ、バスコ! エネマラの言う通りにしてやって――!!」
「……代金はタローが払え」
「やったぁん♪」
エネマラがようやく解放してくれて、ぼくはカウンターテーブルに肘を突き、ぜーはーと息を整えた。
同時に、琥珀色の液体が注がれたグラスが、エネマラの前に出される。
「タロー、金はあとでもらうからな」
「自業自得ですぅ」
バスコとカリナから、虫を見るような冷たい目で言われた。なんでだ。悪いのはエネマラなのに。
「ぷっはー! きくわぁ、コレ!! しんたんも飲もうよん♪」
バスコが出してくれたお酒を一気に飲み干したエネマラが、ほんのり上気した顔をぼくに近づけて、酒臭いというレベルじゃなく着火しそうなアルコール臭を吹きかけた。
「ごほっごほっ! え、遠慮する! ……バスコ、どんだけ強いお酒なのこれ!?」
「鎧の錆びが溶けるくらい強烈な酒だったんだがな。さすがエネマラだ。この酒が飲めたのは私とおまえだけだ」
そんな劇薬みたいなもの飲むなよ!
「ねーねー。ところでさっき、しんたんの仕事の話、してなかったぁん?」
グラスに残った酒の雫をぺろぺろ舐めながら、エネマラがぼくの顔を覗きこんできた。
「ぎくっ!」と音がしそうな内心を抑えて、ぼくは努めて涼しい顔をした。
「し、仕事の話なんてしてないよ?」
「本当ぉ~?」
「本当だよ!」
「じゃあなんでこんな朝早くから外出着なのん? ホムンクルスちゃんも一緒で?」
「あ、朝早くから外出着でカリナを連れてちゃ悪いのか!? ぼくの勝手だろそんなの!?」
「きゃはっ♪ 怒った怒った。しんたんってばわかりやすーい。ウソつくのヘタな男子ってモテないんだよん?」
「うるさい!」
ぼくは乱暴に椅子から立ち上がり、店の入り口へと向かった。
「ねーねー、何の仕事なのん? 教えてよー♪」
「おまえなんかに教えるか! そこで飲んでろ!!」
ぼくはずんずんと早足で店のドアをくぐって表通りを歩いて行った。
歩きながら、エネマラがついてこないかときどき後ろをチラ見したが、ついてきてないようでホッとした。
胸ポケットから、カリナが言った。
「危ないところでしたねぇ、しんたろ様」
「ああ。今回の依頼のこと、エネマラに知られたら超めんどくさいことになるぞ」
「なにしろ淫魔ですからねぇ。ミリヤ様の淡い恋を嗅ぎつけたら、真っ先にカトル様を誘惑しに行きますよぉ」
「寝取られオチだけはごめんだ」
「くわばらくわばら」と唱えながら、ぼくはカトルの住む東のデルレックス地区へと向けて、眩しい朝日が差す通りを歩いた。