食人鬼
さて、道に迷った。
そこら中から響き渡る蝉の声。
気づけば山奥、草木ばかりが生い茂り、家も畑もないところを歩いていた。
禅僧、夢想。
年の頃三十ばかりのしっかりとした体つきの男である。
美濃より下野へと向かう、行脚の旅の途中だった。人の行き交う街道を歩いていたはずだったが、いつの間にか山野に入っていた。見上げる太陽はまだ高いところにあったが、山の中ではもたもたしているとすぐに日が暮れる。数刻の内に民家を探さなねばならない。季節は夏の盛りであるため夜は暖かく、星の下で夜を明かす事も出来ようが、道を教えてもらわねば行く事も戻る事も出来ない。手持ちの食糧も尽き、山菜を口に含んでもどうにもならないほどに腹が空いていた。このままだと仏道の半ばにて息絶える事となるかも知れない。そう考えた夢想は網代笠を深く被り直し、汗に濡れた身体中にまとわりつく衣を振り払うように足を速めた。
しかし人の気配が微塵もないところである。
山の中であるとは言え、街道から少し逸れたところならば、普通は民家の一軒や二軒あるものである。が、地面には小道どころか人が足を踏みしめた跡すらない。ならばと踵を返し、来た道を戻ろうとしてみるが、奇妙な事に己の足跡も見つからない。実際には背の高い草のせいで見落としているだけなのだろうが、狐狸にでも化かされているのかと首を傾げたくなる。太陽を目印にそこら中を歩き回ってみるが、行けども行けども見えてくるのは青々とした草木ばかり、騒々しい蝉の音がまるで己をあざ笑うかのように聞こえ、焦りと苛立ちが流れ出る汗の数を増やした。だが最も気にかかるのは道に迷った事でも人や家が見つからない事でもなく、収まる気配のない空腹感だった。飯を食っていないから力が出ないという事はない。手脚には力があり、頭の中もはっきりとしていた。ただ、山菜以外のものを腹に入れたかった。そしてこういう時こそ湯気の上がる握り飯や、ほどよくからい沢庵、柚子の千切りを散らした大根の味噌汁などが、思い浮かんでは頭から離れない。夢想は自らの想像に唾を飲み込みながら、あてもなくさまよい続けた。
夢想の努力もむなしく、陽は無情にも傾いていき、空も草木も黄昏に染まった。もちろん夢想も例外ではない。夕日は黒い僧衣を唐紅に染め上げ、夢想の顔に歪な影を作った。その表情は能の面のごとく、光の加減で様々に形を変えた。一歩踏み出せば憤怒し、一歩踏み出せば破顔し、一歩踏み出せば嘆いた。それは実のところ、表面だけのものではなかった。夢想自身、斜陽に身を浸しているうちに、心の底より泡のように浮き上がってくる無数の感情に翻弄され、己を見失っていた。仏の教えも俗世の欲もただただ遠く、近くに感じられる唯一のものは、魂を締め付けるような空腹のみだった。血に濡れたように赤い面の中、深紅の双眸がどろりと澱んだ。
その瞳が光を取り戻したのは、空の端で夜が腕を広げ始めた頃だった。不意に開けた視界の遠く、小さな丘の上に残照にぼんやり輝く一軒の庵室(あんじつ。僧や尼、世捨て人などが住まう質素な家)があった。はっと目を見張った夢想は、見間違いでない事を知るやいなやほっと息を吐き、一直線に丘を目指した。
辿り着いてみると庵室は予想以上に荒んでおり、とても人が住んでいるようには思えなかった。だがそれでも夢想は一縷の望みを胸に、網代笠を脱いで胸に抱くと、粗末な戸を数回叩いた。が、待ってみるも反応がない。落胆しつつももう一度戸を叩いてみると、しばらくして戸がわずかに動き、隙間から白く丸いものがぬっと出てきた。それは骸骨と見まごうほどにやせ細った、老人の顔だった。かすかに残った髪は色も艶もなく、一切の水気のない染みだらけの肌はしゃれこうべの上に薄く張り付いている。身にまとっているぼろぼろの灰色の衣はどうやら法衣らしく、長い年月をかけて色が抜けてしまったようだ。生者どころか仏僧の姿にはとても見えず、夢想は思わず息をのんだ。しかし、瞼が縮み、ほとんど飛び出しているように見える老人の二つの眼球が、ぎょろりと動いてこちらを向いたため、また違う意味で息をのんだ。薄くなり、乾ききった土気色の唇がうごめき、その隙間から隙間風が上げる悲鳴のような、声ともつかぬ音が漏れた。
「……こんなところに、どちら様ですかな」
愕然としていた夢想は、老人の言葉に我に返った。慌てて頭を下げると、丁寧にこいねがった。
「失礼しました。わたくしは行脚の旅をしております、夢想という者です。恥ずかしながら道に迷いまして、出来れば一晩の宿とほんの少しで構いませんので何か食べ物をいただけないでしょうか。どうぞお願いいたします」
老人は何も答えず、ただじっと夢想の顔を見つめ、何やら口の中で繰り返し呟いていた。人死にが出るほどひどい飢饉は三十年ほど前のものが最後で、最近はそれなりに豊作が続いてはいるが人に気安く施しが出来るほど豊かな世ではないし、心に余裕がある人ばかりではないので、夢想は初め、老人が多くの人のように自分を罵っているのだと思った。しかしやがて、老人の唇がどうやら夢想と己の名を呟いているらしい事に気づき、怪訝な顔をした。僧侶としてはそれほど珍しい道号(仏道に入ってつけた名)ではないが、一体何なのだろうと、老人に尋ねようと口を開いた。だが、夢想が問いを発するより一瞬早く、老人が声を上げた。
「……なるほど。事情はわかりました。ですが生憎見ての通りの窮屈なあばら屋、人を泊めるわけにはいきませんし、お渡しする食べ物もありません。その代わり、近くに小さな村がありますのでそちらまでの道を教えましょう。頼めば泊めてもらえます。ですが、わたし事は言わないでください」
夢想は老人の言葉に落胆し、二つの疑問を持った。この辺りは散々歩き回ったが、村どころか人が住んでいる気配は一切感じられなかった。老人はただ自分を遠くに追い払おうとしているだけではないか。それに、自分の事を口にするなとはどういう意味か。そもそも村があるというのなら、どうしてこんな畑も川もない場所で一人住んでいるのか。村にいられなくなるような、まずい問題でも起こしたのか。夢想はあれこれ悩んだが、老人に泊めてくれる様子はないし、人にはそれぞれ事情があると斟酌(しんしゃく。相手の事情や心情をくみとること)し、老人に頭を下げた。すると老人はどういうわけか、最初の時とは違ってどこか生き生きとした様子で夢想に村までの道順を教えた。日暮れも近かったので礼を言うと早々に庵室を辞し、夢想は教わった道を急いだ。丘の下、ふと思い立って庵室を振り返ってみると、老人が戸の外に立ち、こちらを見つめていた。ぼろ布のような灰色の法衣が、枯れ木のような身体の周囲で旗のように風にはためいている。遠く、その表情までもが見えるはずもなかったが、どういうわけかそのぎょろっとした二つの瞳とぴたりと目が合った気がした。まとわりつくような愛情と憎悪。気のせいだろうと思いつつも、老人特有の青白く濁った双眸がすぐそこに輝いているように感じられ、夢想は息苦しさを覚えた。それを振り払うように庵室に向かって一礼し、背を向けるとこれまで以上の速さで歩き出した。
辺りが暗くなり、空に星が瞬き始めた頃、夢想はその小さな村に辿り着いた。家は二十軒に満たず、山中の農家の平均的な佇まいであったが、先ほどの庵室に比べれば大変素晴らしいものに感じられた。夢想はほっと息を吐きつつ、村の中に足を踏み入れた。しかし、まだ宵の口だというのに、どの家も真っ暗で人がいる様子がなかった。仮に既に眠りについているとすれば戸を叩いて起こすのも迷惑と思い、夢想は灯りのついている家を探して村の中を歩き回った。そして村の中心にある、他の家よりも少しばかり大きくて立派な家の前で足を止めた。灯りがともり、人のいる気配がする。夢想は笠を脱ぎ、戸を叩いた。すると四十ほどに見える一人の男が顔を出した。最初の時点で既に不審な顔をしていた男は、戸の外で佇む夢想の姿を目にしてぎょっとした。
「な、なんだあんた」
「夜分遅くに申し訳ありません。わたくし、行脚の旅をしております夢想という者です。恥ずかしながら道に迷いまして、出来れば一晩の宿とほんの少しで構いませんので何か食べ物をいただけないでしょうか。どうぞお願いいたします」
「行脚……あんた、坊さんなのか」
その時初めて気づいたというような顔で、男は夢想が身にまとった僧服をまじまじと見つめた。男は訳が解らぬと言う顔をして首をひねり、ちらりと家の中を振り返った。そしてちょっと待っていてくれと言い残し、戸を閉めると奥へと引っ込んだ。断られたらどうしようかと悩む夢想の元に男が戻ってきたのは、夢想の足を蚊が十カ所ほど刺した頃だった。
「お待たせしました。どうぞお上がりください」
男は先ほどとは違って丁寧な態度でそう言うと、夢想を家に上げ、一室へと案内した。こぢんまりとした清潔な部屋で、夢想は屋根の下で眠れる事に深く安堵した。夢想が荷を畳の上に降ろしたところで男は湯を勧め、夢想は恐縮しつつも汗まみれになった身体にその申し出は有り難く、頭を下げた。
夢想の小汚い格好を哀れんだのか嫌がったのか、風呂から上がると替えの着物が用意されていた。夢想は法衣以外を身にまとう事に複雑な気持ちを抱いたが、好意をむげには出来ず、汚れた格好で家をうろつく事も申し訳なく思ったので、素直に着物を身にまとった。洗った法衣を小脇に抱えて部屋に戻ると、湯気の立つ食事が載った膳が用意されており、年老いた男が一人、夢想の帰りを待っていた。
「お坊様、湯加減は如何でしたかな」
「大変心地よいものでした。着物までお借りしてしまい、感謝が尽きません」
「いやいや、我々のような俗人には耐え難き修行をされている方々に、心からのおもてなしをする事は当然です。見ての通り、大したものではありませんが、どうぞ食事を召し上がってください」
人の善心が形になったような顔でそう告げる翁に、夢想は胸に染み入るものを感じながら深く頭を下げた。膳の前に腰を下ろし、箸を手に取った夢想は、翁に食事はされたのかと問いかけた。すると翁は自分は村長で今日はこの家で村の集まりがあり、少し前に皆で食事は済ませたのだと答えた。多くの人の気配がしたのはそのためかと頷きつつ、何かお祝い事ですかと問うも、それまで笑顔を絶やさなかった翁は表情を曇らせ、言葉を濁した。部外者が足を踏み入れて良い話題ではなかったかと、夢想は己の不躾な言葉を謝罪した。翁は身内ごとですから申し訳ないと首を横に振り、夢想に汁物をすすめた。すすめに従って汁椀を手に取った夢想は、しかしその中に浮かんでいるものを見て顔を強ばらせた。
「これは何ですか?」
「狸汁です。今朝獲ってきたものですので、新鮮ですよ。しっかり精がつきます、どうぞお召し上がりください」
「狸、ですか」
やはり獣肉であったかと夢想は眉根を寄せた。仏僧というのは基本的に獣肉を食す事は禁じられている。一部の例外もあるにはあるが、師からは決して肉を食べてはならぬと仏門には入って以来きつく言われている。故に夢想は申し訳ないがこの椀はいただけないと断ろうとした。しかし、ふと顔を上げてみると翁が異様な顔つきでこちらを見つめており、
「肉を食べぬのですかな」
と、瞬きもせずに問いかけてくる。それはせっかくの好意をむげにされそうで気を悪くしているとか、坊主に肉を与えて困る様を面白がってるとか、そういった様子ではない。もっとねじ曲がった濃密な情念が皮膚の下で蠢いていた。翁にとって夢想が肉を食うという事には夢想が想像する以上の重要で強烈な意味があり、おそらくはここで食べるのを拒否すれば夢想に対して良くない判断が下されるのだ。目を見ればわかる。今何かが試されている。
一人の老人の心と仏の教えを比べれば、果たしてどちらを優先するべきか、修行の半ばである夢想には決められなかった。しかし例え夢想がその答えを得ずとも、どうすれば良いかはほとんど最初から決まっていたと言えるかもしれない。気がついた時には、夢想と翁がいる部屋の周りをぐるりと無数の何かが隙間なく囲んでいる気配があった。息を殺し、身じろぎせず、壁やふすまにぴたりと手と耳をつけ、目を見開いて夢想の一挙手一投足、心臓の鼓動まで伺っている。それらの心は当然目の前の翁と同じであるだろう。仮に何か拙い事になった場合、この部屋から出る事は出来そうもなかった。
「……わかりました。いただきます」
夢想は仏と師の教えに逆らい、決心すると椀に口を付け、傾けた。翁は夢想がちゃんと肉を食うかどうか観察していた。その眼光たるやまるで夢想の背後から首を伸ばし、口元を覗き込んでいるような威圧感があった。夢想は観念して箸を動かし、食材を飲み込んだ。口の中、大根や人参、芋などが乱雑に転がる中、それはすぐに存在を示した。
何だ、これは。
尋常ではなく不味い。生臭いとかえぐみがあるとかそういう次元ではなく、もはや毒に近い。舌がしびれ、強烈な吐き気が襲ってくる。脂汗が吹き出し、目の焦点がぶれる。まだ飲み込んでもいないというのに、腹をしたたかに殴られたように胃腸がのたうち回り、ねじれている。身体がそれを受け付けない。だが翁が、部屋の周囲の者達が、こちらを見ている。食さねばならない。夢想は気が遠くなりそうになるのを必死でこらえながら、無理矢理咀嚼し、飲み込んだ。
「大変美味しいです」
「本当に?」
「はい。美味しいです」
「ああ、それは良かった。良かった」
翁が破顔し、大勢の気配が緩んだ。
しかしその注意はまだ夢想の元にあり、消えてはいない。一口食べて終わりというわけにはいかない事は明白だったので、夢想は緩慢に食事を続けた。
本当に狸の肉か。
獣の肉である事は歯ごたえと舌触りでわかる。だが、仏門に入る前、幼い子どもの頃に食した肉とは明らかに種類が違う。狸、兎、猪、鹿……そういった人が常食するようなものではない。もっと禁忌的な肉である気がする。例えばそう、猿……あるいは。
どうにか完食した夢想は、箸を置き、手を合わせた。夢想の顔色が悪いのをどう見たのか、翁は人を呼んで膳を下げさせると、畳の上に手際よく布団を広げ、夢想に笑いかけた。
「お疲れのご様子ですので、どうぞお休みください」
夢想は息も絶え絶えに頷き、ほとんど倒れ伏すようにして布団の上に横になった。目を閉じたという意識もないまま、夢想はがくんと深い眠りに落ちた。
夢想が目を開けたのは、真夜中のほんの少し前の事だった。
どこか遠くから聞こえてくるそれを、夢想は最初川の水音だと思った。しかしよくよく耳を澄ませてみると、どうやらそれは部屋の外、家のどこからか聞こえてくる人々のすすり泣きである事が解った。夢想は怪訝な顔をし、身を起こした。あぐらをかいて思案してみるが、時が過ぎても泣き声は止まぬので立ち上がり、部屋を出た。怪しい者達に思えるし、気は進まなかったが、宿と食事をいただいたのも事実、困窮する人々を救うのが仏の道なれば、悲しむ者を放って寝る事も出来なかった。夢想は真っ暗な廊下を歩いているうちに、ふと自分が健康である事に気づいた。あの肉を食べて以降、体調は酷く悪かったから、てっきり翌日まで影響が出ると思っていたが、一眠りしたのが功を奏したのか、今は全く具合は悪くなかった。ただ、あの肉のせいだろう、腹が上手い具合に栄養を取る事が出来なかったらしく、どうにも空腹だった。腹をさすりながら歩いていると、人々がいるらしい大きな部屋の前に辿り着いた。膝をつき、ふすまを叩き名を名乗る。するとふすまが開き、この家で最初にあった男が顔を出した。その顔は涙に濡れていた。
「お坊様、いかがされましたか」
「眠っておりましたところ、人の泣く声が聞こえましたので、一体何があったのかと思った次第で」
「起こしてしまったのですか。申し訳ありません。すぐに静かにいたしますので、どうぞお部屋にお戻りになってください」
男は部屋の中を見せぬようにしながらそう言ったが、部屋の奥からこの家の主人であるあの翁の声が「いや、お坊様にも入ってもらえ」と言った。男は頷き、ふすまを更に開けると身を脇にどけた。頭を下げ部屋の中に入った夢想が見たものは、薄闇の中、四方に置かれた行灯がぼんやりと照らす涙を流す数十人の男女と、その中心に敷かれた布団の上に横たわる遺骸だった。
「お坊様に気まずい思いをさせぬよう、今まで申し上げませんでしたが、実を言いますと早朝に村人が一人亡くなりまして、我が家に集まって葬式をしておったのです。ここにいるのは村の住人全てなのですよ」
村長の翁はそう言って涙をこぼした。翁を含めて死者を前に泣き伏す人々の姿は、夢想が抱いていた彼らの印象とは異なって人間らしく、状況には相応しくないと承知しながらも、夢想は思わずほっと息を吐きそうになった。
「なるほど、そうでしたか。しかしお身内が他界されたのであれば一言言っていただければよろしかったのに。疲労はしておりましたが僧侶の勤めが果たせぬほどではありません。もしよろしければ、今からでもわたくしが経文を唱えさせていただきますが、どうでしょうか」
夢想は緊張が緩んだのもあって、いささか饒舌に喋り、そう申し出た。
「いや、お坊様のお気持ちは有り難いのですが……」
「修行中の身ですが勤めはちゃんと果たせますし、布施などはもちろん必要ありません。一宿一飯の恩義もあります。どうぞご遠慮なく」
「そうではないのですよ、お坊様」
翁は険しい顔をして夢想を見つめると、言いにくそうに口を開けたり閉じたりした。だが、やがて観念したように大きく息を吐くと、ゆっくりとしゃべり始めた。
「実を言いますと、この村には特別な慣わしがありまして、誰かが死ぬとその日の深夜から翌朝まで、遺体の側を離れなければならないのです。と言いますのも、亡骸が残された家では必ず奇妙な――恐ろしい事が起こるのでございます」
「恐ろしい事とは一体なんです?」
「正確な事は解りません。ただ解っているのは翌朝戻ってみると亡骸が消えてしまっている事と、そして亡骸の側にいた者もまた姿を消すという事です。かつて一人だけ翌朝まで生き延びた者がいるのですが、その者は怪物がどこからかやってきて亡骸を喰いあさり、その側にいる者も喰おうとする――そう言った後、腰から下を失っておりましたので、そのまま亡くなりました。その者の亡骸もその晩に例のごとく消え去りました」
「……なるほど。お話を聞く限りでは悪鬼か妖魔の類いでしょうな。そうであれば尚更わたくしにお任せください。こう見えてもわたくし、怪異などには滅法強うございます。必ずや件の怪物を滅ぼして見せましょうぞ」
夢想のその言葉は嘘でも強がりでもない、事実だった。夢想が身を置く寺は祓い事に強く、ひっきりなしに怪異がらみと思われる様々な依頼が持ち込まれていた。中でも夢想の師は優れた僧侶で、その筋では有名な人物だった。弟子である夢想は法力などは大した事なかったが、どういうわけか強い力を持った妖魔に惑わされる事は全くなく、むしろそれらの方が夢想を遠ざけるほどだった。故に夢想のこの言葉は自信に満ちあふれており、それがわかったのだろう、翁も疑いを捨て決心した顔で頷いた。
「わかりました。ですがどうぞお気を付けなさってください。わたくし共は村の外れの集会所にて寝ずに夜明けを待っています。もしこの場に痛くないと思われた時は、どうぞそちらの方にいらして下さい」
翁はそう言って集会所の場所を教えると、口惜しげな顔で亡骸を見つめる村人達を引き連れ、家を出て行った。亡骸も枕元に置かれた灯明(とうみょう。神仏に供える灯火)の火が手を振るようにゆらゆらと揺れた。
一人になった夢想はお経を唱え、葬儀を行った。やるべき事を一通り済ませたところで、夢想は坐禅に入った。無心となって数刻が過ぎた頃、深みを増した闇の中にそれは唐突に、しかし音もなく現れた。
巨大な何か。
輪郭がぼんやりとした、まるで青く色づいた霧のようなそれは、布団の上の遺骸をすうっと覆うと、むしゃむしゃと食べ始めた。これまで見た事がない怪異に驚いたとはいえ、夢想は当然それらの存在に効き目のありそうな経文を素早く唱えようとした。しかし、開こうとした口も、動かそうとした舌も凍り付いたように固まっており、何をなす事も出来なかった。金縛りに遭っているのだと気づいた後は、ただただその悪霊が遺骸を食い尽くすのを見守る事しか出来なかった。しばらく後、全てを食い終えた霧のようなそれは、注意を夢想に向けたらしかった。瞬きすら出来ずそれを凝視していた夢想は、その瞬間化け物と目が合った気がした。もちろん霧のようなものに目と呼べるものは存在しない。だが夢想は自分がそれを見、自分がそれに見られた事を直感的に察知した。と同時に、夢想を激しい頭痛が襲った。たまらずその場に倒れ伏すと、霧のようなものが音もなく近寄ってきた。そして顔を寄せるように夢想にくっつくと、それは目や口、鼻や耳から身体の中へと入り込んできた。夢想は声にならない悲鳴を上げ、そして意識を失った。
翌朝、夢想は肩を揺すられて目を覚ました。
はっと身を起こすと、翁を初めとした村人達が心配そうな顔で夢想を見ていた。身を案じる言葉を無視して布団の方を見やると、以外は跡形もなく消えていた。夢や幻ではなかったかと息をのみ、昨晩の出来事を村人達に早口で語った。村人達は驚く事もなく頷き、口々に言い伝え通りだと言った。
「しかしお坊様、よくご無事で。やはり僧侶の方などは我ら俗人とは違うのですかな」
翁の言葉に夢想は口を閉ざした。気を失う寸前、あの霧のようなものが身体の中に入ってきた事は言っていなかった。言えば己が悪鬼と同一になったものとして扱われるのではないかと思い、口には出来なかった。目覚めて以来、異様な気持ちになったわけでもなく、いつもと変わりはなかったので、あれは何でもない事だったのだと思う事にした。仏のご加護でしょうと手を合わせる夢想を村人達はじっと見つめていたが、やがてそれぞれの家に戻っていった。夢想は一眠りした方が良いと言う翁のすすめに従い、部屋に戻ると布団に横になった。瞼を閉じれば怪しい村人達の事やあの見た事もない怪物の事、遺骸が喰われるのを見ているしかなかった己の事など、様々なものが浮かんでは消えていった。悪夢を見ているようだ。夢想は次目覚めた時に街道に出る道を聞き、この村からさっさとおさらばしよう。これなら人気のない山の中で野宿した方がまだましだった。ひょっとすると丘の上に一人暮らしていた老僧はこういった事情があったからかも知れない。そのような事を考えながら、夢想は長い時間をかけて眠りに落ちていった。
次に目を覚ましたのは昼過ぎ、喉の渇きを覚えたためだった。蝉の合唱にうんざりとしながら、水を求めて台所まで歩いて行った。隅に置かれた水瓶を見つけ、ひしゃくを取って水を飲む。温くて美味しいものではなかったが、喉の渇きを満たす事は出来た。夢想は台所の窓から見える外の景色を眺めつつ、翁を探して帰り道を聞かなければならないと額の汗をぬぐった。と、その時、外からいくつかの足音が聞こえてきた。焦っている様子で、真っ直ぐこの家を目指していた。が、玄関へ向かう寸前、待てと声がして足が止まった。それはちょうど窓のすぐ近く、あちらからはこちらが見えないが、こちらからはあちらが見えるという場所だった。汗と動揺で顔をぬらした顔をした男が三人。村長に火急のようでもあるのかと暢気に再びひしゃくを呷った夢想はしかし、男達の会話を耳にして絶句した。
「早まるな。まだあの坊主がそうだと決まったわけではない」
「そうだ、第一どちらだと言うのか。人間か、それともあの悪霊か」
「人間に決まってる。あの坊主は肉を食って美味いと言った。この村にやって来るものは、誰もそんな事は言わない。お前だって不味くて食えないと吐き出しただろう。 あれは人間だ。そもそも坊主が我らの身内であるはずがなかろう。あれは仏が我々に与えてくれたお恵みなのだ」
「我らに仏が? 馬鹿な事を。罰せられこそすれ、恵みなど与えられるわけがない。おれはむしろ、あの坊主は仏が遣わした断罪の権化であると思う。むやみに手を出せば滅せられるぞ。今のうちに村から遠く逃げた方が良い」
「どこへ逃げると言うのだ。お前も知っておるだろう。村から離れようと歩き回っても、必ず村に戻ってくる。我らはここに来た時から、この村に囚われているのだ。掟により喰いたいものも喰えず、唯一の機会である遺骸すら、あの悪霊にとって喰われる。おれはもう我慢ならんのだ。例え法力で滅せられても構わん。お前達だって、坊主の肉がどんな味がするのか、知りたくはないのか?」
「何だと」
「それは」
「今なら村長もおらん。仮に皆で喰う事になったとしても、分け前はほとんどない。この耐え難き空腹を満たすほどは得られぬ。だが今なら三人で分けられる。たくさん喰えるのだぞ。ほら、どうするのだ」
「……よし」
「喰おう。よし」
三人は顔を見合わせて頷くと、夢想が息を殺す台所の前を通り過ぎ、夢想の部屋に一番近い縁側へと急いで行った。
これは恐ろしい事になった。
夢想は握りしめていたひしゃくを元の場所に戻し、恐怖に囚われそうになる心を静め、とにかくここから逃げようと決めた。夢想が寝泊まりしていた部屋から聞こえる暴れ回る音や、どこへ行ったと怒鳴る声を聞きながら、夢想は急いで勝手口から外へ出た。暗いところから明るいところに出たせいで、目の前が真っ白になる。夢想はものが見えるようになるのを待ちながら、行く当てはないが、とにかく村を飛び出して、村人達から身を隠せる場所を探そうと考えた。だが、視界が再び色と形を取り戻した時、夢想の前に立ちふさがるたくさんの人影があった。翁を初めとするこの村の全ての人間だった。先ほどの三人の男達のように、縁側へ向かう途中だったのだろう。勝手口から飛び出してきた夢想を、皆驚いた顔で見つめていた。それだけなら何て事はない光景だが、村人達はそれぞれ手に鎌や鉈、包丁に鍬などを持っていた。夢想は逃げだそうとしたが、村人達の瞳に圧倒され、動けなかった。それは美味そうな食い物を見る人間――鬼の目だった。先頭に立つ翁が、にこやかに言った。
「お坊様、具合はよろしいのですか。よろしいようですね。それでしたら、どうでしょう、我々の食事に付き合っていただけませんか」
「何を言うか、この鬼共め。わたしを喰うつもりなのだろうが、そうはいかんぞ。一人残らず調伏してくれる」
「お坊様、お坊様。確かに我らはおっしゃる通り、人食いにございます。好きで喰った者もおれば、仕方なく喰った者もおります。ですがお坊様、人というのはですね、喰う前はとてもそんな事は出来ぬと思いますが、一度喰ってみるとどうして喰ってはいけないのか、解らなくなるのですよ。どうして獣と人を区別するのか。肉を食うのが業であるならば、同じ事のはずです。獣だって共食いします。なぜ人だけがそうしてはならぬのでしょう。大勢と異なるというだけで鬼とされるのは侵害です」
「ならぬものはならぬのだ。人が人であるためには、共食いなどしてはならぬのだ。どうしてそれがわからぬか」
「ならばお坊様。例えばもし、とある事情で人の肉しか食えぬものがいたとしましょう。否が応でも生きるために食人せねばなりません。お坊様はそのようなものにも、人を食うなと言えるのですか。この世に生を受けたのは尊い事なのに、その生を捨てよとおっしゃるのですか」
「詭弁を弄すな。だがもし、例えそのようなものがいたとしても、わたしは食ってはならぬと言ってやる。生まれてすぐに死ぬ事になったとしても、食人鬼として生きるよりは、人として死んだ方が幸せだ」
「……なるほど。そうですか。しかしお坊様、あなたはこの村に何をしに来たのでしょうな」
「どういう意味だ」
「この村の者達は、歩いているうちに気づけばこの村の前まで来ているのです。お解りかと思いますが、村人は全て人を食った者達。人を食いたいが他の者も皆人食い、もしそれを許してしまえば酷い事になりますので、この村には人を食ってはならぬという掟があるのですよ。遺骸なら構わぬとしましたが、あの通り、悪霊がやってきてはわたし達の肉を奪っていきます。人食いなのに人を食えぬまま、ただひたすらにここに在り続ける。すなわちここは人食いの行くつく地獄なのです。ですので最初、この村にやってきたという事であなた様も同じ存在かと思いましたが、あなたは狸の肉を美味そうに食った。それどころか、悪霊を前にしても五体満足、傷一つない。我らをいよいよ罰するために仏が遣わした高僧か、地獄に放り込まれた慈悲という名の肉か。まあ、どちらでも構いません。我々は人の肉が食えればそれでよい」
「待て。だとするとあの丘の上に住む老僧も人食いなのか。わたしはあの者に道を教わってここまで来たのだ」
「丘の上? 村から離れる事は出来ないと言ったでしょう。こんなところに僧侶など、住んでいるわけがない。ここは道を教わってくるような場所でもありません。自然と辿り着くのですよ。ご冗談を」
「どういう事だ……」
「どういう事でも結構。さあお坊様、出来るだけじっとしていて下さい。亡骸を肉としか見ていないとは言え、悪霊から逃げる事なく村人の弔いをしていただいたお坊様には皆が感謝しております。苦しまないようにしたいのです」
翁と村人達は愛情だと見間違うほどの熱を帯びた瞳で夢想を見つめ、得物を片手にじりじりと近づいてきた。相手の数は多く、退路を断たれた上にこちらには武器もなく、人食い相手にはどれほど有り難い経文も役には立たず。夢想は己の死を覚悟した。そして師に生涯をかけて解けと教わった証道歌(禅の本義を七言長詩の形で説いたもの)の二句を唱えた。
「江月照松風吹 永夜清宵何所為(こうげつてらし、しょうふうふく。えいやせいしょう、なんのしょいぞ)」
未だ解けずにいるそれを口に出したその瞬間、夢想は昨晩悪鬼を前にした時と同じ頭痛に襲われた。後頭部を鈍器で殴られたかと思うほどの衝撃に、夢想はたまらず膝をつき、為す術もなく地面の上に倒れ込んだ。そしてそのまま意識を失った。
果たしてどれだけの時間が流れたのか。涼しさに目を開けた夢想は、まず己が生きている事に驚き、現在の時刻が夜明け近い事に驚いた。空は群青に染まっており、星はもうほとんどが消えていた。立ち上がって更に、自分が先ほどとは違う場所にいる事に気づき、首を傾げた。夢を見ていたのだろうかと思いながら、辺りを見回すと、どうやら村の外れの集会所のすぐ外にいるらしかった。無意識にあの鬼共からここまで逃げてきたのか。いや、だとすれば中ではなく外にいるのはおかしいし、何より鬼共の姿が一つもない。ふらふらと村の中を歩き回ってみるが、ところどころに鎌や鉈、着物の切れ端が転がっているだけで、何者の気配も全く感じられない。一体何が起きたのかと呆然と佇んでいると、夜明けの最初の光が村を照らした。何はともあれ無事に朝を迎えられる事を喜んだ夢想は、しかし夜明けの光が照らしたものを見て、絶句した。そこら中が血の海だった。鎌や着物の切れ端、転がったわらじにも、べったりと赤黒い血がついている。既に乾いてはいるが、それが人間一人では全く足りない量である事は一目瞭然だった。自分が生きているという事は、すなわち村人達のものだろう。顔が青ざめた夢想はとぼとぼと村の中を巡り、集会所の元へ戻った。そこもやはり血だらけだった。が、どこにも死体はない。血だけが広がっている。
「あの悪霊が再び現れ、鬼共を食らったのか」
とにかくこのような地獄にいてもろくな事はない。街道に戻る道は解らないがとにかく村を出て、ひとまずは何か事情を知っているかも知れないあの老僧に会いに行こう。村人どもはいないと言ったが、自分は確かに会って話をした。必ず見つけてやる。
夢想はそう決断すると逗留していた部屋に戻って身支度を調え、そそくさと村を後にした。見つけるのは困難かもしれないとも思っていたが、意外な事に、山道を歩き出してすぐに丘の上に立つあの庵室を発見した。夢想は喜ぶと同時、奇妙な違和感を覚えつつ、戸を叩いた。するとあの老僧が顔を出し、夢想を見つけると顔をほころばせ、中へと招き入れた。庵室は外から見たとおり、中も酷い有様だったが、血しぶきがかかっていないというだけで綺麗に見えた。
「さて、何をお知りになりたいのですかな」
「村人達はあの村は人食いが最後に辿り着く地獄だと言っていました。あれは本当なのでしょうか」
「はい、事実です。あれは人食いという最悪の罪を犯した者達が囚われる獄なのです。現世で人を食った者が流れ着き、しかし一番彼らが欲しい人の肉を食えぬところ。食った人の数に比例した長く長い寿命が尽きるまで、永遠に留まり続けるのですよ」
「では、あの怪物は何です。遺骸をむさぼる様をわたしは見ました。仏の仕業にはとても思えませんでしたが」
「ああ、あの怪物ですか。あれはわたくしです」
「何ですと」
「この村を生み出したのが仏なのかどうかはわかりませんが、生み出したものはわたしにあの者達を監視する役目を与えたのです。遺骸を喰いたくて喰いたくて仕方がないあの者達に、これ以上人の肉を食わせないようにするのです。わたしもそう、人食いの一人なのですよ」
「そんな、あなたはわたしと同じ僧侶なのでしょう。どうしてそんな方が人食いなどを」
「母がわたしを身籠もった年、ひどい飢饉が襲いました。両親はあれこれ努力して子を産むのに十分な食事を取ろうとしましたが、その甲斐なく、稗や粟ですら手に入らず、母はやせ細っていくばかり、このままだと命を落とすというところで、父はある決断をしました。それは己の肉を妻に食わせるというものです。母はとても人の肉が食えるような人間ではありませんでしたが、命を差し出した父のため、そして腹に宿る子のために心を殺して夫の肉を食いました。そのおかげでわたしはこの世に生を受ける事が出来ました。が、困った事に、業によるものでしょう、生まれたわたしは人間の肉以外を食わないものになりはてておりました。母は自分の所行を呪い、わたしを呪いましたが、どんな鬼に成り果てても可愛い我が子、個に罪はないと思い、わたしの腹を満たすため、長きにわたり墓を漁って人の肉を調達したのです。しかしやがて屍肉を食らう鬼がいると噂になり、調伏に現れた高僧により、母は斃されました。高僧は死の寸前に我が子を救ってくれとすがりついた母の願いを聞きいれ、幼いわたしを寺に連れ帰ると新しい名を与えて記憶を縛り、人として生きるように育てたのです。常に空腹を感じていましたが、幸せな日々でした。ですが、その高僧が年老いて亡くなると、時折わたしはひどい頭痛の後記憶を失うようになり、目覚めると誰かがいなくなっていました。やがて周囲に疑いの目で見られるようになった私は逃げるように寺を後にし、諸国を放浪しました。そして最後に、この土地に辿り着いたのです。この丘の上で、この庵室の中で、わたしは一人の老僧に会いました。ちょうど今のあなたのように」
「……まさか、それはつまり」
己の失っていたものを、忘れていたもの、忘れようとしていたものを見せつけられているような――いや、見せつけられた夢想は、老人の顔を凝視した。そこには確かに見覚えがあった。しかし、夢想は己の直感を否定した。
「嘘だ。わたしを騙してどうするつもりだ。わたしはただの人だ。ただの僧侶だ。人など食ってはいない。食ったりなど、してはいない」
「それではその口の周りの赤いものは何です? 鏡を見る必要もない。ほら、手でぬぐって見なさい」
「なに」
馬鹿な事をと呟きながら、どうだとばかりに口を手でぬぐった夢想は、そしてそこに赤黒いものを見た。それは村中に飛び散っていたものと同じものだった。
「あなたは血の臭いも自然のものなのです。だから気づかない。ほら、あれほど減っていた腹も満たされているでしょう。あなたが食ったのですよ。覚えてないでしょうが」
「わたしは、わたしは」
「寺から逃げる時、法力の強い大勢の僧侶を食ったわたし――お前は、並みの人食いに負けるようなものではないのだ。お前は最初から最後まで人間ではなかったのだ。師の願いもむなしく、ただ鬼と成り果てた。あの時母と共に殺しておけば、大勢の人間が助かったであろうに。しかしそれでも師はわたしに夢を想ったのだ」
崩れ落ちる夢想に老僧は近づいた。
「たくさんの坊主の肉を食った身体だ、村の連中のように簡単に終わると思うな。気が遠くなるような時間がやってきては、去って行く。その間ずっとこの庵室で坐禅を組み、己に問いかける。人食いどもの相手をしながらな、いつかここを訪れる己を待ち続けるのだ。それがわたしが受けた罰、お前が受ける罰だ。だがその長大な時間が、罰だけではなく救いにもなったのだ」
晴れやかな老僧の声に、夢想は涙に濡れた顔を上げた。すると老僧は静かに告げた。
「師に与えられた問いをわたしに。証道歌の二句をわたしに問いかけよ」
夢想は己が未だ答えの出せぬそれを、縋り付くような声で囁いた。
「江月照松風吹 永夜清宵何所為」
すると老僧は深く頷き、一筋の涙をこぼした。
「そもさん、何の所為ぞ……我遂に至れり」
震える声でそう呟き、老僧は消え失せた。
夢想は老僧の消えた空間をじっと見つめていたが、やがてふらふらと立ち上がると、老僧がかつてそうしていたように、庵室の中心に腰を下ろすと坐禅を組み、足の上で手を組んだ。そして無心で己に問いかけた。
「江月照松風吹 永夜清宵何所為……」
上田秋成の「青頭巾」を元にしたとされる、ラフカディオ・ハーンの「食人鬼」を魔改造した作品です。当初は僧の名を原作の通り「夢窓」にしていましたが、話を進めるにつれてこれはさすがに失礼だと思い「夢想」に変更しました。冬に書いた「雪女」が柔らかい話だったので、正反対に暗い話にしようと思って書いたお話です。原作ファンの方には申し訳ありません。
P.S. 夏のホラー企画はタグに入れるだけじゃ駄目だったんですね……。
失敗しました……残念無念。