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神々の気まぐれ~願う男~

作者: 海藤 義雪

会社へと向かう通勤電車の中、N男はいつもと同様に憂鬱な気持ちを抱えて座席に座っていた。憂鬱な気持ちの正体は、ズバリ「会社に行きたくない、辞めたい」だ。この気持ちは以前からN男の心の中で蠢いていたが、最近では蓋をして閉じ込めておくことができないくらい成長している。N男はT商事の経理部で係長をしている。待遇や給与面に不満があるわけでもなく、部下も4名いて忙しく業務をこなしていた。充実した毎日だと思っていたが、ある時不意に悟ってしまったのだ。この会社での自分の限界を。特に優秀なわけでもなく、人心掌握に長けているわけでもない。この後、課長くらいには昇進するかもしれないが、その程度がいいところだろう。経理の仕事が嫌いなわけではないが、好きでもない。それならこのあたりで違う環境に身をおいてみるのも悪くない。何か目指すものがあるわけではないが、きっと自分に合う仕事がどこかにあるはずだ。そんな気持ちが芽生えると、もう消し去ることは難しい。仕事にも身が入らなくなってきて、いずれは大きな失敗をしてしまうかもしれない。ただし、会社に入社して10年あまり、人間関係も順調だし、直属の上司である課長には大変お世話になっている。会社に不満を持っているそぶりを見せているわけではない自分が辞めるなどと言い出したら驚くだろうし、迷惑をかけるかもしれない。そう簡単に決断できない・・・が、一生を今の会社に捧げることなど考えられない。やっぱり辞めるしか・・・。こんなことを繰り返し考えるのが、朝の通勤電車内の日課になっていた。


その日も、ルーチンワークのように同じ考えがぐるぐると一巡した後、電車の心地よい揺れにうとうとしながら、、N男は心の中でひとつため息をついた。

「あぁ・・・。いっそ会社がなくなってしまえばいいのに・・・。」

突然、頭の中が白い光に包まれ、この世のものとは思えない厳かな声が頭の中に響いた。

「その願い、叶えてやろう。」

はっと頭を起こすと、下車する駅に着いていた。慌てて乗客を掻き分けて電車を降りると、改札に向かって歩き出した。

「なんだ今の夢は・・・?」

どうやら短時間のうちに熟睡して、変な夢を見てしまったらしい。それにしても今まで通勤電車で夢など見たことなかったし、あの声もいやにはっきり聞こえた。不思議に思いながらも、N男は頭を振って眠気を吹き飛ばした。改札を出て会社に向かう。会社は駅のすぐ近くなので、すこぶる便利だ。1分もかからず会社に到着する。社員通用口に向かい、社員カードをかざしロックを解除する。開かない。もう一度かざす。ダメだ。

「あれ?おかしいな・・・。」

何度カードをかざしても無反応。N男は混雑を避けて早い時間に出社しているので、代わりに開けてくれるような社員もすぐにはこない。

「参ったな・・・。」

仕方がないので、近くのコーヒーショップで時間をつぶすかと考えていると、たまたま通りかかった会社ビルの守衛が声をかけてきた。

「どうかされましたか?」

「あぁ。おはようございます。いやぁ、カードがいかれちゃったのかドアが開かなくてね。カードは後で総務に替えてもらうから、ドア開けてもらってもいいですかね?」

守衛とは顔見知りで、以前にカードを忘れた時に同様にドアを開けてもらったことがあったN男は頭に手をやりながら、申し訳なさそうに話しかけた。しかし、守衛の反応は意外なものだった。

「当社にどういったご用件ですか?」

「え・・・?普通に出社しただけなんだけど・・・。カードが反応しなくて・・・。」

N男は予想もしなかった返答にとまどいながらも答えた。

「新規入社の方ですか?」

守衛は更に予想外の言葉を発してくる。

「・・・。いやいや、経理の○○ですよ!守衛さんとは昨日の帰りにも話したじゃないですか!」

「失礼ですが、あなたとは初対面だと思いますが・・・。何か勘違いされていらっしゃいませんか?」

N男は守衛の顔をまじまじと見つめた。冗談を言っているようには見えない。いたって真面目顔だ。それどころか目には自分を疑っている色がはっきりと浮かんでいる。

「ちょっと待って下さいよ!私はここT商事の社員ですよ!ほら!」

いらだちを覚えながら、N男は社員証を兼ねているカードを守衛の目の前に突き付けた。

まったく悪ふざけにしても度が過ぎている。いくら顔見知りでも、警備センターにクレームを入れて、きっちり処罰してもらわないと。普段は温厚なN男だが、意味不明は守衛の態度にふつふつといかりが湧いてきていた。しかし守衛はカードをちらりと一瞥すると、N男の目をしっかりと見返しながら、こう告げた。

「このビルはS物産本社ビルとなっております。ですからお手持ちのそのカードでは開きません。」

「・・・・・。」

N男は返す言葉が見つからず、口をパクパクさせるしかなかった。はっとして通用口の方を振り返る。ドアの右上にプレートが埋め込まれていて、たしか「T商事」と刻まれていたはずだ。・・・確かに刻まれてはいたが、その言葉は「S物産」だった・・・。

「当社は午前九時から営業開始となります。ご用件がございましたら正面入り口の受付にお申し出下さい。」

顔見知りであるはずの守衛の声に見送られながら、N男はその場を離れるしかなかった。

「いったいどうなっているんだ??」

近くのコーヒーショップに腰を落ち着けたものの、あまりの不可思議な状況にN男は茫然と座っていた。すると隣の席に一人の若者がやってきた。N男の部下の一人だ。元気で礼儀正しく、会社の外で会ってもしっかりと挨拶してくる今時珍しい若者だ。N男は声をかけようと口を動かしかけたが、途中で踏みとどまった。ちらりとこちらを見た若者が挨拶するでもなく無視したからだ。いや、無視したのではなく、面識のない人を何気なく見ただけ、という雰囲気だった。T男は軽い目眩を感じながらも、努めて冷静を装い、隣の若者を横目で盗み見た。こちらを意識する様子は微塵も感じられない。ふと若者の胸元に目がいく。N男の勤めるT商事はアルファべット「T」をアレンジした社章が全社員に配布されており、スーツの上着に付けることになっている。もちろんN男も付けているが、若者の上着で輝いているのは「S」の文字、おそらくS物産の社章なのだろう。ほどなく若者は店を出て、会社の方へ歩いて行ったが、N男は声をかける事もできず、ただ見送るしかなかった。

どうやらこの現実を受け入れるしかないらしい。T商事はこの世にはなく、替わりにS物産なる会社があるが、自分はその会社の社員ではないようだ。でもいったい何故こんなことに・・・?

「あ・・・。」

そうだ、さっきのあの夢だ。いや、夢ではなかったのかもしれない。頭の中で響いたあの声は人間のものではない神秘的なものだった。神秘的・・・。そう神様の声だったに違いない。自分が会社を辞めたいと思い悩んでいるのを見かねて、救いの手を差しのべてくれたのだ。突拍子もない荒唐無稽な考えだというのはわかっていたが、そうでもしないと今のこの状況の説明がつかない。いきなり職を失うことになってしまったが、波風立てず会社を辞める事ができたと考えるべきだろう。会社内の知人との繋がりも一切消滅してしまったし、退職金もなく会社を放り出された形だが、それもやむを得ない。一番の懸念事項である「会社を辞める」とう項目が一瞬にしてクリアされたのだ。独り身で浪費癖はなく、こつこつ貯金していたので、一年くらいは職が決まらなくても何とかなる。ゆっくりと自分に合った次の職場を探せばいい。そう考えがまとまるとN男は晴れやかな気持ちになった。自分は自由になったのだ。自分に合った、自分がやるべき仕事をじっくり探せばいい。生まれ変わって充実した人生を過ごすのだ。軽やかな足取りでコーヒーショップを出たN男は、そこから見えるT商事(今はS商事のようだが)の建物を見つめ、心の中で別れを告げた。

(きちんとお別れもできませんでしたが、僕はもっと自分が楽しめる、充実できる仕事を探します。もうこの場所に来ることもないかもしれませんが、今までのことは忘れません。ありがとうございました。)

建物に向かって軽く一礼すると、N男は駅へ向かってゆっくりと歩き出した。神様が与えてくれたに違いない、これからの希望に満ちた人生を想像しながら。


 それから一年後・・・。N男は朝の通期電車の座席に座っていた。目を瞑っているが、寝ているわけではなく、何か思いつめた感じが伝わってくる。それはそうだろう、あの不思議な出来事で会社を退職(?)して以降、次の就職先が見つかっていないのだ。最初はのんびり構えていたN男だったが、いざ就職活動を開始して、重大な事に気が付いた。N男が勤めていたはずだった、T商事が消滅した結果、N男の会社勤めの経歴自体が存在しなくなり、30歳を超えるこの年齢までの職歴が真っ白になってしまったのだ。ゲームや映画・アニメなど、自分の趣味を活かせる小さな会社にでも就職できれば、と考えていたN男だったが、この不景気のなか働いたこともない30男を雇ってくれる会社などあるはずもない。貯金も底を尽きかけ、アルバイトで何とか食いつないでいるN男が最後に取った行動が、会社に勤めていた時の通勤電車に乗る事だった。もう一度あの時の声を聞くために・・・。ここ二週間ほどは毎朝同じ電車に乗り、繰り返し祈っている。

「お願いします神様!どうか元に戻して下さい!仕事の有難味がよくわかりました。もう会社が無くなればいいなんて思いません。これからは与えられた仕事を一生懸命やります!ですから、ですからどうか元の状態に戻して下さい!お願いします・・・。」


神様からの返事はまだない。

そもそもあの声の主は神様だったのか・・・?


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