第三話 弁当
四階にある教室へ行くために階段を上がっていると、ハッと大事なことを思い出した。
「弁当忘れた……」
妹たちの会話に疲れててすっかり忘れてしまった。今日は四時間目に体育があるのに……。金欠でお金を持ってきていないから学食にすらいけない。
はぁ……仕方がない、瑞穂に無理を言って貸してもらおう。
そう最悪の事態に陥っている間に、階段を上りきり四階に到着していた。
俺の教室は一番階段に近い場所にあるので、ここまでくれば遅刻の心配もしなくて済む。
しかし、癒菜の作る絶品の弁当が……。
弁当を忘れたことに落ち込み俯いていた顔をゆっくり上げると、そこには今朝も見た馴染みある顔があった。
「あれ? どうしたんだろ。ここは二年の教室だぞ? なんでここに癒菜がいるんだ?」
俺の教室の前には、釧家の長女――釧癒菜が鞄片手に、顔だけキョロキョロと動かして誰かを捜していた。
癒菜はまだ高校一年生で俺の一個下だから、俺が留年しない限り同じ階で鉢合わせることはまずない。
しかし……警戒心剥き出しだな、あいつ。
自己紹介の時に言い忘れていたが、癒菜は大の男嫌いで、最初は俺に対して殺意すら持っていたほどだ。
今は俺にも、俺以外の男にも殺意は向けていないが、最初は本当に凄かった。
癒菜が来たのは一昨年の俺の誕生日で、わかりやすく言えば最新の妹だ。去年は誰も贈られて来なかったから癒菜が最新になる。
もともと男の俺に作る気なんかなかったと思うが、朝ごはんなんか俺の分だけ作らないし、昼飯も晩飯も俺は毎日コンビニ弁当とかだった。
自分で作れとか思うだろ? でも、リビングはおろか風呂まで使わせてもらえなかったからな。そこは銭湯にお世話になってたけど。
それから……死ぬかと思うぐらい酷い目にあった。そのことは、俺の中でも癒菜の中でも、勿論事情を知っている他の妹たちの中でも禁句になっている。
まあ、癒菜はいろいろ忙しいからもう忘れているかもしれないが。……願望を言えば忘れていてほしい。
そういやその時初めて癒菜と知り合った時、親父は大丈夫だったのか? と親父を心配した気がする。気のせいかもしれないが。
そんな癒菜は俺を目で確認すると、途端にパアッと顔が明るくなった。
今ではこんな笑顔まで見せてくれる。本当に良かった。
俺と同年代の男たちの癒菜に対する視線が多い。癒菜が俺のところに来たのを見て、俺に殺意を向けてくるやつもいる。
そりゃ、癒菜は身内の俺から見ても十分可愛いと思うけど……やらないからなっ!
俺が子を想う父親みたいになっていると、癒菜は自分の鞄から青色の布に包まれた何かを取り出した。
「ゆ、癒菜。それはまさか……俺の弁当箱か!?」
「兄さんが先に行っちゃうから渡せなかったんですよ。走って近道まで通って兄さんの教室まで来たのにまだ来てなかったですし。十分以上も教室の前で待たされて……」
俺が妹たちの自己紹介をしている間だろうか。その間に先を越されていたみたいだ。
それは悪いことをしたな。それに癒菜の気分パラメーターが減少していってる。俺の勘だけど。
俺は癒菜のさらさらの髪の毛に手を置いて、優しく撫でてやった。
「まあ、そう怒るなよ。悪かったと思ってる。お詫びに今度何でも言うこと聞いてやるから」
「ホントですか!? 絶対ですからね? 約束しましたからね?」
びっくりした。そんなに反応されるとは思わなかった。予想以上に効果があったな。
俺の勝手な思い込みかもしれないが、女子に『何でも聞いてやる』と言えば何でも許してくれそうな気がする。そりゃ、限度があると思うけど。
例外は、俺の実妹である舞。あいつは多分嬉しさ半分照れ隠し半分という実に器用なことをする。だから嬉しいのか照れているのか、もしかしたら怒っているのかもしれない、と思わせてくるので面倒だ。
想像内では「私はそんなので許してあげないんだから!」みたいな感じ。
いろいろ考え事をしていると、癒菜が何か変なオーラみたいなものを出していることに気付いた。多分これは疑念だ。
ここで嘘でした、とか言ったら殺されるかもしれない。半分冗談だけど。
「ああ、絶対だ。約束する」
「前みたいに『買い物に付き合ってください』って私が言ったら『買い物に行きたいならみんなで行こう』って言うとどうなるかわかりますよね?」
うおっ! 癒菜の後ろに邪神が見える。うんって言わなかったら魂を持っていかれそうだ。とうとう邪神召喚の儀式を成功させたのか、癒菜! とか言ってる場合じゃない!
「あ、ああ。今度は絶対にそんな真似はしないよ」
たどたどしくなってしまった。変な疑いを持たれませんように!
「ありがとうございます! 日時は私が決めておきますね。失礼します」
「あ、ああ。勉強頑張れよ」
「はい! 今日は特別頑張れる気がします」
ヤル気満々の癒菜は、俺に笑顔で手を振り俺が上ってきた階段を下っていった。
「……私を完全に無視していた……」
うわっ!! 瑞穂から怒りのオーラみたいなものが出てる! 女はオーラを目に見えるようにできるのか?
「癒菜はちょっとあれなんだ。許してやってくれ」
「違うよ! あの女とばっかり喋ってふゆき君が私のことをほったらかしにしてたから怒ってるんだよ!?」
まさかの俺のせい。これは予想外だ。それにしても……兄の前でその妹をあの女呼ばわりとは……瑞穂、お前は強いやつに育ったな。
昔は小さなカエルにもビビってたのに。今では胸に少しだが栄養がいっていて掴みやすい手の平サイズ……って何言ってんだ俺! 途中から変態になってるぞ!
俺が自分の煩悩を脳内で痛め付けていると、階段から上がってきた担任の先生が未だガミガミと口煩い瑞穂をプリントの束で叩き、俺への説教を強制終了させていた。
「ほら、お前らもとっとと教室に入れ。遅刻にするぞ」
瑞穂は、俺を鋭い目付きで一瞥すると、先生の後に続いて教室に入っていった。
全く。これだから女心は面倒だ。
そう思わずにはいられない俺は、チャイムが鳴って誰もいなくなった廊下に一人取り残されていた。
……はぁ……疲れた。今日の弁当も美味しいのがいいな。