伝説の真相
下流へと水の流れに任せて移動し、なんとか岸辺に上がる。治癒力の高い聖水の流れといえど、呪符による傷は全く癒えることはなかった。少女を横に座らせて、青年は震える身体を優しく、でもしっかりと抱き締める。
少女の呼吸は荒く、脈も速い。動揺しているのは明らかだ。それでも抱き締めているうちに落ち着いてはきた。少女の瞳から大粒の涙がこぼれた。
「――もう怖がらなくていい」
頭を何度も撫でる。少女は嗚咽を漏らしながら青年に身体を預けていた。
「……えぇ」
ぽろぽろと次から次へと涙が溢れ、止まない。
「気付いて……らしたのね」
少女は手袋の甲で涙を拭いながら問う。青年は何も答えない。
「あの……化け物が、神官様……で……あることを」
とぎれとぎれに事実を確認してくる。青年はただ頷いた。
「魔法を打ち込んだときに、もしや、って……。君からの話を聞いて、やっと納得がいったんだ。救うことができなくて、すまない」
言葉を詰まらせながら、しかし淡々と青年は答える。
(知っていたら、彼を救うことができただろうか。いや、今の俺では、結局どうにもできなかった。詫びたところで、彼女が納得できるはずがない。俺を恨むことで彼女が気持ちに折り合いをつけることができるなら、それでよしとしよう――)
少女は静かに首を振った。
「あなたは悪くない……。正気をなくしたあの方を苦しませることなく止めを刺しました。それだけでも救われるというものです。あのようなお姿を、民に見せることなどできませんから」
気持ちが楽になったのか、少女も現実を認め、元の冷静さを取り戻す。
「……本当のことをお伝えします」
少女は青年の腕を優しくほどき、わずかに笑む。
「私の名は、シエル=ドラゴン=パトリオット。この国、クリステリア王国聖都市エメロードを統治する神官の長女でございます。そして、エメロード守護神への生け贄です。永き時により街から溢れ出す法力をこの小さき器にため込み、その力を龍神様の力に変えるために身を捧げることを誓わされた者なのです」
困ったように微笑む。その笑顔に力はない。
「……そうか」
青年は短く答え、少し離れる。
(俺も明かしたほうが良いだろうか)
探るような少女の瞳に圧力を感じ、青年は悩む。彼女が何かを聞きたがっているということは、そんな姿勢から察することができた。
口を開きかけて、だが先に喋りだしたのは少女の方だった。
「あなたも、本当のことをお話になって下さいませんか? その、赤みを帯びた瞳は私と同じ、生け贄を示すものでしょう?」
問い質すと言うより、やんわりと促すような問いに青年は決意した。大体、相手に名乗らせておきながら自分は黙ったままと言うのも失礼な話だ。
「俺はヘイゼル=ドラッへ=バルト。モルゲンロートに隣接する聖都市ルビーンに生まれた学者の息子だ。ルビーンにもこのエメロードと同じように龍神に生け贄を捧げる風習が残っている。俺も、君に指摘されるように生け贄の子だった」
ヘイゼルと名乗った青年の告白に少女が身を固くしたのがわかった。
「……だった?」
シエルの疑問に、ヘイゼルは首を小さく縦に振る。
「祭の年の一年前にルビーン出身の子どもたちが集められるんだ。当時俺は既にモルゲンロート使節団で働いていて、両親が俺を呼び戻すことになっていたんだが連絡が来なくてさ。龍神の伝説については俺も小さな頃から聞かされていて知っていたから、突然瞳が赤く染まった理由が生け贄に選ばれたからだってすぐにわかった。だが、仕事が忙しくて故郷に連絡すらできない。そのうちに赤の龍の祭りが滞りなく行われたことを、仕事仲間から聞いた」
「それで、どうなったんですか? あなたがいないまま、祭りが終わって、その後は……」
興味があるらしく、シエルが身を乗り出すようにして訊いてきた。ヘイゼルは続ける。
「祭りから一年後、ルビーンが天災に見舞われたとの報が入った。仕事も兼ねて俺は故郷に帰ることになったんだ。戻ったルビーンはかつての観光地としての機能を一切失い、荒廃していた。神殿が焼かれ、街の人もほとんど故郷を捨てていた。俺の両親は臨時に設けられた教会に保護され、俺に伝説のすべてを話した。――伝説にはこうある。二十歳を迎える前の子は龍の力になるが、それを越えるとその力はすべてその子のものとなる。その身を捧げんとするを拒む者は……神殺しとなる、と」
シエルははっと両手を口元にあてた。ヘイゼルは彼女を見てやんわりと笑む。
「しかし、本当は違うんだ。伝説は人間たちに意図的に歪められたものだった。真実はこうだ。――龍の手から二十歳になるまで逃れ続けた者は、龍を地上に降ろす力を得ることができる。つまり、龍神がこの世を偵察するための媒体になるということだったんだ」
「なんですって?」
少女の瞳が揺れる。
「人間は、神の力がこの世に及ばぬ事のないように、身内を犠牲にしていたんだよ。だからシエル、君も逃げ切らなくてはいけない。神は人間を喰うなんて真似はしない。わざわざ喰われてやる必要はないんだ。この世界はだんだんと衰退している。今こそ龍神の力が必要だ」
「……なるほど。そういうことだったのですか」
頷いて告げたシエルの口元が微かに上がった。
「説明、ありがとうございました。……でも私、まだ隠していたことがあるのです」
少女は指先でさっと地面に何かを書き付ける。それは簡略化された魔法陣であった。
「あなたを独房から逃がそうとしたのは、私の代わりに生け贄となって貰おうと思っていたから。向かっていた先は祭壇です」
魔法陣の発動。辺りを光が包み込む。ヘイゼルは咄嗟に腕で視界を遮った。
強烈な眩しさに慣れてそっと様子を窺うと、部屋のようになった行き止まりのこの空間の至る所に翠玉色の光る文字が浮かんでいるのが目に入った。
(この文字、古代文字じゃないか)
ヘイゼルはそれが現在廃止となって使う者がほとんどいない、古代文字として区別された文字であることを認識する。その文字の列がさらに一つの魔法陣を形作っていることに驚愕した。
「これは一体……」
シエルに視線を移すと、彼女は白く細い指先を朱に染め、持ってきていた荷物の中にあった羊皮紙の魔法陣の続きを描いている。一冊の分厚い本の中程を開き、熱心に、呪文を唱えながら、自身の血で描いているのだ。
(待て、待て待て待てっ! この呪文はっ)
ヘイゼルは咄嗟に身構えた。聴いたことのある旋律に、自然と防御の反応をしてしまう。彼女の唱えている呪文は、彼の首と四肢に巻かれていた呪符を付けられる際に神官が唱えていたもの、それであったからだ。
(代わりの生け贄って……彼女、本気でそうしようとして――)
「ちっ」
裏切られたと思い、小さく舌打ちをする。反射的に印を結び、対抗呪文を唱える。
じゅうっ……。
足首が焼ける感覚がした。ヘイゼルはその激痛に、術を唱えるのを止める。どうやらこの空間自体が結界になっているらしい。
(くそっ……ついてないな……)
こうなったら、呼びかけて止めさせるよりほかはない。
「止めてくれ! シエル!」
しかし必死の訴えは空しく、術は間もなく完成した。
「モノ・シール・ディス・ブラディア!」
緑の輝きが少女の前に集まり、かと思うとその塊はヘイゼルに勢い良く突進する。
避けることはできない。
(あれは……)
シエルの目尻がきらりと光ったのが見えたかと思った直後、ヘイゼルの意識は途絶えた。