第5章・第10話:白き騎士の誓約(ノブリスオブリージュ)
暴走したマザーシステムとの強制接続が切断され、絶対零度の静寂が戻ったクリスタルの城。
シエルの強引なシャットダウンにより、システムに操られていた『白き修羅』は糸の切れた人形のように崩れ落ち、沈黙していた。
バルドの義手からは限界を告げる白煙が上がり、ティオも安堵から床に座り込んでいる。
「……終わった。これで、やっと……」
シエルが荒い息を吐きながら、銀の魔導鍵を下ろそうとした、その時だった。
「――ああ。終わったよ。私の脳内で鳴り響いていた、あの狂った機械のノイズは」
静かな、けれど確かな『人間の意志』を宿した声が響いた。
ハッとしてシエルたちが視線を向けると、硝子の床に倒れ伏していたカイルが、ゆっくりと身体を起こしていたのだ。
虚無に染まっていた瞳からは、システムによる青白い光も、赤黒いエラーの光も完全に消え去っている。そこにあったのは、かつて王都でシエルたちと対峙し、そして誰よりも真面目に世界の行く末を案じていた青年――カイル・イグノタフの、穏やかで理知的な瞳だった。
「カイル……! あんた、正気に戻ったのね!」
シエルが顔をほころばせる。
カイルはゆっくりと立ち上がり、白銀の甲冑の土埃を払うと、シエル、バルド、そしてティオの三人へ向けて、深く、美しい騎士の礼をとった。
「シエル。そしてプロウォーカーの二人とも。……君たちのおかげで、私はただバグを処理するだけの狂った機械から、再び『私自身』に戻ることができた。この恩は、一生忘れない。本当に、ありがとう」
「へっ、気にするな。ウチの自慢のハッカーが、あんたの頭の配線をぶっこ抜いてやっただけさ」
バルドが照れ隠しのように鼻を擦り、ティオも嬉しそうに尻尾を揺らす。
「これでやっと、一緒におかしくなっちゃったこの街を直せるね!」
ティオが無邪気に笑いかけた。
――だが。
その直後、カイルは静かに首を横に振り、足元に落ちていた『白銀の聖剣』と『漆黒の魔剣』の柄を、再びその両手でしっかりと握りしめた。
キィン……! と、二振りの剣から、先ほどまでの無機質なシステムの光とは全く違う、カイル自身の純粋で力強い魔力が立ち昇る。
「……なっ、おい! 何の冗談だ、カイル!?」
バルドが血相を変え、黒焦げになった義手を咄嗟に構える。ティオも驚いて獣耳をピンと立て、後ずさった。
「冗談ではない。……私は正気に戻った。だが、だからこそ、君たちとはここで戦わなければならない」
カイルの悲痛な、しかし揺るぎない決意を秘めた声が、硝子の図書館に響き渡った。
「どういうことよ、カイル! あんたを操っていたシステムは切断したのよ!? もう、誰も石にする必要なんてないじゃない!」
シエルが激昂し、銀の鍵を握り直す。
カイルは悲しげに目を伏せ、自らを狂わせていた本当の元凶について、独白するように静かに語り始めた。
「……シエル。私がなぜ、最近まで正気を失い、特務部隊の傀儡のように振る舞っていたか……君は知る由もないだろう」
「え……?」
「かつて私が父の操り人形として縛られていたのは、過去の話だ。だが私は、この氷雪地帯へ向かう過酷な一人旅の途中で、吹雪の中に忘れ去られた未知の『書館』を見つけた。そしてその奥深くで……世界の真理が記された一冊の『魔書』に触れてしまったんだ」
カイルは左手の魔剣を強く握りしめる。
「その魔書の強烈な呪いによって精神をダイレクトにハッキングされ、私はまたしても、自らの意志を持たない人形へと堕ちていた……」
「そんな……旅の途中で、またあんな呪いに……」
シエルが痛ましげに息を呑む。
「だが、あの魔書が私に見せたのは、呪いだけではなかった。私はあの時、魔書を通じて『世界のシステムが崩壊していく未来(バグの終着点)』を、この脳に直接ダウンロードされてしまったんだ」
「世界の、崩壊……?」
「ああ。この特異点のマザーシステムに接続されたことで、魔書の呪い自体は上書きされ、消え去った。……だが、魔書が見せた『真実』だけは、私の記憶に鮮明に残っている」
カイルは真っ直ぐにシエルを見つめた。
「シエル。君は五つの金の鍵を使って、この狂ったマザーシステムを根底から書き換え(デバッグし)ようとしているのだろう。だが……それは不可能だ。この世界のシステムはすでに限界容量を超えている。もし君がマスターキーで強引な書き換えを行えば、その膨大な演算の『反動』は、術者である君自身の精神と肉体を完全に焼き尽くし、データごと消滅させてしまう!」
シエルは絶句した。
カイルの言葉は、ウォーカーとしての彼女自身も薄々感づいていたリスクだった。この特異点に集約された魔力はあまりにも巨大すぎる。それを個人のローカル権限で書き換える行為は、文字通り「命をチップにしたロシアンルーレット」に等しい。
「君が命を落とせば、世界を直す希望は完全に潰える。……だから私は、自らの意志で、この双剣の力を使ってクリスタル・フォールを完全に『石化(凍結)』させる。世界を直すのではなく、時間が止まったアーカイブとして永遠に封印する。そうすれば、システムが崩壊することもなく、君が犠牲になることもない」
「ふざけないで!!」
シエルの怒声が、硝子の城の空気をビリビリと震わせた。
「あんたがすべてを石にして封印するってことは、あんた自身も永遠にこの極寒の街で、システムを抑え込むための『人柱』になるってことじゃない! そんな自己犠牲、私が認めるわけないでしょ!!」
「……これが、イグノタフの騎士としての、私の『ノブリス・オブリージュ(高貴なる者の義務)』だ」
カイルの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ち、クリスタルの床で冷たい音を立てて弾けた。
操り人形としての涙ではない。仲間を、世界を、そして目の前にいる大切な学友を救うために、自らがすべての泥を被り、永遠の孤独を引き受けるという『人間の覚悟』の涙だった。
「民の命運を背負い、誰よりも困難な道を一人で歩む。それが上に立つ者の義務であり、私の誇りだ。……シエル。君を死なせるわけにはいかない。どうか、ここで引いてくれ」
「……カイル。あんたって奴は、本当に昔から、真面目で、不器用で……大馬鹿野郎よ」
シエルは俯き、こぼれそうになる涙をグッと堪えて、白銀の魔導コートを強く翻した。
彼女が顔を上げた時、そのアメジストの瞳には、カイルの悲壮な覚悟を正面から打ち砕く、圧倒的なハッカーとしての『矜持』が燃え盛っていた。
「私はプロウォーカーよ! バグから逃げて、友達を人柱にして見捨てるような三流じゃない!! あんたが一人で全部背負い込むっていうなら、私は力ずくであんたのその『意地』をへし折って、一緒に世界をデバッグしてやるわ!!」
シエルが『銀色の魔導鍵』を突き出すと同時に、四つの金の鍵が激しく共鳴し、彼女の全身をまばゆい演算の光が包み込む。
その隣で、バルドが黒焦げになった義手からパージ用のボルトを引き抜き、予備の魔力シリンダーをガシャンと装填した。ティオもまた、鋭い牙を覗かせてサバイバルナイフを構える。
「……言葉が通じねえなら、拳で語り合うしかねえ。昔っから、ダチの目を覚まさせるのは相場が決まってるからな!」
「カイルお兄ちゃんのバカ! 一人で勝手に決めないでよ!」
三人の揺るぎない闘志を受け、カイルは静かに目を閉じ、そして再び開いた。
そこに迷いはなかった。
「……ならば、力で証明してみせろ。私を止めるだけの力が、君たちの覚悟にあるということを!」
カイルが双剣を交差し、自身の全魔力を解放する。
暴走したシステムに操られた機械ではなく。互いの信念と、互いの命を守りたいという優しすぎる想いが交錯する、真の決戦。
絶対零度のクリスタルの城で、シエルとカイルの、涙と光に彩られた最終ハッキングバトルが今、幕を開けた。




