忘却
警報音が地下区画を満たしていた。
執行部増援、到達まで三分。
結界再構築、開始。
封鎖手順、最終段階。
逃げ場はない。
アルクウェールは理解していた。
ここで起きる出来事は、公式記録に残らない。
残せない。
「行きましょう」
彼はエイルの手を取った。
小さな手だった。
温かい。
だが通路の出口に、すでにレオンが立っていた。
「予想通りです」
静かな声。
「あなたは合理的ではない」
周囲の空間が歪む。
今度は先ほどとは違った。
出力ではなく、精度。
天才が本気で術式を組んでいる。
数百の魔術式が同時展開される。
火、重力、圧縮、位相固定。
すべてが完全に同期していた。
「これは止められません」
レオンが言う。
「あなたでは」
アルクウェールは否定しなかった。
「そうだろうな」
彼は天才ではない。
爆発的な出力もない。
革新的発想もない。
ただ一つ。
長く考え続けてきただけだ。
「だが君は勘違いしている」
彼は床に膝をつき、小さな魔術式を書いた。
あまりにも簡素な式。
初級術にも満たない。
レオンが眉をひそめる。
「それで何を?」
アルクウェールは答える。
「何もしない」
式が起動する。
魔力はほとんど流れない。
干渉もしない。
攻撃でも防御でもない。
ただ。
世界の“基準”を記述しただけだった。
現象層でも魔力層でもない。
――法則層への参照式。
レオンの巨大術式が、わずかに揺らぐ。
「……何をした?」
「戻しただけだ」
アルクウェールは立ち上がる。
「魔術は誤差を生む。なら誤差が生まれる前の状態を基準にすればいい」
術式群が崩れ始める。
破壊ではない。
成立条件そのものが消えていく。
天才の魔術は完璧だった。
だからこそ、前提が崩れると維持できない。
レオンが初めて焦りを見せた。
「不可能だ……人間が法則層を参照できるはずが――」
アルクウェールは静かに答えた。
「参照したんじゃない」
隣を見る。
エイルが立っている。
「観測しただけだ」
少年の存在が、世界の基準点になっていた。
術式が完全に消える。
静寂。
レオンはしばらく動かなかった。
そして、小さく笑った。
「……負けですね」
悔しさではなく、納得の声だった。
「あなたは世界を理解しすぎた」
彼は杖を落とす。
「ですが覚えておいてください。均衡は必ず崩れる。あなたが止めても、いずれ」
アルクウェールは頷いた。
「知っている」
それが真実だからだ。
世界は完全には戻らない。
誤差はまた積み重なる。
だから――いつか。
勇者が必要になる。
増援の足音が近づく。
アルクウェールはエイルにしゃがみ込む。
「これから少し離れる」
「いっしょじゃないの?」
胸がわずかに痛んだ。
「大丈夫だ。君は忘れない」
彼は小さな護符を渡す。
認定部の紋章。
だが内部には、座標固定式が刻まれていた。
「世界が揺れたら、それを持って西へ行け」
意味は分からなくてもいい。
未来の誰かが理解する。
足音がすぐそこまで来る。
アルクウェールは振り返り、静かに手を上げた。
拘束術式が展開される。
抵抗しない。
執行官が告げる。
「アルクウェール・ローナン。国家管理対象への不正干渉により拘束する」
彼は微笑んだ。
「認定理由は?」
執行官は答える。
「未認定魔術の行使」
少し考え、彼は頷いた。
「それは仕方ないな」
――数ヶ月後。
事件記録は封印された。
民間研究機関の関与も。
隔離対象の詳細も。
戦闘記録も。
すべて機密指定。
公式報告には、ただ一行だけ残った。
「局所的魔術暴走、収束済み」
アルクウェール・ローナンの名は、昇進記録からも削除された。
追放でも処刑でもない。
ただ配置転換。
誰も訪れない地方観測所。
彼はそこで、静かに記録を書き続けた。
世界の誤差を。
誰にも読まれない報告書を。
そして三十八年後。
世界は再び揺れ始める。
魔力暴走。
飢餓。
災害。
戦争の兆し。
人々は言う。
「なぜこんなことが起きたのか」と。
答えはすでに存在していた。
だがそれを書いた男の名前を、もう誰も覚えていない。
ただ一人を除いて。
遠い西の空を見上げる青年が、無意識に古い護符を握りしめていた。




