誤差
崩れた通路に、静寂が落ちていた。
戦闘は止まっている。
いや、正確には。
続ける意味を失っていた。
エイルが立っているだけで、魔術は安定しない。
術式が成立する前提が揺らいでいる。
レオンは杖を下ろしたまま言った。
「認定部長。あなたはもう理解しているはずだ」
アルクウェールは答えない。
代わりに床へ視線を落とす。
砕けた石片。
焼け跡。
歪んだ空間。
そして――
わずかに修復され始めている亀裂。
エイルの周囲だけ、世界が“正しい形”へ戻っていた。
「君の雇い主は」
アルクウェールが静かに言う。
「この子を兵器にする気はないな」
レオンが笑った。
「逆です」
「兵器になる前に消す」
その言葉は冷たかった。
「戦争が終われば、武器は不要になる。均衡は崩れる。世界は停滞する」
「……武器商人の理屈か」
「現実主義です」
レオンは続ける。
「この子は“修正”してしまう。争いも、暴走も、過剰な魔力も。すべてを平均へ戻す」
アルクウェールの脳内で、長年の疑問が繋がり始めていた。
微小誤差。
魔術成功率の低下。
理論値との差異。
世界は壊れているのではない。
積み重なっている。
「魔術は……借り物なんだな」
彼は呟いた。
レオンが目を細める。
「続けてください」
アルクウェールはゆっくり話し始めた。
それは誰に向けた説明でもなかった。
理解に至るための独白だった。
「魔術は魔力層を操作する技術だ。だが魔力層は独立していない。法則層に支えられている」
壁の破片を拾い上げる。
「我々は現象を再現するたび、わずかにズレを生む」
石を落とす。
本来なら真下へ落ちる。
だがほんの一瞬、軌道が揺れた。
「誤差は微小だ。観測不能なほどに」
彼はエイルを見る。
「だが数千年続けば?」
沈黙。
レオンが答えた。
「世界そのものが、計算から外れる」
頷き。
「そうだ。魔力暴走も、術式不安定も、自然災害も……すべて同じ原因だ」
世界が疲れている。
魔術という便利な技術に。
「つまり」
レオンが低く言う。
「世界には修正機構が必要になる」
アルクウェールは目を閉じた。
古い文献。
神話。
周期的に現れる存在。
英雄。
救世主。
勇者。
――全部、同じものだ。
「勇者は選ばれる存在じゃない」
彼は静かに言った。
「世界が“必要になった時”に現れる補正だ」
エイルが小さく首をかしげる。
意味は分かっていない。
だが話の中心に自分がいることだけ感じている。
「この子は勇者ではない」
アルクウェールは続ける。
「だが、勇者が生まれる理由そのものだ」
誤差が臨界に近づいている。
だから世界は先に“兆候”を生んだ。
観測不能の存在。
レオンが静かに息を吐く。
「だから消す必要がある」
「なぜだ」
「均衡が早すぎるからです」
彼の声は真剣だった。
狂気ではない。
信念だった。
「戦争は世界を進める。技術を生み、国家を変え、人を前へ進ませる」
一歩踏み出す。
「だがこの子がいれば、すべて収束する。争いは起きない。進歩も止まる」
アルクウェールは初めて怒りを覚えた。
「それは進歩じゃない」
低い声。
「消耗だ」
沈黙。
遠くで警報が再び鳴り始める。
執行部の増援が近づいていた。
時間がない。
アルクウェールは理解していた。
ここから先は理論では終わらない。
選択になる。
世界の均衡か。
一人の子供か。
彼はエイルの前に立った。
「帰ろう」
その言葉は、戦闘開始の宣言だった。




