観測者
魔術とは、奇跡ではない。
少なくともアルクウェール・ローナンは、そう考えていた。
魔法省中央庁舎は、外から見ればただの白い石造りの建物に過ぎない。だが内部では、世界中の法則が書き換えられ続けている。
正確には――書き換えられることを防いでいる。
「未認定魔術、北方大地魔法大学より提出。第七分類、構造改変系統」
書記官の声が静かな執務室に響いた。
アルクウェールは視線を上げず、書類を一枚めくる。
机の上には魔術式ではなく、数式に近い記号列が並んでいた。
一般の魔術師が見れば理解不能なそれを、彼は淡々と読み進める。
「……理論層への干渉が浅いな」
「危険性は?」
「低い。ただし――」
彼はペン先で式の一点を叩いた。
「法則層との同期を取っていない。長期使用で誤差が蓄積する」
書記官が首をかしげる。
「誤差、ですか?」
アルクウェールは少し考え、言葉を選んだ。
魔術認定部の仕事は審査だが、本質は教育に近い。理解されなければ、規制は守られない。
「この世界はね、完全には出来ていない」
唐突な言葉だった。
「世界には“層”がある。私たちが触れている物理現象の層。その下に魔力が流れる層。そしてさらに下――」
彼は紙の端に三本の線を引いた。
⸻
現象層
魔力層
法則層
⸻
「魔術師が操作できるのは魔力層までだ。普通はね」
「では法則層は?」
「触れてはいけない場所だ」
即答だった。
魔術とは、魔力を使い現象を再現する技術に過ぎない。
火球を生むのは火を“作る”からではない。燃焼という現象を魔力で模倣しているだけだ。
だから魔術には必ず消費がある。
だから世界は壊れない。
――本来は。
アルクウェールは提出された研究報告を閉じた。
「これは差し戻し。修正指示を出してくれ」
「理由は?」
「世界に負担をかける」
書記官は苦笑した。
「抽象的ですね」
彼は少しだけ笑った。
「抽象的でいいんだ。具体的に説明できる頃には、もう遅い」
窓の外では魔導交通船が空を滑っていた。
魔術は進歩している。
年々速く、強く、効率的に。
誰もがそれを誇らしく思っている。
だがアルクウェールには、違って見えていた。
――世界が、わずかに軋んでいる。
数値では測れないほど小さなズレ。
魔術式の計算結果と現実の誤差。
再現率99.999%のはずの術式が、時折わずかに逸脱する。
誰も気にしない程度の揺らぎ。
だがそれは、確実に増えていた。
彼は机の引き出しから古い記録帳を取り出す。
十年前。七年前。三年前。
同じ種類の報告。
同じ微小誤差。
そして増加傾向。
「……おかしい」
独り言が漏れた。
その時、扉が強く叩かれた。
珍しいことだった。魔術認定部に慌ただしさは似合わない。
「部長!」
若い職員が息を切らして入ってくる。
「執行部から通達です。至急出頭命令が――」
言葉が途中で止まる。
職員の顔色が明らかに悪い。
「どうした」
沈黙。
そして彼は、震える声で言った。
「……保護対象の確保に失敗したそうです」
「保護対象?」
「分類外個体。観測不能反応を示す児童が――」
アルクウェールの手が止まった。
観測不能。
その言葉は、魔術体系の中でただ一つの意味しか持たない。
――理論が通用しない存在。
「現在、執行部が強制収容を開始しています」
窓の外で、遠く警報の光が瞬いた。
アルクウェールはゆっくり立ち上がる。
胸の奥に、説明できない確信があった。
長年感じていた世界の誤差。
それが今、形を持って現れたのだと。
「……行こう」
「どちらへ?」
彼は外套を手に取りながら答えた。
「問題が起きている場所へ」
そしてそれが、
彼の人生を静かに終わらせる物語の始まりだった。




