第9話 踏み込む理由
左手は、もう動かなかった。
力を入れても、
脳が命令を出している感覚だけが残り、
指はぴくりとも反応しない。
それでも、不思議と焦りはなかった。
――想定内だ。
世界は、段階的に削ってくる。
いきなり全部は奪わない。
それはきっと、
“修正”だからだ。
俺が妹を救ったという事実を、
なかったことにするための、
丁寧な手順。
だから俺は、確かめることにした。
世界は、どこまで俺を許容しているのか。
学校帰り、妹と一緒に歩いた。
意図的に。
今までは避けていた。
同じ時間、同じ道、同じ空間。
重なれば、
世界が動くと分かっていたから。
「……今日は一緒に帰るの?」
妹が、不安そうに聞く。
「たまにはいいだろ」
自分でも驚くほど、
普通の声が出た。
交差点。
例の場所。
信号は赤。
人は少ない。
胸の奥が、静かにざわつく。
――来るか?
青に変わる。
何も起きない。
拍子抜けするほど、
世界は静かだった。
一歩、踏み出す。
妹と、並んで。
それでも、
修正は来ない。
「……ねえ、お兄」
妹が、ぽつりと言った。
「事故のあとから、
お兄、たまに“遠く”にいるみたい」
胸の奥が、きしむ。
「私、助かったよね」
問いじゃない。
確認だ。
「……ああ」
「それなのに、
お兄が消えそうで怖い」
言葉が、喉に詰まる。
世界は、
妹の命を取る代わりに、
俺の存在を削っている。
それを、妹は直感的に感じている。
「大丈夫だ」
そう言うしかなかった。
嘘だと分かっていても。
その瞬間、
視界が歪んだ。
音が、遠のく。
――来た。
妹の姿が、
一瞬だけ、二重に見える。
世界が、
「近づきすぎだ」と警告している。
俺は、立ち止まらなかった。
むしろ、
一歩、前に出た。
意図的に。
「……お兄?」
「大丈夫。ちょっと、眩暈がしただけだ」
本当は、
身体の感覚が一つ、消えた。
左足の感触が、薄い。
それでも、
踏み出す。
妹と一緒に、
交差点を渡りきる。
渡り終えた瞬間、
世界が、静止したように感じた。
――踏み込んだ。
0.02%の、その先に。
その夜、
医師が現れた。
電話でも、病院でもない。
玄関の前。
最初から、
そこにいたみたいに。
「やめておけばよかったのに」
責める声じゃない。
確認する声だ。
「君は今、
世界の“自動修正”を無効化し始めている」
「……妹を守るためだ」
「違う」
医師は、静かに否定した。
「君は、
妹が“兄を失う未来”を否定している」
胸の奥を、
正確に撃ち抜かれる。
「妹が生きる未来に、
君がいないのは、おかしい」
そう言うと、
医師は少しだけ、困ったように笑った。
「それはもう、
“救済”じゃない」
「“反逆”だ」
反逆。
その言葉が、
なぜか、しっくりきた。
「止める気はない」
俺が言うと、
医師は一瞬だけ、目を伏せた。
「……なら、次は本当に消える」
「記憶も、名前も、
妹の中の“兄”も」
その可能性を想像して、
初めて、恐怖が湧いた。
「それでも?」
「それでも」
即答だった。
医師は、ゆっくり頷く。
「分かった」
「じゃあ次は、
“世界が君を消す前に”、
君が世界の前に立て」
意味は、まだ分からない。
でも、
戻れない地点を越えたことだけは、分かる。
妹を救っただけでは、終われない。
俺は、
妹と一緒に生きる未来を、
この世界に強制する。
それが、
俺の踏み込む理由だ。




