第3話 検査室
病院の匂いは、いつも同じだった。
消毒液と、わずかに鉄の混じった空気。
「あの交通事故のあと、念のために軽い検査を受けるように言われて」
そう説明すると、受付の女性は慣れた様子で頷いた。
カルテを確認し、番号札を差し出す。
事故。
――本来なら、俺は死んでいたはずの出来事。
大型車両が信号を無視し、横断歩道に突っ込んだ。
俺は巻き込まれ、身体を強く打った。
それでも、目を覚ました。
生きていた。
医師は「奇跡に近い」と言った。
骨折も内臓損傷もなく、軽い打撲だけで済んだ、と。
0.02%。
あの数字は、この事故のことだったのだと、今なら分かる。
待合室の椅子に座り、天井を見上げる。
蛍光灯の光が、少しだけ眩しい。
周囲には、俺より年上の患者ばかりだった。
咳をする人、スマホをいじる人、目を閉じている人。
誰も知らない。
俺が一度、ここに来たことを。
いや、正確には――
「何度も来ている」ことを。
七回目のループで、俺はこの病院の奥に呼ばれた。
使われていないはずの、古い診察室。
医師は、最初から俺のことを知っていた。
「君は、もう何度もやり直している」
そう言われた瞬間の、背中をなぞる冷たい感覚を思い出す。
番号が呼ばれ、診察室に入る。
白衣の医師は、初対面の顔をしていた。
「体調に変わりは?」
「特にありません」
嘘ではない。
少なくとも、身体のどこも壊れてはいない。
問題があるとすれば、
壊れているのは、世界のほうだ。
聴診器を当てられ、簡単な問診を終える。
医師はカルテに何かを書き込みながら言った。
「念のため、経過観察ですね」
それだけだった。
特別な言葉も、警告もない。
――今日は、まだ“起きていない”。
診察室を出たとき、俺は無意識に廊下の奥を見ていた。
あの古い扉があるはずの方向。
だが、そこには何もない。
ただの白い壁と、消灯された照明だけ。
偶然。
計算外。
医師の言葉が、脳裏をよぎる。
俺がそこにいること。
それだけが、条件。
「そこ」がどこなのか、まだ分からない。
けれど一つだけ、確信があった。
あの事故で生き残ったこと自体が、
すでに“修正しきれなかった不整合”なのだと。
妹の死だけが、例外じゃない。
――世界は、もう歪み始めている。




