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第12話 踏み込んだ代償

妹は、助かった。


医師たちは原因不明と言い、

検査結果はすべて「異常なし」だった。


心拍は安定し、

意識もはっきりしている。


――生きている。


その事実だけが、

現実から切り取られたみたいに浮かんでいた。


「ほんと大げさだよね」


ベッドの上で、妹は笑った。


「ちょっと気分悪くなっただけなのに」


その言葉に、返事ができなかった。


気分が悪いだけで、

世界が止まるわけがない。


俺は、世界をねじ曲げた。



病室を出た瞬間、

膝が笑った。


立っていられない。

力が抜ける。


さっきまで、

確かに“何か”が俺の中を通った。


熱でも、電流でもない。

もっと不快で、

もっと生々しい感覚。


自分の一部が、削り取られた感じ。


「……代償、か」


誰にともなく呟いた。


返事はない。

でも、確信だけが残っていた。


助けた。

踏み込んだ。

否定した。


だから――

帳尻を合わせに来る。



その日の夜、

妙な違和感に気づいた。


スマホのロックを解除しようとして、

パスコードが思い出せない。


何度か試して、

ようやく開いた。


「……俺、こんな数字だっけ」


些細なこと。

疲れているだけ。


そう思おうとした。


でも次は、

妹の誕生日が、

一日ずれて思い出された。


次は、

高校の入学式の日付。


記憶が、

微妙に、噛み合わない。


「はは……」


乾いた笑いが出た。


あの医師の言葉が、

遅れて効いてくる。


――世界は、あなたを消したい。


直接じゃない。

今すぐじゃない。


存在の輪郭を、薄くする。



翌朝、

妹は元気に学校へ行った。


昨日までと変わらない笑顔。

変わらない声。


なのに、違和感があった。


「……あれ?」


玄関で靴を履く妹を見て、

胸がざわつく。


何かが違う。

でも、それが何か分からない。


「どうしたの?」


「いや……なんでもない」


言葉にできなかった。


理由は単純だった。


妹の声が、少しだけ遠い。


聞こえているのに、

届いていないみたいな感覚。


まるで、

世界に薄い膜が張られたみたいに。



昼過ぎ、

大学病院に呼び出された。


例の医師からだ。


断る理由はなかった。

むしろ、行かない選択肢がなかった。


古い診察室。


前と同じはずなのに、

椅子の位置が違う。


時計の秒針が、

逆回りしている。


「おめでとうございます」


医師は、淡々と言った。


「世界の修正を、初めて止めましたね」


「……代償は、これですか」


記憶の違和感。

感覚のズレ。


医師は、軽く頷いた。


「あなたは“そこにいすぎた”」


「本来、あなたは観測者だ」


「でも昨日、あなたは――

 原因になった」


胸が、ひどく重くなる。


「代償は、あなた自身です」


「正確には、

 世界にとって不要になった情報」


「……つまり」


「あなたが、あなたである理由が

 少しずつ削られていく」


逃げ道は、なかった。



帰り道、

自分の名前をフルネームで言えなくなった。


途中までしか、思い出せない。


代わりに、

妹の笑顔だけが、

やけに鮮明に浮かぶ。


――ああ。


世界は、うまくできている。


妹を救えば、

俺が削れる。


俺を保てば、

妹が死ぬ。


どちらかしか、

存在を許されない。


「……それでも」


声に出すと、

喉がひりついた。


それでも、

選択は一つしかなかった。


俺が薄れても、

記憶が壊れても、

名前を失っても。


妹が生きているなら、

それでいい。



その夜、

日記を書こうとして、

ペンが止まった。


何を書けばいいか、

分からなかった。


昨日の出来事を、

言葉にできない。


代わりに、

一行だけ書いた。


「俺は、まだ選んでいる」


インクが滲んだ。


それが、

俺が“俺”でいられる、

最後の証明になる気がした。


――踏み込んだ代償は、

もう始まっている。

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