第12話 踏み込んだ代償
妹は、助かった。
医師たちは原因不明と言い、
検査結果はすべて「異常なし」だった。
心拍は安定し、
意識もはっきりしている。
――生きている。
その事実だけが、
現実から切り取られたみたいに浮かんでいた。
「ほんと大げさだよね」
ベッドの上で、妹は笑った。
「ちょっと気分悪くなっただけなのに」
その言葉に、返事ができなかった。
気分が悪いだけで、
世界が止まるわけがない。
俺は、世界をねじ曲げた。
◆
病室を出た瞬間、
膝が笑った。
立っていられない。
力が抜ける。
さっきまで、
確かに“何か”が俺の中を通った。
熱でも、電流でもない。
もっと不快で、
もっと生々しい感覚。
自分の一部が、削り取られた感じ。
「……代償、か」
誰にともなく呟いた。
返事はない。
でも、確信だけが残っていた。
助けた。
踏み込んだ。
否定した。
だから――
帳尻を合わせに来る。
◆
その日の夜、
妙な違和感に気づいた。
スマホのロックを解除しようとして、
パスコードが思い出せない。
何度か試して、
ようやく開いた。
「……俺、こんな数字だっけ」
些細なこと。
疲れているだけ。
そう思おうとした。
でも次は、
妹の誕生日が、
一日ずれて思い出された。
次は、
高校の入学式の日付。
記憶が、
微妙に、噛み合わない。
「はは……」
乾いた笑いが出た。
あの医師の言葉が、
遅れて効いてくる。
――世界は、あなたを消したい。
直接じゃない。
今すぐじゃない。
存在の輪郭を、薄くする。
◆
翌朝、
妹は元気に学校へ行った。
昨日までと変わらない笑顔。
変わらない声。
なのに、違和感があった。
「……あれ?」
玄関で靴を履く妹を見て、
胸がざわつく。
何かが違う。
でも、それが何か分からない。
「どうしたの?」
「いや……なんでもない」
言葉にできなかった。
理由は単純だった。
妹の声が、少しだけ遠い。
聞こえているのに、
届いていないみたいな感覚。
まるで、
世界に薄い膜が張られたみたいに。
◆
昼過ぎ、
大学病院に呼び出された。
例の医師からだ。
断る理由はなかった。
むしろ、行かない選択肢がなかった。
古い診察室。
前と同じはずなのに、
椅子の位置が違う。
時計の秒針が、
逆回りしている。
「おめでとうございます」
医師は、淡々と言った。
「世界の修正を、初めて止めましたね」
「……代償は、これですか」
記憶の違和感。
感覚のズレ。
医師は、軽く頷いた。
「あなたは“そこにいすぎた”」
「本来、あなたは観測者だ」
「でも昨日、あなたは――
原因になった」
胸が、ひどく重くなる。
「代償は、あなた自身です」
「正確には、
世界にとって不要になった情報」
「……つまり」
「あなたが、あなたである理由が
少しずつ削られていく」
逃げ道は、なかった。
◆
帰り道、
自分の名前をフルネームで言えなくなった。
途中までしか、思い出せない。
代わりに、
妹の笑顔だけが、
やけに鮮明に浮かぶ。
――ああ。
世界は、うまくできている。
妹を救えば、
俺が削れる。
俺を保てば、
妹が死ぬ。
どちらかしか、
存在を許されない。
「……それでも」
声に出すと、
喉がひりついた。
それでも、
選択は一つしかなかった。
俺が薄れても、
記憶が壊れても、
名前を失っても。
妹が生きているなら、
それでいい。
◆
その夜、
日記を書こうとして、
ペンが止まった。
何を書けばいいか、
分からなかった。
昨日の出来事を、
言葉にできない。
代わりに、
一行だけ書いた。
「俺は、まだ選んでいる」
インクが滲んだ。
それが、
俺が“俺”でいられる、
最後の証明になる気がした。
――踏み込んだ代償は、
もう始まっている。




