第9話:青い蛇の杖を持つ男
カツン、カツン、と。
乾いた足音が、地下室の沈黙を切り裂いていく。 闇の向こうから現れたその男を見た瞬間、全身の血が凍りついた。
整えられた白髪に、隙のない三つ揃えのスーツ。 その男——九条宗次郎は、倒れ伏した桐生を一瞥もせず、ただ私たちだけを見据えていた。
その手に握られた『青い蛇』の杖が、嫌な光を放っている。
「……桐生も詰めが甘いな。だが、ようやく会えたね。私の『部品』たち」
穏やかで、けれど鼓膜にへばりつくような声。 橘さんが、一歩前に出て銃を構えた。その銃口は微かに震えている。
「動くな! 九条宗次郎……あんたが、この一連の黒幕か。工藤を殺し、街に怪異を撒き散らした……!」
「黒幕? 人聞きの悪い。私はただ、この国の停滞を打破するために、相応しい王を立てようとしているだけだよ」
宗次郎は、橘さんの銃口など気にも留めない様子で、ゆっくりと彼に近づいた。 そして、慈しむような、それでいて冷酷な目で橘さんの顔を覗き込む。
「……近くで見ると、やはりよく似ている。……あの女に」
橘さんの眉が、ぴくりと跳ねた。
「……何の話だ。俺の母さんのことを知っているのか」
「知っているどころか。……君の母、橘美奈子。彼女は私の屋敷で働いていた、実に慎ましい娘だったよ」
宗次郎は目を細め、懐かしむように言葉を紡ぐ。 けれど、その次の言葉は、毒のように橘さんの耳に流し込まれた。
「抗う彼女を組み伏せ、力ずくでその胎内に種を植え付けた時の感触は、今でも覚えている。……お前は、その時に生まれた私の息子だよ。慎一」
一瞬、地下室の空気が止まった。
「……は? 何を、言って……」
橘さんの手が、大きく揺れた。銃口が地面を向く。 橘さんの母親は、彼を女手一つで育て、数年前に病で亡くなったと聞いている。 父親は彼が生まれる前に死んだ、と——そう聞かされていたはずだ。
「嘘だ。……俺の親父は、事故で死んだって……!」
「彼女がそう嘘を吐いたんだろう。自分の人生を壊した男の血が、最愛の息子に流れているなど、死んでも言いたくはなかったはずだ」
宗次郎は、残酷な笑みを深めた。
「お前は、私が無理やり作らせたスペアだ。だが、あいにく本家の血筋が絶えてね。……お前を真の王にするために、邪魔な工藤くんには消えてもらった。喜べ、慎一。お前は今日から、この国の支配者の一員だ」
王。スペア。無理やり作らせた。 その言葉が意味する凄惨な真実に、橘さんの顔から急速に血の気が引いていく。
彼が守ってきた正義。彼が愛した母親。そのすべてが、目の前の男によって汚辱に塗れた。
「……あ、……ぁああ……ッ!!」
橘さんが、喉の奥で獣のような悲鳴を上げた。 崩れ落ちそうになる橘さんの横で、今まで沈黙を守っていた『見えない相棒』が、鋭く吠えた。
「――おい、朱里! ボサッとするな! 来るぞ!」
「えっ……!?」
宗次郎が、青い蛇の杖を床に突いた。
――キィィィィィィィン!!
鼓膜を突き刺すような高周波。
「が、あぁあああ……ッ!!」
隣で、蓮司さんが絶叫した。 実体がないはずの彼の体が、激しくノイズを走らせて歪む。
「蓮司さん!!」
「朱里、……逃げ、ろ……ッ! こいつの杖……霊体を、直接……!」
蓮司さんの姿が、今にも霧散しそうに薄くなっていく。 霊を縛り、魂を砕くために作られた九条家の法具。それが蓮司さんの存在そのものを削り取っていく。
「ふむ、まだ消えぬか。工藤くん、君の執念には敬意を表そう。だが、私の息子を惑わす不純物は排除せねばならん」
宗次郎が冷酷に杖を振り上げる。 橘さんは、自分の出生の真実に打ちのめされ、虚空を見つめたまま動けない。
(嫌だ。そんなの、絶対に嫌だ!)
私の胸の奥で、何かが爆発した。 いつもは受動的に視るだけだった力が、逆流するように体中を駆け巡る。
橘さんの絶望も、蓮司さんの苦痛も、全部この男のせいだ。
「……蓮司さんを、放して……ッ!!」
私は、バッグの中の位牌を、壊れんばかりに強く握りしめた。
――ドクン。
心臓が跳ねた。 視界が真っ白に染まる。 それは記憶を読む時とは違う、純粋な霊力の奔流。
「なっ……!?」
宗次郎が、初めて驚きに目を見開いた。 私の体から溢れ出した青白い光が、地下室を埋め尽くしていく。
魂の断片を、逆回転させる。 死者の記憶を読み取る回路を全開放して、内側にあるエネルギーを外側へ叩き出す!
「橘さん! 立って! 逃げるんです!!」
私は呆然とする橘さんの腕を、渾身の力で引いた。 霊力の暴発によって、地下室に凄まじい霧が立ち込める。
「……くっ、この娘……! 器の分際で、これほどの出力を……!」
宗次郎の怒鳴り声が背後で聞こえる。 私は、薄くなった蓮司さんの霊体を抱きかかえるようにして、橘さんを連れて階段を駆け上がった。
「朱里さん、待て! 俺は、俺は……っ」
「いいから来てください! 生きてなきゃ、ぶん殴ることだってできないんですよ!」
今の私は、自分でも驚くほど冷徹だった。
ーー
施設の外へ飛び出す。 夜の冷たい空気が、熱くなった頬を刺した。
待たせていた橘さんの車に、彼を押し込む。
「運転してください! 早く!」
「あ、あぁ……!」
タイヤが悲鳴を上げ、車が急発進する。 バックミラーに映る九条家の施設は、まるで巨大な怪物の口のように見えた。
車内。 激しい呼吸を繰り返す私の隣で、蓮司さんがぐったりと座席に沈み込んでいた。
「……蓮司さん、大丈夫ですか? 蓮司さん!」
「……あぁ、……うるさい、ぞ。……死人に、大丈夫も、クソも、あるか……」
声が、掠れている。 私は慌てて、バッグの中から位牌を取り出した。
その瞬間。 私は自分の指先に、ゾッとするような感覚を覚えた。
「……っ」
白木の滑らかな表面に、一筋の影が入っていた。
ヒビだ。
蓮司さんの魂を繋ぎ止めている依代に、決定的なダメージが刻まれていた。
「……あぁ。……それ、か。……やっぱり、限界か、な」
蓮司さんが、自嘲気味に笑った。 その体は、先ほどよりも一瞬、確実に透けて見えた。
ーー
事務所に戻るまでの道のり、橘さんはハンドルを握ったまま、死人のような顔で前方を見つめていた。
母を奪い、親友を奪い、自分を「スペア」と呼んだ男。 その血が、今この瞬間も自分の脈を打っている。 その事実が、橘さんの魂を内側から焼き尽くしていた。
事務所のドアを開け、明かりをつける。
私は蓮司さんの位牌を、大切にデスクの上に置いた。 蓮司さんは、ふらふらとした足取りでいつものソファにたどり着き、そのまま溶けるように横になった。
「……朱里。……上出来だ」
「……え?」
「あの状況で……。俺を連れて、逃げ出した……。お前、いつの間にか……ただの助手じゃ、なくなってたんだな」
蓮司さんは、透き通った瞳で私を見つめ、小さく微笑んだ。 それから、消え入るような声で。
「……ちょっと、寝る。……起こすなよ……」
蓮司さんの姿が、すうっと消えていく。 成仏したわけじゃない。魂が、位牌の中へと逃げ込んでしまったのだ。
静まり返った事務所。 橘さんは、入口に立ったまま、自分の手を見つめて震えていた。
「……俺は、化け物の子供だった」
ポツリと、彼が呟いた。
「母さんを苦しめた男の……。蓮司を殺した男の……。俺の中に流れてるこの血が、……気持ち悪いんだ、朱里さん」
橘さんの目から、大粒の涙が床にこぼれ落ちる。
蓮司さんの位牌には、消えないヒビ。 橘さんの心には、あまりに過酷な真実。
逆襲は、まだ終わっていない。 けれど私たちは、あまりに大きな代償を支払わされていた。




