7話:半径25メートルの絶対監獄
「……って、ちょっと! なんで消えるのよ!」
私の叫びが、夜の静かな廊下に響き渡った。 蓮司さんと再会した、あの夜のことだ。
幽霊として現れた彼を連れて、私はひとまず食料を買い出しに行こうと事務所のドアを開けた。 数日ぶりの再会に浮き足立っていた私は、背後の気配がふっと消えたことに、廊下に出て数歩で気づいた。
慌てて振り返ると、さっきまで椅子に座っていた蓮司さんの姿が、霧のように霧散している。
「蓮司さん!? 嘘でしょ、またいなくなったの!?」
パニックになりながら事務所に引き返し、デスクに置いていた白木の位牌をひっつかむ。 すると――。
「……やかましいぞ、朱里。鼓膜が破れるかと思ったぞ。……あぁ、俺に鼓膜はなかったか」
ふわり、と。 位牌のすぐ隣に、再び蓮司さんが姿を現した。 彼は耳を押さえるような仕草をしながら、不機嫌そうに私を睨んでいる。
「な、なんなんですか今の! 急に消えるなんて、心臓に悪いじゃないですか!」
「俺が聞きたい。……お前が事務所を出た瞬間、急に世界が遠のいて、意識が引き裂かれるかと思ったぞ」
蓮司さんは顎に手を当て、深刻そうな顔で事務所の入り口を見つめた。 そして、実験でもするかのように、スッと廊下へ向かって浮遊していく。
「あ、待って――」
彼がドアの境界線を越え、さらに数メートル進んだ瞬間。 またしても、彼の体がノイズのように乱れ、煙のように消え去った。
「えぇっ、また!?」
私が慌てて位牌を持って廊下へ駆け寄ると、彼は再び私の目の前に現れた。
「……ふむ。分析完了だ」
「分析って……。遊んでる場合じゃないですよ!」
「遊んでいるように見えるか? 合理的な検証だ。……どうやら俺の魂は、この位牌から半径25メートル以上離れると、強制的に引き戻されるらしい」
「25メートル……」
私は呆然と、手の中の位牌を見つめた。
たったの25メートル。 陸上のトラックで言えば、ほんの一瞬で通り過ぎてしまう距離。 それが、今の蓮司さんの「世界のすべて」なのだ。
「そんな……。それじゃ、コンビニにも行けないじゃない!」
「……お前、俺をコンビニに連れて行くつもりだったのか?」
「だって、一人にするのは心配だし……。でも、これじゃ不便すぎますよ!」
「いいか、朱里」
蓮司さんは私の目の前までふわりと近づき、その透き通った瞳で私を見据えた。
「お前がこの位牌を持ち歩けばいいだけの話だ。……そうすれば、俺は24時間、お前の護衛兼・相棒として君臨してやる。……感謝しろよ」
「24時間、護衛兼・相棒……」
その言葉の響きに、一瞬だけ胸がときめいた。 けれど、すぐに恐ろしい事実に気がついた。
「待って。24時間ってことは……」
「あぁ。お前の仕事中も、食事中も、寝ている間もだ」
「お、お風呂の時は!? お風呂の時は、絶対に外に置いておいてよ!?」
「……検討しておこう」
「検討じゃなくて、決定です! 変態幽霊!」
「バカを言え。幽霊に性欲があると思うか? 効率的な監視の一環だ」
不敵に笑う相棒。 死んでなお、この人は私のプライバシーを蹂躙する気満々らしい。
幽霊になったことで、皮肉にも私たちは、一秒も離れられない運命になった。 生前よりもずっと、ずっと近い距離。
半径25メートルという名の、絶対的な監獄だ。
「……でも」
私は、そっと位牌を抱きしめた。
「離れなくていいなら、それでいいかな」
「……何かつぶやいたか?」
「なんでもありません! さっさと行きますよ!」
私は位牌をトートバッグに突っ込み、事務所を後にした。 バッグの中から、「おい、揺らすな」という不満そうな声が聞こえる。
それが、たまらなく愛おしくて。
ーー
――そして、現在。
施設の非常用電源が落ち、完全な闇に包まれた実験室。
「……思い出したわ」
私は闇の中で、そっと微笑んだ。
手首を縛る縄は、蓮司さんの放つ青い霊気の熱で、もうじき焼き切れる。 拘束されていても、足元にあるトートバッグの中には、彼がいる。
「25メートル以内に、蓮司さんがいれば。……私は、誰にも負けない」
目の前では、闇に紛れた橘さんが、桐生の私兵たちを次々と無力化していく音が聞こえる。 肉体がぶつかり合う音。うめき声。
そして――。
「……そこか!」
橘さんの怒号とともに、一発の銃声が闇を切り裂いた。 蓮司が弾丸に霊力を分け与えた、特製の霊弾だ。
「ぐ、あぁあああッ!!」
桐生の悲鳴。 彼が手に持っていた対霊用の拘束具が、青い炎に包まれて砕け散った。
「……バカな。なぜ闇の中で、私の位置が正確にわかる……!」
桐生の声に、初めて焦燥が混じる。
私は、焼き切れた縄を引きちぎり、立ち上がった。 目隠しなんて、もういらない。
バッグの中の位牌を通じて、蓮司さんの視界が私の中に流れ込んでくる。
『……朱里。左だ。顎を狙え』
「了解です、蓮司さん!」
私は闇の中、正確に桐生の胸倉を掴み上げた。
「……お風呂の覗きを検討するような男に、負けるわけにはいかないのよ!」
「……おい、朱里。その話は今関係ないだろ」
脳内のツッコミを無視して、私は桐生を壁に叩きつけた。
その時。 桐生の懐から、一通の封筒が落ちた。
そこには、見覚えのある『青い蛇』の紋章が刻印されていた。




