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5話:鼓動が止まった朝


雨。 あの日も、今日と同じような、すべてを灰色に塗り潰すような雨が降っていた。


事務所を追い出されてから、丸一日。 私は泣き疲れて、ワンルームの自室で泥のように眠っていた。 枕元で、スマホが激しく震え出すまでは。


画面に表示されたのは、橘慎一の名前。 蓮司さんの同級生で、私の唯一の理解者。


「……はい、橘さん。……すみません、昨日あんなことになって……」


謝ろうとした私の言葉は、受話器の向こうから聞こえてきた音で凍りついた。 荒い呼吸。激しい雨音。 そして、今にも壊れそうな、橘さんの震える声。


『……朱里さん、落ち着いて聞いてくれ』


「え……?」


『……蓮司が、死んだ』


一瞬、何を言われたのか理解できなかった。 頭の中が真っ白になり、スマホを握る指から力が抜けていく。


「……嘘。嘘ですよ。だって、昨日あんなに元気に私を怒鳴ったんですよ? 荷物だってあんなに乱暴にまとめて……あんなに、あんなに……」


『国立病院の地下だ。……今すぐ、来てくれ』


雨の中をどうやって走ったのか、覚えていない。 タクシーを拾ったのか、自分の足で走ったのか。 気付いた時には、私は消毒液の匂いが鼻を突く病院の廊下に立っていた。


「橘さん!!」


廊下の突き当たり。 壁に背を預け、ずるずると座り込んでいる橘さんの姿があった。 パリッとしていたはずのスーツは雨でびしょ濡れで、その顔は、まるですべての魂を抜かれた抜け殻のようだった。


「……あの中だ」


橘さんが指差したのは、霊安室の重い扉だった。 部屋の中は、冷蔵庫のような冷気に包まれていた。 中央の台の上に、白い布を被せられた何かがある。


橘さんが震える手で、その布を捲った。


「…………っ」


そこにいたのは、驚くほど静かな顔で横たわる蓮司さんだった。 昨日、あんなに冷酷に私を突き放した時の、あの鋭い瞳は閉じられている。 まるで、ただ深い眠りについているだけのような、穏やかな顔。


「……死因は、心不全だそうだ」


橘さんの声が、虚ろに響く。


「外傷も、毒物も検出されなかった。だが、遺体を引き上げたのは九条家の裏手にある川だ。……不自然すぎる自然死。警察は、そう呼ぶ」


私は震える手で、蓮司さんの右手に触れた。 冷たい。 氷のように、命の熱を失った肉体の感触。


「……謝らせても、くれないの?」


涙が、止まらなかった。 昨日、あんなにひどいことを言われて。 本当は、彼が私を守るために嘘をついていることくらい、心のどこかで分かっていたのに。 いつか、ちゃんと仲直りして、バカ助手って呼んでもらえる日が来るって信じていたのに。


「蓮司さん……起きてください。嘘だって言ってよ……!」


私は、自分の能力【魂の断片】を、藁にもすがる思いで発動させた。 いつもなら、死者に触れればその最期の記憶が視える。 彼の死の瞬間を、彼を殺した犯人を、この目で確かめてやる。


けれど。


「…………え?」


何も、視えない。 何も、聴こえない。 視界は真っ暗なまま。 ただの無が、そこにあるだけ。 まるで、彼の魂そのものが、そこには最初から存在しなかったかのように。


「……朱里さん。どうしたんだ?」


「いない。……いないんです、橘さん。蓮司さんの魂が、どこにもいないの……!」


私の絶望的な叫びに、橘さんの顔が驚愕に染まる。 霊感探偵として、私は直感していた。 彼の魂は、犯人の手によって、この世界のどこにも残らないほど粉々にされたのだ。 死んでから霊として現れることさえ、許されない。 そんな、あまりに残酷な完全なる消滅。


「……あいつ、一人で全部抱えて……」


橘さんが、壁を拳で叩いた。 「俺が……俺がもっと早く、同級生の異変に気付いていれば……!」


雨音だけが、霊安室の沈黙を支配していた。 私は冷たくなった蓮司さんの手を、自分の頬に押し当てた。


(ごめんなさい。守れなかった。……私が、もっと強ければ)


自分を一生許さない。 この喪失感と悔しさを、生涯抱えて生きていく。 私は心の中で、自分自身に呪いをかけるように誓った。


――はずだった。


『……おい。いつまで回想に浸ってる、バカ助手』


不機嫌そうな、聞き慣れた声。


現在の暗い実験室。 私の脳内に直接響くその声に、私は目を見開いた。


「……蓮司、さん?」


『あぁ、そうだ。魂を粉々にされた? 誰にそんなデタラメを吹き込まれた。俺はな、粉々にされたふりをして、お前の家の位牌にダイブしたんだよ。合理的だろ?』


……この人。 感動の再会だというのに、相変わらず一言多い。


『橘がもうすぐそこまで来ている。……桐生の後ろ、30センチ。そこに俺の霊力が溜まっている。……朱里、俺の声を合図に、ありったけの熱を放て』


位牌から溢れ出した青い光が、私の拘束された手首に絡みつく。 熱い。 これが、蓮司さんの魂の温度。


「……わかっています。蓮司さん」


私は顔を上げ、目の前で余裕をぶっこいている桐生を睨みつけた。


「……お前が、蓮司さんの魂を弄んだ罰だ。……きっちり、受けてもらうわよ」


私の瞳に、かつてないほどの青い炎が宿る。

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