4話:残酷すぎる「解雇通知」
外は、しとしとと嫌な雨が降っていた。 九条家の屋敷であの男と対峙した、あくる日の朝。
私は一睡もできないまま、腫れた目をこすって事務所のドアを開けた。 昨夜の恐怖が、まだ指先にこびりついている。あの赤い視線。死者さえも逃げ出す、底知れない闇。
(……蓮司さんに、謝らなきゃ)
私の力が足りなかったせいで、彼は危険な目に遭った。 そう思いながら、私はいつものように「おはようございます」と言おうとして――言葉を失った。
事務所の中が、荒れていた。 私のデスクにあった文房具、資料、愛用していたマグカップ。 それらがすべて、段ボール箱に乱雑に詰め込まれていた。
「……蓮司さん? これ、何なんですか?」
部屋の奥。 デスクで書類を整理していた蓮司さんが、ゆっくりと顔を上げた。 その瞳は、昨日までの彼とは別人のように冷たく、硬い。
「起きたか。……手間が省けていい。お前はもうクビだ」
心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。
「……え? 冗談ですよね、蓮司さん」
「冗談に見えるか? お前の荷物はそこにまとめてある。今すぐ、この事務所から出ていけ」
蓮司さんは一度もこちらを見ようとせず、淡々と事務作業を続けている。
「どうして……っ。昨日の失敗のことなら、謝ります! もっと修行して、霊感に飲み込まれないようにしますから……!」
「違うな。勘違いするなよ、朱里」
蓮司が椅子を回し、私を真っ直ぐに射抜いた。
「お前のその霊感は、もうビジネスの邪魔なんだよ。九条家の件で確信した。お前の能力は、呼び寄せるんだ。俺たちが到底扱いきれない、ヤバい連中をな。……俺は探偵だ。リスクが高すぎる案件は、切り捨てるのが合理的だ」
嘘だ。 そんなの、蓮司さんの言葉じゃない。
「橘にも、もう伝えてある。朱里は使い物にならないから、別の協力者を探せとな」
「橘さんまで……。そんな、嘘……っ!」
「……くどいぞ。さっさと消えろ。二度と俺の前に現れるな」
彼は私の腕を乱暴に掴むと、そのまま入り口へと引きずっていった。 抵抗する間もなく、私は雨の降る廊下へと押し出される。
バタンッ!!
重い鉄の扉が、私の目の前で閉ざされた。 鍵が閉まる、無機質な音。
「蓮司さん! 開けてください! 蓮司さん!!」
ドアを叩き、叫び続ける。 けれど、中からは何の反応もない。 私の荷物が入った段ボール箱だけが、足元に虚しく転がっていた。
「……っ、うぅ……ああああ……っ!」
私はその場に崩れ落ち、声を上げて泣いた。
……けれど。 閉ざされたドアの向こう側で。 蓮司は、血が出るほど強く拳を握りしめていた。
「……これで、満足か」
部屋の隅、影の中から一人の男が歩み出た。 警視庁の橘慎一だ。
彼は蓮司の大学時代からの同級生であり、唯一の親友。 「あぁ。……あいつをこれ以上、このヤマに関わらせるわけにはいかない」
「……お前らしいよ。相変わらず、やり方が不器用で、残酷だ」
橘は、親友である蓮司の横顔を痛ましげに見つめた。 二人は同級生として、これまで数多の修羅場を共に潜り抜けてきた。 だからこそ、橘にはわかっていた。 蓮司が今、自分の心を引き裂きながら、あえて泥を被っていることを。
「橘。……あいつを、頼むぞ」
「……あぁ。わかってる。お前との約束だ」
蓮司は、デスクに置かれた赤い光が写った写真を見つめた。 国家の禁忌。 彼は一人で、その巨大な闇に立ち向かい、朱里だけは光の世界へ逃がそうとしていた。
(ごめんな、朱里。……お前は、俺の最高の相棒だったよ)
それが、私が生前の彼と交わした、最後の日だった。
――そして、現在。
「……う、あ……」
私は激しい頭痛とともに目を覚ました。 手首には食い込むような縄。 周りを見渡すと、そこは窓一つない、冷気が漂う実験室のような場所だった。
「目が覚めたかね。御影朱里くん」
目の前に立っているのは、桐生勝己。 その手には、あの黒い位牌が握られていた。
「返して……。蓮司さんを、返して……!」
「これかい? 残念だが、彼はもう限界だ。……見てごらん」
桐生が位牌をこちらに向けた。 そこから漏れ出していた青い光は、もう指先ほどの大きさしかなく、今にも消え入りそうに明滅している。
半径25メートル。 その境界線を、桐生は力ずくで超えさせようとしていた。
「やめて!!」
私は絶叫した。 その時――。
脳内に、懐かしい、最高に口の悪い声が直接響いた。
『……おい、朱里。いつまで泣いてる。ブサイクな顔が、さらに酷くなってるぞ』
「……っ! 蓮司、さん……?」
『聞こえるか。……今、橘がこっちに向かっている。あいつ、同級生の俺を使い走りにしやがって……』
位牌の奥で、消えかかっていた青い光が、かつてないほど激しく爆発した。
『3秒だけ、俺に体を貸せ。……俺の助手に手を出すリスク、そこの男に教えてやる』




