最終話:25メートルの永遠
虚無の深淵。桐生勝己という「演算の神」が作り上げた、色彩も温度も持たない白と黒の世界。
私たちは、その中を黄金の光を纏って疾走していた。
「……朱里! 左だ。座標・虚数軸302。そこに桐生の意識の揺らぎがある。……全速で供給を回せ。1秒でも遅れれば、俺たちは情報の塵となってこの世界の一部に再構築されるぞ!」
蓮司さんの叫びが、私の魂に直接響く。
私は、彼の腕を掴んだまま、内側にある黄金の泉を文字通り空っぽにする勢いで解放した。
「――わかってます! 蓮司さん、私の背中から絶対に離れないで!」
「……フン。言われずとも。……俺の心拍はお前の隣でしか刻まれないようにできている。……不自由極まりないが、今はそれが最強の矛だ!」
桐生が放つ、空間そのものを消去するデリート・ウェーブが、私たちの25メートルの聖域に衝突する。しかし、どんなに巨大な無の嵐であっても、父・一真が遺したこの境界線だけは、1ミリたりとも浸食することはできなかった。
1. ロジックの終焉
『――理解不能だ。……なぜだ、工藤くん。御影朱里。……なぜ、個としての境界を捨て、一つに溶け合うことを拒む。……その25メートルという呪縛がある限り、君たちは永遠に他者であり、永遠に孤独なはずだ』
巨大な立方体の表面に、桐生の歪んだ顔がいくつも浮かび上がる。
「……あぁ、その通りだよ、桐生」
蓮司さんが、虚空に浮かぶ数式の断片を指先でなぞり、不敵に笑った。
「俺たちは他者だ。……だからこそ、信じることに価値がある。……孤独を知っているからこそ、隣にいる奴の体温を、ロジックを超えた奇跡として受け入れられるんだよ。……お前の作った完璧な世界には、その不確かさという最高に美しいノイズが欠けている!」
蓮司さんが、虚空から引きずり出したシステムの脆弱性を私と橘さんに指し示した。
「……今だ、橘! お前の拳で、この完璧な嘘に終止符を打て!」
2. 三位一体:究極の執行
「――了解だ、蓮司! ……朱里さん、俺の全部を、あんたの光に乗せてくれ!!」
橘さんが、実体化した全身を黄金の炎へと変えた。九条の血が持つ浄化の力と、朝比奈の血が持つ守護の力が、私の器の中で一つに混ざり合う。
蓮司さんの冷徹な計算が、敵の核を射抜く。
橘さんの熱い拳が、世界の壁を突き破る。
そして私の祈りが、すべてを明日へと繋ぎ止める。
「――還れ!! 絆を知らぬ、虚空の神よ!!」
「九条・朝比奈流――終焉の境界線!!」
ドォォォォォォォォォン!!
黄金の閃光が、虚無の立方体を真っ二つに叩き割った。
桐生が管理しようとした膨大な魂のデータが、清らかな光となって一気に現世へと溢れ出していく。
『……不合理だ。……最後に残るのが、……数式にもならない……ただの、感情だとは……』
桐生の顔が、データの塵となって消えていく。その最期の表情には、皮肉にも、ようやく「理解」に辿り着いたかのような、安らかな笑みが浮かんでいた。
3. エピローグ:25メートルの日常
それから、3ヶ月後。
新宿の街は、あの大騒動が嘘だったかのように、いつも通りの喧騒を取り戻していた。都庁に現れた門のことは、今や集団幻覚や大規模な光学現象として語り草になっている。
工藤探偵事務所。
埃っぽさは相変わらずだが、窓から差し込む午後の光は、以前よりもずっと穏やかだ。
「……おい、朱里。25メートル1センチだ。離れすぎだ、修正しろ。俺の心筋が、お前の不注意によってまた不整脈の準備を始めたぞ」
ソファに座り、高い豆で淹れたコーヒーを啜りながら、蓮司さんが不機嫌そうに言った。
「もう、蓮司さん! さっきから1センチ単位で文句を言わないでください。私は今、お母さんの工房に届ける荷物をまとめてるんですから!」
「フン。……お前の母親は『一真の遺品を直すのに忙しい』と言って、俺へのメンテナンス料の手伝いすら拒否した。……まったく、御影の女はどいつもこいつもしつこい」
蓮司さんは毒を吐きながらも、なぜか満足げに、父・一真が遺した古い資料に目を通している。
桐生のシステムは消えたが、蓮司さんの心臓は、今も私の霊力に依存している。……けれど、それはもう呪いではなく、私たちが共に生きるための約束になっていた。
「はは……。二人とも、相変わらずだね。……あ、朱里さん、俺はそろそろ警視庁へ行くよ。新しい事件の資料が届いているんだ」
事務所の隅で、実体化した警察手帳を磨いていた橘さんが立ち上がった。
幽霊刑事、橘慎一。彼は今や、警察庁特別捜査官として、この霊的戦国時代を鎮めるための最前線に立っている。
「頑張ってください、橘さん! 今日の夕飯は、3人で食べましょうね」
「あぁ、楽しみにしてるよ。……それじゃ、蓮司、また後で。……あ、25メートル、気をつけてな」
「……背景ノイズが喋るな。さっさと行け」
橘さんが笑いながら壁を通り抜けていく。
私は、窓の外に広がる新宿の空を見上げた。
かつては「化け物の棲む街」だと思っていたこの景色が、今はとても愛おしく感じる。
「……ねえ、蓮司さん」
「なんだ」
「……この25メートル。……私、全然、不自由じゃないです」
蓮司さんは一瞬、コーヒーカップを止め、眼鏡を押し上げた。
「……当たり前だ。……俺のロジックでは、これが最適解なんだよ。……一生、俺の隣で供給を続けろ、無能助手」
「……はいはい、天才探偵様!」
私は、一歩だけ彼に近づいた。
不自由で、欠陥だらけで、けれど世界で一番愛おしい境界線。
私たちの25メートルの物語は、これからも、この新宿の空の下で続いていく。




