第36話:虚無のロジックと、25メートルの聖域
視界が白と黒の幾何学模様に塗りつぶされる。
都庁展望台からゲートの深淵へと飛び込んだ私たちが辿り着いたのは、上下左右の概念さえ存在しない、薄気味悪いほど静寂な虚無の空間だった。
かつての新宿のビル群は、まるで粉砕されたハードディスクのデータのように断片化され、虚空に漂っている。アスファルトの破片、折れ曲がったガードレール、そして誰かのスマートフォン――それらが質量を失い、不気味に回転していた。
「……っ、げほっ、……はぁ、……ここ、は……。空気が……データの味がする……」
私は、隣で荒い呼吸を繰り返す蓮司さんの腕を必死に掴んだ。
彼の心拍が、25メートルの境界線の内側であるにもかかわらず、かつてないほど激しく、不規則に乱れている。蓮司さんの指先を見れば、そこには実体としての肉体ではなく、デジタルノイズのような砂嵐が混じり始めていた。
「……ふん。……最悪だな。……物理法則が、あいつのロジックに完全に書き換えられている。……おい朱里、……お前の顔がさっきからテクスチャ剥げを起こしているぞ。……しっかり俺にパスを繋げ、このバカ助手」
「蓮司さんこそ、眼鏡が割れて……いえ、眼鏡が半分消えてますよ! 冗談言ってる場合じゃないですって!」
「ここだ。……だが、身体の存在確率が安定しない。……まるで、誰かに消しゴムで消されているみたいだ」
橘さんが、古いフィルム映画のように激しく明滅していた。この空間では、幽霊である彼の存在さえも、桐生のサーバーが下す「不要なデータ」という判定一つで消滅しかねないのだ。
1. 演算する神:桐生勝己の完成
『――不合理だと言ったはずだ。工藤くん、そして朱里くん』
空間全体から、直接脳に響くような、感情を削ぎ落とした声がした。
虚無の彼方から現れたのは、もはや人の形を捨てた巨大な光り輝く立方体。
その立方体の中央には、かつての面影を残した桐生の顔が、データの奔流の中に浮かび上がっていた。
『私は今、日本全土の魂を一つの完璧な回路へと統合した。悲しみも、迷いも、そして君たちの言う不自由な絆も、すべてはこの立方体の中で最適化される。……25メートルの境界線という不確実な呪いも、ここで消去してあげよう』
立方体から放たれた黒い数式の鎖が、物理的な衝撃を伴って私と蓮司さんの間を強引に引き裂こうとする。
「……あ、……っ、蓮司さんが……遠くなる……!」
「……しま、……っ、朱里!!」
指先が離れる。
黄金の霊力パスが引きちぎられようとしたその時、蓮司さんのバイタルが急落した。彼の心臓――私の霊力で無理やり動かしていた欠陥品が、供給を絶たれて停止しようとしている。
「――っ、ダメ!! 蓮司さん!!」
『論理的な死を受け入れなさい。絆など、距離という変数一つで崩壊する脆い定義だ。……さあ、御影朱里。君も私のシステムの一部となり、永遠の静寂を得るがいい』
2. 境界線の真実:父が遺した聖域
(……負けない。……お父さんが、私に託した力を……この胸の暖かさを信じるんだ!)
絶望の底で、私は胸元の黄金の結晶を、心臓が潰れるほど強く握りしめた。
すると、結晶から父・一真の声が、かつてないほど鮮明に、祈りのように響き渡った。
『――朱里。そして蓮司くん。……よく聞きなさい。その25メートルは、呪いではない。……私が最後に施した、世界で最も強固な聖域だ』
「……聖域、……?」
『御影の生成する光と、朝比奈の抑え込む影。相反する二つの力がその距離を保つとき、そこには神の演算さえも書き換えられない、不変の領域が生まれる。……それは、どんな論理でも割り切ることのできない、愛という名の定数だ』
結晶から放たれた光が、引き裂かれようとしていた私と蓮司さんの間を、再び黄金のケーブルとなって繋ぎ直した。
桐生が展開する虚無の数式が、その光の鎖に触れた瞬間に霧散していく。
「……なるほどな。……朝比奈一真、お前の親父は……とんでもないロジックの天才だよ」
蓮司さんが、再び私の手を、今度は指が折れるほど強く握り返した。
「朱里と俺の絆は、この25メートルという半径の内側にある限り、宇宙がひっくり返っても書き換えられない『絶対不変の定数』として定義されている。……この領域内では、桐生、お前のどんな演算も通用しない。ここは、お前のシステムが干渉できない、俺たちだけの聖域だ」
蓮司さんの頬のノイズが消え、瞳には死の淵から舞い戻った者特有の、底冷えするような闘志が宿っていた。
3. 三位一体の宣戦布告
「……桐生。お前のシステムには、致命的な欠陥がある」
蓮司さんは立ち上がり、割れた眼鏡を捨て、その鋭い視線で巨大な立方体を射抜いた。
「お前は完璧を求めるあまり、この25メートルという、不自由で、欠陥だらけで、けれど何があっても揺るがない祈りを、計算式に入れ忘れたんだ。……それは、お前のスパコンを何度回しても導き出せない、最高のイレギュラーだ」
「……あぁ、その通りだ。……俺も、やっとこの力の使い方が分かった気がするぜ。……朱里さん、供給を最大に! 俺の拳に、こいつの冷たい計算をぶっ壊すだけの熱をくれ!」
橘さんが、黄金のパスを全身に纏い、眩いばかりの実体となって前に出る。
「――桐生勝己! あなたの作った偽物の世界なんて、私たちの最高の絆で、今度こそデリートしてあげる!」
私の叫びと共に、虚無の空間に黄金の旋律が響き渡る。
25メートルの聖域を盾に、私たちは演算の神に挑むべく、その深淵を駆け抜けた。




