第35話:解放の旋律、明日への境界線
地上202メートル。都庁展望室の空気は、もはや酸素よりも殺意と霊素の濃度の方が高かった。
無数のケーブルに拘束された赤い香水の女王が苦悶の叫びを上げるたび、展望室の強化ガラスがビリビリと悲鳴を上げ、赤い霧が津波のように私たちへ押し寄せる。
「……っ、供給が逆流する……! 蓮司さん、これ、女王の悲しみが直接流れ込んできて……!」
「……耐えろ、朱里! 脳内のニューロンを情報の荒波にさらされるな。お前の父親が遺した旋律を、ノイズキャンセラーとして機能させろ!」
蓮司さんは、計器が爆発しそうなコンソールに片手をかけ、もう片方の手で私の肩を強く抱き寄せた。
25メートルの境界線なんて関係ない。今、私たちの魂は一つの回路として繋がっている。
「……ふん。桐生、これが貴様の合理か。一人の女性の魂をすり潰して、システムの潤滑油にする。そんなガラクタのような世界、俺のロジックが塵一つ残さず否定してやる!」
『否定かね? 工藤くん。君たちが信じる絆や愛こそが、この国に無駄な怪異を生み出し続けてきた病根なのだよ』
桐生勝己が指を鳴らす。
瞬間、天井から巨大な人造の腕が降り注ぎ、私たちを物理的に圧殺せんとした。
「――させるかよ! ここは俺が、正当なる執行人として通させてもらうぜ!」
橘さんが地を蹴り、黄金の霊力を纏った拳で鋼鉄の腕を正面から殴り飛ばした。火花と霊素が散る。
1. 女王の記憶:赤い香水の真実
私が父・一真の結晶を強く握りしめると、女王の叫びと私の意識が、光速を超えてシンクロした。
(……暗い。……寒い……。誰か……私を見つけて……)
脳裏に溢れ出したのは、かつて九条家に仕えていた一人の巫女の記憶。
彼女は、九条家が溜め込んだ「汚れ」を一身に引き受けるための、生きたゴミ箱として扱われていた。名前も、顔も、未来も奪われ、ただ赤い香水を浴びせられ、腐敗した霊素を閉じ込めるための器にされた女性。
(……憎い。……壊したい。……でも、本当は……ただ、人として消えたかった……)
「……そう、だったんだね。……ごめんなさい、気づけなくて」
私は、自分と同じ器として利用されてきた彼女の孤独を知り、涙が溢れた。
彼女は世界を滅ぼしたいのではない。自分をこんな形に変えたシステムから、ただ解放されたかっただけなのだ。
2. 最終連携:魂のデバッグ
「蓮司さん! 女王の核が見えました! あれは憎しみじゃない、九条が埋め込んだ拘束具です!」
「……了解だ。橘、座標を送る。北緯35度、仰角42度。女王の胸元にある赤い結晶がシステムの同期点だ。……朱里、お父さんの旋律を全出力で流せ! 桐生の支配波形を、愛のノイズで叩き潰すぞ!」
「――了解!! 黄金の器、解放!!」
私は内側にある泉の底を抜き、全霊力を父の旋律に乗せて放った。
展望室を黄金のさざ波が満たし、桐生の管理システムを次々とショートさせていく。
「――還れ、九条の呪縛から!! 九条流・深淵送り!!」
橘さんの拳が、女王の胸元を貫いた。
破壊ではない。
父の旋律によって柔らかくなった拘束を、優しく解き放つ最後の一撃。
パリィィィィィィィン!!
都庁を覆っていた赤い霧が、一気に黄金の光へと反転した。
女王の身体を縛っていたケーブルが弾け飛び、彼女の異形だった姿が、ゆっくりと、透明な人間の女性の姿へと戻っていく。
『……あ……りが……とう……』
彼女は、かつての巫女のような穏やかな微笑みを浮かべ、夜空の彼方へと消えていった。
怪異の女王は、もういない。
残されたのは、ただの空虚なシステムと、その中に佇む一人の男だけだった。
3. システムの崩壊と、桐生の残響
「……チッ。計算外だな。朝比奈一真の旋律が、ここまで女王の根源に干渉するとは」
桐生が、火花を散らすコンソールを冷ややかに見つめていた。
人工門は崩壊し、都庁を支配していた霊的圧力は急速に霧散していく。
「……終わりだ、桐生。お前の管理は、人間の……いや、怪異の心を見誤った。ロジックの敗北だな」
蓮司さんが、肩で息をしながらも、不敵に笑って眼鏡を正した。
『敗北? いいや、工藤くん。これは次のフェーズへのプロセスに過ぎない。女王という電池が失われたのなら、もっと純粋な力を直接引きずり出すまでだ』
桐生の手が、自らの胸元にある緊急停止用に見せかけたボタンを押した。
その瞬間、崩壊しつつあった都庁の塔が激しく震え、門が逆方向に開き始めた。
「……何!? 門が……閉じないのか!?」
『怪異を管理できないのなら、世界そのものを怪異と融合させるまでだ。さらばだ、欠陥品諸君。地獄の底で、私の完成を見届けるがいい』
桐生の姿が、吸い込まれるように闇の中へ消えていく。
崩れゆく都庁展望台。
「……蓮司さん、橘さん! 屋上が崩れるわ! 逃げなきゃ!」
「……逃げる? 冗談じゃない。あいつが門の向こう側へ行ったなら、追いかけるまでだ。おい、朱里。しっかり俺に掴まっておけ。25メートルなんて、もう気にしなくていい。地獄の果てまで、お前と心中してやるよ」
「……もう、蓮司さん! 死ぬ前提で喋らないでください!」
私たちは、崩落する床から、開き続ける闇の深淵へと飛び込んだ。
父が遺した光と、私たちが築いた絆。
そのすべてを賭けた、本当の最終決戦へ。




