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第30話:一真の旋律と、空虚なる合成獣(キメラ)


 朝比奈本邸の広間は、一瞬にして底なしの沼へと変貌した。  床から溢れ出した黒い泥が、のたうつ蛇のように私たちの足元を侵食し、不気味な形を成していく。それは、何千もの死者の顔が表面に浮き沈みする、巨大な**合成怨霊キメラ・ゲイスト**だった。


「……うげっ、何これ。九条のゴミって、文字通り詰め込みすぎて発酵してるじゃないですか! 蓮司さん、ぼーっと分析してないで避けてください! その泥、霊的に強酸性ですよ!」


 私は、泥に足を捕られそうになってよろめいた蓮司さんの腕を、強引に引っ張った。修行の成果か、今の私にはこの程度の重圧なら、強引に振り払うだけの馬力がある。


「……わかっている。分析せずにはいられないだけだ。……桐生、貴様はこれを資源と呼ぶのか。これはただの、死者の尊厳を無視したデータの継ぎ接ぎだ。ロジック以前の、おぞましい冒涜だな」


 毛布にくるまったまま、蓮司さんが吐き捨てるように言った。その瞳は、泥の海から立ち上がる異形の怪物を冷徹に射抜いている。


「ふん、俺の靴の心配より自分の霊圧を心配しろ、朱里。お前の供給パスが揺らぐたびに、俺の心筋はジェットコースター並みの負荷を強いられているんだ。お前が俺を殺すのと、この化け物が俺を食うの、どちらが早いか賭けてみるか?」


「賭けません! 二人まとめて生きて帰る一択です!」


「……はは……。景気がいいね。……朱里さん、供給を回してくれ。こいつの『結び目』は俺が解く!」


 橘さんが、実体化した拳を固めて前に出る。だが、それを嘲笑うように、屋敷の管理人の老婆が杖を床に叩きつけた。


1. 管理者の狂気と、奪われる霊力

「無駄だよ。……この屋敷そのものが、朝比奈が数百年かけて作り上げた霊的濾過器フィルターなのだからね!」


 老婆の叫びと共に、屋敷の四方の壁に埋め込まれた不気味な吸引口が赤く発光した。  その瞬間、私の身体から黄金の霊力が、掃除機で吸い取られるように無理やり引き出されていく。


「……あ、……っ、身体が……重い……!」


「朱里!?」


 膝から崩れ落ちそうになる私。  視界の端で、ホログラムの桐生勝己が、手元の端末に表示されるグラフを満足げに眺めていた。


『素晴らしい、朱里くん。君の純粋な霊力が、朝比奈のゴミと混ざり合うことで、負のエネルギーが急速に中和されていく。……データは嘘をつかない。君がこのままこの屋敷のコアになれば、日本から怪異という無駄な概念は消滅し、完璧な管理システムが完成するのだよ』


「……勝手な、ことを……。誰が、あんたの、歯車に……!」


 私は、床に両手をつき、必死に霊力の流出を抑えようとした。  その時。私の黄金の光が床の木目に染み込み、ある「古い紋章」に触れた。


2. 父・一真の遺産

 ガガッ……ガガギィ……。


 屋敷の奥から、古い蓄音機が針を落としたような、ひどいノイズが響き渡った。  老婆が「何事だ!?」と目を見開く中、そのノイズは次第に、1人の男の声へと変わっていく。


『――朱里。この声を聞いているということは、お前は立派に育ち、そして……この忌まわしい呪縛に辿り着いてしまったのだな』


「……お父さん!?」


 それは、私の記憶の隅にある、優しくて少しだけ悲しそうな父・朝比奈一真の声だった。


『朝比奈の血は、奪うためのものではない。……還す(かえす)ためのものだ。九条が捨て、朝比奈が溜め込んだこの悲しみを解く鍵を、私はこの屋敷の旋律メロディに隠した。……蓮司くん、と言ったかな? 君の明晰な頭脳なら、この周波数の意味がわかるはずだ』


「……なんだと? 死んだ親父が、俺に指示を飛ばしているのか?」


 蓮司さんが驚愕に目を見開いたが、次の瞬間には、その脳細胞はフル稼働を始めていた。  屋敷の柱、床、天井から響く、不規則な振動。それは、合成怨霊の不協和音を打ち消すための、完璧なカウンター・メロディだった。


「……なるほどな。朝比奈一真、大したギャンブラーだ。……おい、朱里! ぼーっと泣いてる暇はないぞ。お父さんの声をなぞれ! お前の霊力を破壊ではなく、この調和の旋律メロディに変換するんだ!」


「……わ、わかったわ! ――やってやる!!」


3. 三位一体の反撃:魂の帰還

 私は父の声を頭の中で反芻し、荒れ狂う黄金の霊力を、穏やかなさざ波のような波長へと書き換えた。   「……橘さん、指揮は任せました!」


「――あぁ! 九条の血を引く俺が、ここの全員を送り出してやる! ……九条流・魂の帰還ソウル・リターン!!」


 橘さんが、実体化した全身で黄金の波を纏い、合成怨霊の真ん中へと突っ込んだ。  暴力的な打撃ではない。父の遺した旋律に合わせて、怨念の結び目を一つずつ、優しく解いていくような一撃。


 シュアァァァ……ッ!!


 黒い泥が、瞬く間に清らかな白銀の光へと変わっていく。  死者の顔から苦痛が消え、光の粒となって天井へと昇っていく光景は、まるで真冬の夜に降る逆向きの雪のようだった。


「……あり得ぬ……朝比奈の資産が……システムの調和が……っ!」


 老婆が崩れ落ち、桐生のホログラムに激しいノイズが走る。


『……イレギュラーだ。朝比奈一真、死してなお、私の合理を否定するか。……だが、朱里くん。君がその血を選んだ以上、これから起こる分離の悲劇からも逃れられんぞ』


「分離……? 何の話よ!」


 桐生の像は答えず、不吉な笑みを残して消え失せた。


4. 地下への扉

 静寂が戻った広間。  合成怨霊が消え去った後、正面に掲げられていた巨大な肖像画が、重々しい音を立てて横にスライドした。  そこには、さらに深く、暗い場所へと続く隠し階段が姿を現していた。


「……行くぞ、朱里。お前の父親が、お前の母親――沙也加さんと何故別れ、何を隠したのか。その答えは、この下にある」


「……蓮司さん。……はい」


 私は蓮司さんの手を握り締めた。  25メートルの境界線を維持したまま、私たちはこの屋敷の、そして私たちの血の深淵へと足を踏み入れる。

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