3話:死者さえ震える「禁忌」の依頼
3話:死者さえ震える「禁忌」の依頼
「……おい、朱里。ぼーっとするな。仕事中だぞ」
その声で、私は意識を引き戻した。 一ヶ月前。まだ蓮司さんが「生きていた」頃の記憶。 今思えば、あの日がすべての終わりの始まりだった。
警視庁からの次の極秘依頼。 それは、ある名家で起きた変死事件だった。
「……ここ、ですか?」
「あぁ。世田谷の九条家だ。政財界に太いパイプを持つ、化け物みたいな家系だよ」
目の前にそびえ立つのは、高い塀に囲まれた広大な屋敷。 都会のど真ん中とは思えないほど、そこだけが周囲の喧騒から切り離され、異様な静寂に包まれている。
門を潜った瞬間。 私の背筋に、氷を直接押し当てられたような悪寒が走った。
「っ……!」
「どうした、朱里」
「……蓮司さん。ここ、おかしいです。誰も、いないの」
いつもなら、変死現場には未練を残した被害者の霊や、現場に居合わせた浮遊霊たちが漂っている。 私の目には、それがノイズのように映るのが常だった。
なのに――。 この広大な屋敷には、霊の一体すら存在しない。 いや、違う。
「……何かに怯えて、隠れてるんだわ」
霊たちが、その存在を消してまで逃げ出そうとしている。 死者さえも震え上がる何かが、この屋敷の奥に潜んでいる。
「……ほう。霊が見当たらない、か」
蓮司さんは眉を寄せ、顎に手を当てた。 彼の鋭い瞳が、屋敷の二階、重厚なカーテンが閉め切られた一室を射抜く。
「朱里、無理をするな。……橘、この件、バックに宗教団体か特権階級が絡んでるぞ。ただの殺人事件じゃない」
横に立つ橘さんに、蓮司さんが低く告げる。 橘さんも、いつになく真剣な表情で頷いた。
「わかってる。上層部からも『一切の記録を残すな』と釘を刺されているんだ。だが、被害者は九条家の次期当主。……中に入ろう」
私たちは、重い玄関の扉を開けた。 屋敷の中は、外よりもさらに冷え切っていた。 埃一つ落ちていない廊下。けれど、空気は腐敗したような重苦しさを孕んでいる。
「二階の書斎だ。そこで当主が……『溶けていた』らしい」
橘さんの言葉に、私は生唾を飲み込む。 霊感探偵の助手として、悲惨な現場は何度も見てきた。 でも、今回は違う。 本能が、一歩先へ進むことを拒絶している。
「朱里、俺の後ろを歩け。一歩も離れるなよ」
蓮司さんが、私の手を強く引いた。 彼の大きな手のひら。その熱だけが、唯一の救いだった。
書斎の前に着く。 蓮司さんが静かにドアを開けた。
「…………っ!」
鼻を突くのは、強烈な花の香りと――それ以上に鋭い、鉄錆のような血の匂い。 部屋の中央。高級な絨毯の上に、それはあった。
人間だったはずの塊。 肉も骨も、まるで強力な酸を浴びせられたように崩れ、ドロドロの液体となって床に広がっている。
「……う、えぇっ……」
「朱里、見るな!」
蓮司さんの声が飛ぶが、遅かった。 私は無意識に、その塊の中に残る魂の残滓を捉えてしまった。
能力【魂の断片】が、私の意志を無視して発動する。 強制的な記憶の流入。
(――熱い。痛い。違う、これは『私』じゃない。何かが、入ってくる。光。赤い、光が――!)
「あ、が……あああああッ!!」
視界が、真っ赤に染まる。 それは被害者の記憶じゃない。 その場にいた誰かの、底知れない殺意。
その時だった。 部屋の隅。影の中に、それがいった。
霊ではない。 実体を持った、生きている人間の気配。 だが、その瞳に宿る光は、およそ人間が持っていいものではなかった。
「……逃げろ、朱里! 視るんじゃない!」
蓮司さんの叫びが、廃屋のような沈黙を切り裂いた。 暗闇から伸びてくる、赤い視線。 それは私を貫き、魂の奥底まで暴こうとする。 まるで、私の能力そのものを喰らい尽くそうとするかのように。
「……見つけた」
低く、無機質な声。 その男が影から一歩踏み出した瞬間。
蓮司さんが私の前に立ちはだかった。
「そこまでだ。……警視庁の特務室か、それとも――」
蓮司さんの声に、かつてないほどの緊張が走る。 私の意識はそこで途切れ、激しい耳鳴りとともに深い闇へと落ちていった。
「……朱里! 起きろ、朱里!」
激しい揺さぶりで、私は目を覚ました。 そこは、現在の工藤探偵事務所――だった場所。 割れたガラス。立ち込める煙。 私は、桐生勝己の手によって、無理やり車へと押し込まれようとしていた。
「……れん、じ……さん……」
手が届かない。 デスクに置かれた位牌。 そこから立ち上っていた青い光は、もう消えかかっている。
「――半径25メートル」
その呪いのような制約が、今の私を絶望させる。 距離が離れれば、蓮司さんは消える。 私を守ってくれた、あの温かい魂が、永遠に失われてしまう。
「……工藤くんの遺した宿題は、私が引き継ぐよ」
桐生が、私の耳元で冷たく囁いた。 その瞳は、あの日、あの屋敷で見つめてきた赤い視線と同じ色をしていた。
「やめて……っ、蓮司さんを……消さないで!!」
私の叫びは、車のドアが閉まる鈍い音にかき消された。 走り去る黒塗りの車。
事務所に残されたのは、主を失い、冷たく転がる一つの位牌。 そして、親友を救えず、膝をつく橘慎一の姿だけだった。




