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第29話:凍てつく境界線と、朝比奈の傀儡


 新宿を出発してから3時間。  借り物の4輪駆動車は、標高を上げるごとに深くなる雪と霧に阻まれ、亀のような速度で山道を進んでいた。


1. 決意の道程:なぜ「罠」へ向かうのか

「……ねえ、蓮司さん。本当にいいんですか? 桐生の罠だって分かっていて、わざわざ向こうの指定した場所に乗り込むなんて」


 私はハンドルを握りながら、バックミラー越しに後部座席を見た。  蓮司さんは厚手の毛布にくるまり、真っ青な顔でタブレットを睨んでいる。


「……フン。罠だからこそ行くんだよ。桐生が『怪異管理法』を施行した今、俺たちは国内では実質的な指名手配犯だ。事務所で震えていても、いずれ特務室のドローンに焼き払われる。……それよりも、お前の父親――朝比奈宗一の行方だ。あいつが家業を捨ててまで守ろうとした『何か』が、この廃村にある。それを桐生より先に手に入れる。それが唯一のロジックだ」


「……理屈は分かりますけど、そんなに震えながら言われても説得力が……」


「……う、うるさい。……寒いんだよ。魂の定着率が低いせいで、外気温の影響をダイレクトに受ける。……おい、朱里。今すぐ車内の設定温度を35度まで上げろ。さもなくば俺の心臓は、この次のヘアピンカーブで凍結停止するぞ。これは業務上の命令だ」


「35度!? サウナじゃないんだから! 蓮司さん、それなら私の供給パスをもう少し熱めに調整しますから、我慢してください!」


「はは……。二人とも、相変わらずだね。でも、そろそろ漫才はおしまいだ。……空気が変わったよ」


 助手席で静かに目を閉じていた橘さんが、ゆっくりと目を開けた。  彼の身体が、瑠璃色の光を放ちながら微かに透ける。幽霊である彼は、周囲の霊的濃度の変化に誰よりも敏感だった。


2. 霞ヶ村:拒絶する廃村

 車を降りた瞬間、肺の奥まで凍りつくような冷気が私たちを襲った。  視界は数メートル先も見えないほどの濃霧。その霧には、焼けた肉のような、鼻を突く嫌な臭いが混じっている。


「……っ、何、これ。ただの霧じゃない……」


「あぁ。九条が捨てた霊的廃棄物……つまり、行き場を失った数万の怨念が、精製もされずにこの土地に沈殿しているんだ。……見てみろ。朝比奈の『歓迎』だ」


 霧の向こうから、カチカチと不自然な関節音を立てて、数人の影が現れた。  黒いスーツを着た男たち。だが、その顔には生気がなく、瞳は濁ったガラス玉のようだ。首筋には、不気味な黒い術式が血管のように浮き出ている。


「……『朝比奈朱里殿』、とお見受けする。遺産分与の儀、本邸にてお待ちしております」


 男たちの声が重なり合い、機械的な不協和音となって響く。


「……丁寧な出迎えだな。だが、その操り人形ゴーレムたちは合理的ではない。……朱里、供給パスを橘に回せ。……挨拶がわりの掃除だ」


「了解! ――橘さん、フルパワーで!」


 私が霊力の弁を解放すると、黄金の光が橘さんの身体に収束し、彼の輪郭を強固な実体へと変えていく。修行で得た「執行人」の力が、彼の拳に宿る。


「――悪いが、俺は『執行人』だ。……こんな歪んだ術で縛られている奴らを、放っておくわけにはいかないんでね!」


 橘さんが地を蹴る。  重力を無視したスピードで男たちの懐へ飛び込み、青白く発光する拳を心門に叩き込んだ。


『九条流・霊界門送れいかいもんおくり


 物理的な破壊ではない。術式の核を直接浄化する一撃によって、朝比奈の傀儡たちは、泥のように崩れ落ち、その中から解放された魂たちが、朝の光に溶けるように消えていった。


3. 朝比奈本邸:システムと血脈

 傀儡を突破した先に現れたのは、山の斜面に張り付くように建てられた異形の建築物――『朝比奈本邸』だった。  古い日本家屋を何度も増築し、継ぎ接ぎしたようなその姿は、まるで巨大な墓標のようにも見える。


「……っ。ここが、私の本当の家……?」


「あぁ。朝比奈一真が捨て、桐生勝己が目をつけた、この国最大のゴミ捨て場だ」


 蓮司さんは私の肩に手を置き、25メートルの境界線を維持しながら、屋敷の巨大な扉を見据えた。  ギギギ……と、重々しい音を立てて扉が開く。  エントランスの影から現れたのは、一人の老婆と、その傍らに浮かぶホログラムの映像だった。


『――ようこそ。工藤くん、朱里くん。……合理的な判断だ。逃げても無駄だと悟り、自らシステムの一部になりに来るとはね』


 ホログラムの主、桐生勝己が、銀縁眼鏡の奥で冷たく笑う。


「桐生……! 貴様、朝比奈家と何を企んでいる」


『企み? 私は「救済」を提言しているのだよ。朝比奈家が数百年溜め込んできたこの膨大な負の霊素を、朱里くんという最高の器に通して精製する。……成功すれば、日本は無限のエネルギーを手に入れ、怪異という不確かな脅威から解放される。……朱里くん。君のお父さんがこの家を逃げ出したのは、君がその歯車にされるのを恐れたからだ。……だが、運命からは逃げられない』


 老婆――朝比奈の管理人が杖を叩くと、床から黒い泥のような怨念が溢れ出し、私たちの足元を侵食し始めた。


「……冗談じゃないわ! 私、そんなことのために、ここに……お父さんのルーツを探しに来たんじゃない!」


「朱里、最大出力を維持しろ! ……桐生、お前のシステムとやらに、俺たちの欠陥がどれだけ通用するか……今から証明してやる!」


 黄金の霊力と、朝比奈の呪いが激突し、屋敷全体が悲鳴を上げるように震え出した。

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